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「龍馬伝」が、2010年に放送するNHKの大河ドラマに決定。福田靖さんのオリジナル脚本に、桂浜の龍馬銅像も大きな期待!

羽迫博己さんの、土佐人の銅像14・・・坂本龍馬先生像

2011年02月10日 | 龍馬に関する記事

羽迫博己さんの、土佐人の銅像14・・・坂本龍馬先生像

 

坂本龍馬先生像

天保6年(1835)11月15日、高知城下で
   郷土坂本八平・幸の次男として生れた。
 14歳から日根野道場で剣術を学び、19歳から2度に
   渡って江戸に遊学、千葉道場で剣を磨く一方、
    米国軍艦の来航に伴う沿岸警備等を経験する。
 土佐に帰っては、知識人で画家の河田小龍に啓発され、
   海軍の強化、通商航海の必要性を強く認識した。
 文久元年秋、土佐勤皇党に加盟、武市半平太の命を
   受けて長州を訪問、藩の枠組みを超えた久坂玄瑞の
    思想に触れ、翌年春帰国後、3月24日脱藩。
 長州・九州を経て江戸に赴き、幕臣勝海舟に師事して
    海軍建設の計画を推進した。
 神戸海軍塾解散後は薩摩藩の保護を受けながら、
   同志を集めて長崎で「亀山社中」を設けて通商航海業
   を営み、中岡慎太郎らと連携して慶応2年(1866)1月
    の薩長同盟成立に大きな役割を果たした。
 翌3年1月、長崎で土佐藩参政 後藤象二郎と会見、
   相提携して国事に尽くすことになり、脱藩を放免され、
   「亀山社中」を解散して土佐藩の遊軍海援隊とし、
    その隊長となった。
 同年6月には、横井小楠の「国是七条」を下敷きに、
   大政奉還論とその後の国政のあり方を示す「船中八策」
   を作成して、後藤象二郎に示し、土佐藩からの
    大政奉還建白が実現した。
 10月14日、将軍慶喜が大政奉還を上奏、龍馬は新政府
   の構想に奔走したが、15日夜、京都近江屋で同志
   中岡慎太郎と会談中、幕府見廻り組の刺客に襲われ、
    闘死した。 33歳。
              墓は京都東山区の霊山墓地にある。
     徐 幕: 昭和3年5月27日
      題 字: 坂本龍馬先生像
      規 模: 本体~5,3 ㍍   台座~8,18 ㍍

      総高~13,48㍍ 事業費: 25,695円

所在地:
   高知市浦戸 桂浜公園龍頭岬

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像15・・・坂本龍馬先生之像

2011年02月10日 | 龍馬に関する記事

羽迫博己さんの、土佐人の銅像15・・・坂本龍馬先生之像

坂本龍馬先生之像

この像は石材である。
 高知県展立体部門無鑑査の作家狩野信児さんの作品。
 桂浜の坂本龍馬像をモデルに制作、寄贈した。
 
     備付: 平成13年4月27日
     素材: 本体~中国産黒御影石、台座~白御影石
     題字: 坂本龍馬先生之像
     規模: 本体~0.65 ㍍、台座~1.1 ㍍
          総高~1.75 ㍍

所在地:
   高知市浦戸城山龍馬記念館前

 

坂本龍馬銅像 設立趣意書

桂浜の巌頭にくだくる太平洋の荒波が不断のノミをふるって彫り
   あげたものに、長宗我部があり、維新の志士があり、
    岩崎があり、浜口がある。
 大政奉還を中心とする明治日本の創業史をひもとく時、吾人は今更
   ながら先輩のこう業のかくやくとして雄麗なるに心躍るを覚ゆる。
 なかんずく坂本龍馬が維新史における重要さを思うとき、うたた一剣
   風雲をよびこしょう天下に鳴りし彼が豪快を偲ばざるを得ない。
 おもうに彼が世にありし、雄略ならびなかりし三十ゆう三の生涯は、
   一意明治日本の創建にささげ尽くされたというべきである。
 恨むべし京洛秋風せきれきの夕べ凶刃このめいけいじを奪い、
   志業中道にして砕け、壮心ついに施すに由なからしめた。
 何等の凶刃ぞ何等の恨事ぞ。
 しかも彼が回天の壮図はなかば功を収め国本ようやく固く、皇運天譲
   と栄ゆるべき基は不抜に培われて、鴨川のほとり彼がそそぎし
   鮮血千歳にわたって紅を吐き、彼の栄誉永く日本の歴史と共に
   生くというべきである。
 同人等先生の高風を慕うこと、ここに年あり、此の度相図って広く資
   を募り先生の像を建てんことを発願した。
 おもうに先生の大業を誤り無く伝えるの道は別に史家にえんだいの
   筆これあるべし。
 吾人は別に一家の見を有する。
 即ちにっせき先生の英姿をせんぎょうすることによりて第二第三の
   坂本をこの土に生ぜしめんとするにある。
 すなわち吾人の期待はかかって次代にあり未来にある。
 爾来南海の地才俊多く、今郷党のために万丈のこうえんをあぐ。
 しかも同人の期待は更に百代の後嗣に之を継ぎ、千歳のこうこんに
   之を見んとするにある。
 頭をめぐらせば国事日に多端にして国歩日にけんかんを加う。
 時運非にして英雄を思うは古今同てつである。
 第二の坂本出でよ、第三の坂本出でよ。
 同人の期待は、意図はここにある。頑是無き少年といえども其の蕨の 

