長宗我部で、長浜まちあるき・・・2 若宮八幡宮
9月2日(木)、午後1時半に若宮八幡宮の元親公銅像前に集合して、
約2.5キロメートルのコース8箇所を、地元のガイド武田末男さん他の説明を受けながら、約2時間半かけて一周しました。
万歩計で計っていたご婦人の二人とも、7,500歩でしたと教えてくださいました。
長宗我部で、長浜まちあるき・・・1 元親公銅像(初陣の像)
第2回 土佐の鎌倉長浜と長宗我部史跡を歩く
平成22年10月16日(土)午後1時30分集合
集合場所 若宮八幡宮元親公初陣の像前広場
参加申し込み先 氏名・連絡先を記入し、前日までにFAX 088-842-1025 に
参加費 無料 募集人員 30人
連絡問い合わせ先 土佐の鎌倉長浜を歩く会 武田末男 携帯 090-6283-4217
①若宮八幡宮元親公初陣の像前広場から、どろんこ祭・神田横を通って、②若宮八幡宮に参拝しました。
高知県若宮八幡宮のHP
高知県若宮八幡宮 の記事
若宮八幡宮には、若者を中心とした全国的な取り組みを進めている長宗我部最高委員会や、高知の長宗我部ファンクラブなどが連携して署名を進めている、「長宗我部大河ドラマ化」の署名用紙がおいてあり、多くの方が署名をされていました。
尾崎知事も署名されていますよ!の声もありました。
11月22日桂浜荘(浦戸城址)で長宗我部セミナー「若者と語る!」・・・その1
土佐の鎌倉長浜と長宗我部史跡を歩く 資料
(地元のガイド武田末男さん作成)
② 若宮八幡宮
文治元年(1185)源頼朝が京都の石清水八幡宮の神霊御勧請し新たに、六篠若宮八幡宮を建て、その際土佐の国吾川郡南部一円を神領地に奉納し、神地鎮護の神として若宮八幡宮を建てている。祭神は、応神天皇、神功皇后、宗像の三女神の五体で、元親は戸ノ本合戦のおり、この神社に戦勝祈願し、以後出陣に際の戦勝祈願の社とした。
社殿は出陣にちなんで出蜻蛉式。トンボは勝虫と呼ばれ縁起が良いとされ、元親公が浦戸居城のおりは西の宮と称した。また、山内家も祈願八社の一社としている。
その後明治六年に郷社に、昭和五年に県社に昇格したが戦後には社格が無くなり、現在は宗教法人若宮八幡宮で四月初めには神田祭り(どろんこ祭り)が行われている。そのどろんこ祭りは、二代目藩主忠義公が領地視察のおり、早乙女が投げた苗の泥が顔に付いた事から始まっているもので現在では、神殿において踊りを奉納し、神田で田植えを行った後、だれ彼無く男の顔に泥を塗るもので、塗られた人は、その年病気はしないといわれている。
また、鳥居には云われがある。それは元親が豊臣秀吉の命を受け九洲に出陣する際、社殿に武運長久を祈りいざ出発の時、軍旗が鳥居の笠木にかかって墜落したそうである。家来達は、不吉であるとして、出陣を見合すよう進言したが、元親は、「これは敵を笠にかけて討つという吉祥の前兆である」として出陣した。ところが薩摩軍との戸次川の戦いで嫡子信親以下七百余人の戦死者を出して大敗したことから、帰国後元親は縁起が悪いとして取り壊したそうである。
以来280余年間鳥居は無い神社となっていたが、慶応元年(1865)の地震で鳥居の根石が現れたことから氏子達は「神の思し召し」と再建に立ち上がったもので、現在あるものは1980年に建て替えられたものである。
HN:サカチャン
11月23日長宗我部ツアー①若宮八幡宮・長宗我部元親公墓碑
長宗我部ツアー に関する記事
長宗我部ファンクラブ
HN:サカチャン さんの記事 (その1)は、こちら
HN:サカチャン さんの記事 (その2)
高知南ファンクラブ
桂浜ファンクラブ
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万歩計で計っていたご婦人の二人とも、7,500歩でしたと教えてくださいました。
長宗我部で、長浜まちあるき・・・1 元親公銅像(初陣の像)
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平成22年10月16日(土)午後1時30分集合
集合場所 若宮八幡宮元親公初陣の像前広場
参加申し込み先 氏名・連絡先を記入し、前日までにFAX 088-842-1025 に
参加費 無料 募集人員 30人
連絡問い合わせ先 土佐の鎌倉長浜を歩く会 武田末男 携帯 090-6283-4217
①若宮八幡宮元親公初陣の像前広場から、どろんこ祭・神田横を通って、②若宮八幡宮に参拝しました。
高知県若宮八幡宮のHP
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若宮八幡宮には、若者を中心とした全国的な取り組みを進めている長宗我部最高委員会や、高知の長宗我部ファンクラブなどが連携して署名を進めている、「長宗我部大河ドラマ化」の署名用紙がおいてあり、多くの方が署名をされていました。
尾崎知事も署名されていますよ!の声もありました。
11月22日桂浜荘(浦戸城址)で長宗我部セミナー「若者と語る!」・・・その1
土佐の鎌倉長浜と長宗我部史跡を歩く 資料
(地元のガイド武田末男さん作成)
② 若宮八幡宮
文治元年(1185)源頼朝が京都の石清水八幡宮の神霊御勧請し新たに、六篠若宮八幡宮を建て、その際土佐の国吾川郡南部一円を神領地に奉納し、神地鎮護の神として若宮八幡宮を建てている。祭神は、応神天皇、神功皇后、宗像の三女神の五体で、元親は戸ノ本合戦のおり、この神社に戦勝祈願し、以後出陣に際の戦勝祈願の社とした。
社殿は出陣にちなんで出蜻蛉式。トンボは勝虫と呼ばれ縁起が良いとされ、元親公が浦戸居城のおりは西の宮と称した。また、山内家も祈願八社の一社としている。
その後明治六年に郷社に、昭和五年に県社に昇格したが戦後には社格が無くなり、現在は宗教法人若宮八幡宮で四月初めには神田祭り(どろんこ祭り)が行われている。そのどろんこ祭りは、二代目藩主忠義公が領地視察のおり、早乙女が投げた苗の泥が顔に付いた事から始まっているもので現在では、神殿において踊りを奉納し、神田で田植えを行った後、だれ彼無く男の顔に泥を塗るもので、塗られた人は、その年病気はしないといわれている。
また、鳥居には云われがある。それは元親が豊臣秀吉の命を受け九洲に出陣する際、社殿に武運長久を祈りいざ出発の時、軍旗が鳥居の笠木にかかって墜落したそうである。家来達は、不吉であるとして、出陣を見合すよう進言したが、元親は、「これは敵を笠にかけて討つという吉祥の前兆である」として出陣した。ところが薩摩軍との戸次川の戦いで嫡子信親以下七百余人の戦死者を出して大敗したことから、帰国後元親は縁起が悪いとして取り壊したそうである。
以来280余年間鳥居は無い神社となっていたが、慶応元年(1865)の地震で鳥居の根石が現れたことから氏子達は「神の思し召し」と再建に立ち上がったもので、現在あるものは1980年に建て替えられたものである。
HN:サカチャン
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