如き拳を振って発奮を誓うべきを思えば、吾人の企てにかぎりなき
   命の躍動覚ゆるではないか。・・・・・・
        昭和二年五月  坂本龍馬先生銅像建設会同人
 

坂本龍馬の写真

慶応2年(1866)6月、長崎の上野彦馬
   (我が国の写真術の始祖)
   の写真館で撮影されたものとみられている。

 

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根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑩ いのち・・・龍馬の手紙から 

2010年08月16日 | 龍馬に関する記事
龍馬十景 ⑩ いのち・・・龍馬の手紙から        

                                   根木 勢介
         
                            

 いつも死と隣り合わせの世界に生きた龍馬。 「いのち」に関する彼の言葉は、やはり多い。 彼の残された手紙を見ると、再度脱藩した文久三年(1863年)に多い。 その中の一つを紹介。

 [文久3年3月20日 坂本乙女あての手紙より]

 「・・・・・。 運の悪い者は、風呂より出ようとしてキンタマを割って死ぬ者もある。 そのような人と比べると私(龍馬)は運が強く、死ぬような危ない目にあっても死なず、自分で死のうと思っても、生きなければならないことになる・・・・・。」

 自分のいのちは「天」が決めると頓悟している。 龍馬が寺田屋で伏見奉行所捕吏に襲われた事件でも「切り死に」より「生きて逃げる」ことを選んだ龍馬である。 

自分のいのちについては覚悟があるので、自然と他の人のいのちのことに関心が向いたのでは。 蝦夷地開拓を考えた龍馬の動機のひとつは、攘夷派の浪士たちのいのちを救おうと考えたことだった。

 亀山社中時代、近藤長次郎が英国密航を企てて盟約違反により仲間から切腹を迫られて死んだが、龍馬が側にいれば近藤も死なずに済んだのではといわれる。 

龍馬の死生観から言えば、十分あり得る。身辺でもたくさんの「死」を見てきた龍馬だから、なおさら、いのちについての思いが強かったのだろう。


 特に、晩年は自分のいのちの危険もわかっていた。 自分のいのちは、「天」が決めるとの覚悟があるので不用心になったのだと思う。


 「龍馬十景」読んでいただきありがとうございました。 私にとっては、龍馬の魅力を見直すきっかけとなりました。

龍馬研究会発行 「龍馬研究」No.165 より転載


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根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑨ 長崎・・・頭の中の地図と樟脳

2010年08月08日 | 龍馬に関する記事
龍馬十景 ⑨ 長崎・・・頭の中の地図と樟脳        

                                   根木 勢介




 三菱創始者岩崎弥太郎の家の庭には、今も石組みの日本地図がある。 伝承では、幼少の頃弥太郎が作ったとされる。

日本で初めて総合商社の原型を作った龍馬と、それを発展させた弥太郎、彼らの頭の中には、どんな地図があったのだろうか。

海援隊約規では、「海外に志あるもの」が入隊できることになっており、海外雄飛しようとした龍馬の頭の中には、世界地図があったのだろう。



 鎖国下の日本の、世界への唯一の門は長崎である。 江戸時代の三大輸出品目は、金・銀・樟脳。 輸出品は長崎の出島よりオランダ帰国船で輸出された。 

江戸時代ほぼ樟脳生産を独占してきた薩摩藩では、樟脳で大きな利益をあげた。 利益率が低下してきた安政五年(1859年・日米修好通商条約調印の年)でも、樟脳だけで年間二千両の利益をあげたといわれる。


 薩摩が幕末まで独占してきた樟脳市場に、新規参入したのが土佐藩。 土佐式樟脳生産方式を開発し、土佐藩の外貨獲得の重要な商品となった。 

慶応三年(1867年)長崎から出航した土佐藩の藩船夕顔丸で、龍馬は船中八策をまとめたが、その夕顔丸も樟脳で購入したといわれる。


 樟脳貿易で龍馬たち維新の志士を支えた「土佐商会」の弥太郎。 時代が下がるが、岩崎の三菱を売上げで一時抜いた神戸の総合商社鈴木商店も台湾での樟脳生産が土台となったとされる。 

その鈴木商店を陣頭指揮したのが、土佐出身の番頭金子直吉。 商社経営史に残る、龍馬・弥太郎・直吉と土佐人三人がいずれも樟脳と関わっているのは興味深い。

龍馬研究会発行 「龍馬研究」No.164 より転載


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坂本龍馬の銅像

2010年08月05日 | 龍馬に関する記事
はじめまして。

自費出版した小さな写真集「土佐の銅像」を通して、高知ファンクラブと出会いました。

本に載せた写真、載せていない写真、満年齢での人物伝、個人的思い、

...など、綴っていけたらと思っています。

本の宣伝を兼ねたブログで恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。



第1回は、坂本龍馬の銅像です。本に載せたのが、すぐ下の1枚です。

平成17年秋、「龍馬に大接近」にて撮影しました。



*銅像所在地:高知市浦戸 桂浜公園

*銅像製作:本山白雲 昭和3年5月27日建立



*坂本龍馬(1835~1867)

12歳:日根野道場で剣術を学ぶ。

17歳:江戸に出て千葉道場でさらに剣術修業を重ねる。

26歳:春、土佐藩を脱藩。幕臣である勝海舟と出会う。

31歳:「海援隊」隊長となる。「船中八策」の作成。

享年32歳。




光り輝く桂浜です。



龍馬の石碑もあります。

大きな画像で見る坂本龍馬の銅像


司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読んだのは、22歳の頃でした。

32歳になったら何をしているんだろうと考えたりしたものです。

大したこともせぬまま32歳を過ぎ、あっという間に45歳となりました...。



土佐の銅像 写真集と 津江美和さんの写真に関するページ

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根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑧ 京都・・・龍馬の五つの顔

2010年08月01日 | 龍馬に関する記事
龍馬十景 ⑧ 京都・・・龍馬の五つの顔        

                                   根木 勢介



 「海援隊の性格は多角的で、倒幕結社、私設海軍、航海学校、海運業務、内外貿易という五つの顔があり、

その五つの顔を、竜馬が一つにまとめて統率、竜馬にもこの五つの顔があった、・・・・・・・竜馬にとっては、ときに革命は片手間の仕事であった。」


 司馬遼太郎さんは、「竜馬がゆく」でこのように書いている。

 さて、龍馬は、この五つの顔により、反幕側だけでなく幕府側にも情報源をもち、幕末当時最大の情報収集家になった。 


龍馬が、その情報収集力により時代の先を読めたのも、日本の政体構想を持ち得たのも、ある意味当然のことかも知れない。


 高知県では、今土佐二十四万石博が開催されているが、高知城の天守閣から四方を眺めていると、奇妙なことに気がつく。 

幕末に活躍する志士やその後の自由民権運動の中心活動家が、西側に当たる龍馬生誕地周辺に誕生し、密集していることがわかる。 


また、龍馬につながる家系にもだが、お城の西側に、キリスト教信者になった人が多い。 龍馬が、キリスト教をどのように考えていたかについては、佐々木三四郎日記にあるようだが、興味深い。


 「アメリカでは大統領が下女の給料の心配をするという。 三百年、徳川将軍はそういうことをしたか。 この一事だけでも幕府は倒さねばならない。」と龍馬は考えており、その発言が土佐に伝わり、土佐の青年が奮起したといわれる。


 土佐にあだたぬ男(武市半平太の言)龍馬が、本当にやりたかったことは、世界の海援隊だったのか、考えてみたい。
                     龍馬研究会発行 「龍馬研究」No.163 より転載





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根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑦ 江戸・・・選択?洗濯の龍馬

2010年07月26日 | 龍馬に関する記事
龍馬十景 ⑦ 江戸・・・選択?洗濯の龍馬        

                                   根木 勢介






 現在、新幹線の駅になり、にぎわいを見せている「品川」。 幕末の品川も色々な人々が往来した町。

 品川駅から東京湾に向かって歩いてみた。 途中に「東京海洋大学」があり、何かしら龍馬と関係があるようでうれしくなる。 

 今の大学生と同じ頃江戸に出て来た龍馬。 24歳頃、江戸で剣術修行中に植物の「菖蒲」を土佐に送り、あり付いた(根付いた)か、と手紙を書く一面も持っているのは、興味深い。


 維新前、これからの日本をどうするかについての選択肢は色々あった。 例えば、当時幕臣だった福沢諭吉は、「長州征伐に関する建白書」(1866年・薩長連合の年)を提出。


 これまでの洋行の体験と知識を駆使して、長州再征によって幕府を「中興できる」論を展開、幕府再生の方策を提示した。


 一方、同じく洋行経験者でかつ幕臣でもある勝海舟は、同じ1866年に内乱・日本の植民地化を危惧し、「幕府の長州再征反対」の意見書を京都の徳川慶喜に送っている。


 勝は早い段階で、封建制度の幕府は崩壊すると予見。 歴史は皮肉なもので、その長州再征が幕府の意外なもろさを露呈することとなり、崩壊を早めてしまう。


 龍馬のその後を考える意味でも、「日本第一の人物」の勝海舟に弟子入りした意味は大きい。


 再開発ラッシュの品川の湾岸沿いを歩きながら、龍馬のことを考えてみた。


                     龍馬研究会発行 「龍馬研究」No.162 より転載





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根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑥ 脱藩・・・龍馬の魅力

2010年07月16日 | 龍馬に関する記事
龍馬十景 ⑥ 脱藩・・・龍馬の魅力        

                                   根木 勢介




 「龍馬のどこが好きですか」と、よく聞かれる。 龍馬の魅力を解く鍵がある。



 ひとつは「脱藩」。 

勤王の志士といえども、江戸300年の幕藩体制がつくりだした藩意識や、所属する藩から自由でなかった。

勤王の志士の大半が「藩意識」からなかなか抜け出せなかった。 龍馬は早くから土佐藩を捨て「日本」という意識が高く、その視点から行動している。 そこが、近代的な人といわれる所以だろう。


 ふたつ目には、脱藩の所産ともいえる「自由」。 

脱藩後の彼の行動が物語っているが、自由に全国を飛び回っている。 彼の自由さを象徴するのが、倒幕側にありながら幕府側の人とも垣根なく交際している人脈の広さ。


 「垣根」は、自分が作っているんだヨ、と教えてくれているようだ。 後に「龍馬を暗殺したのは、誰か」を推理する上で、問題を複雑にする要因が、その交際の広さだ。


 みっつ目には、龍馬と出会った人が異口同音に言う彼の「ユニークさ」。 

色々な人を訪ね歩いて意見を聞く訪問魔の龍馬。 だが、単なる聞き役ではない「発想の龍馬」の姿がそこにはある。 

所属する藩(今なら会社)や立場にとらわれ自由な発想ができない我々が魅力を感ずるところだろう。


 最後に、彼の海のイメージとマッチした「明るさ」。 

彼の明るい人となりがよく伝わって来るのが彼の残した手紙の数々。

 お龍さんへのラブレターを見たいけど、無いのは残念。

                     龍馬研究会発行 「龍馬研究」No.161 より転載


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根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑤ 鏡川・・・龍馬の原風景

2010年07月16日 | 龍馬に関する記事
龍馬十景 ⑤ 鏡川・・・龍馬の原風景        

                                   根木 勢介


 人間は、誰も「故郷」を持っている。 鏡川は、龍馬の生まれ育った所から近く、龍馬の遊んだ川。 高知市を流れ、「影を映すこと鏡の如し」と美しいところから鏡川と命名された。 

写真は、鏡川の土手にある樹齢1000年と言われているクスノキ。 近くには龍馬の父八平の実家もあり、龍馬もこの大木に登ったかもしれない。




 龍馬は訪問が好きで、出会いの達人とも言われる。 百聞は一見に如かずと言われるが、龍馬は「一見の価値」や、さらに百冊の本を読むより、その著者に会って直に話を聞く方が、最も理解できることを知っていた人。 

ただし、受信能力を高めないと理解力は身に付かないし、発信能力(構想力)は、優れた受信能力なしでは生まれない。


 龍馬は、土佐では河田小龍、江戸では勝海舟に出会って、大きな影響を受けたと言われる。 しかし、私は、受信能力の下地は二人に出会う前に既にできていたとみる。 


龍馬愚童説もあるが、信じがたい。 若年の頃より「人に教えを乞う姿勢」が、何も知らない龍馬という愚童説へとつながったのだろう。


 龍馬の生家周辺は、町人社会ともいうべき環境で、世の中が武士だけで構成されているのではないことを理解したのだろう。 


また、若き日よく訪れた龍馬の継母伊与の婚家の里仁井田は、海運・流通業の地である。 海外や国内情報などは、ここで聞いたのだろう。 土佐湾に至る鏡川周辺が、龍馬という人間の原風景を形作っていると、私は考えている。


                  龍馬研究会発行 「龍馬研究」No.160 より転載



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