長宗我部元親(一)その2 永国淳哉 (「城山」創刊号より)
元祖は秦の始皇帝
長宗我部の名が、高知の歴史に現われるのは、南北朝の初期である。
足利尊氏の関係文書の中に、土佐の長宗我部新左衛門が登場する。
この人物は、康暦年間(一三八〇年頃)室町幕府の管領職の名門、細川氏に従い、土佐に進出した一門といわれている。
大陸渡来の太唐人・秦氏を元祖としているといわれている一族である。
秦の始皇帝十二世の孫・功満王あるいは融通王などが、波多姓を賜り、信濃の国で力をつけた秦一族の出身という。
土佐中央部の長岡郡宗部郷に住みつき、地名から長宗我部を名乗ったであろうといわれている。
他頭職を与えられた長宗我部新左衛門信能を初代として、元親は二十一代目となる。
この二世紀の間に細川氏は、四国各地の土豪や地頭を支配下に組み込み、しだいに守護領国化していった。
阿波を根拠地として、勢力を延ばし、讃岐一帯を傘下におさめると、一族の細川頼益を土佐に派遣して、さらに領国化の輪をひろげていった。
しかし、応仁の乱(一四六七年)で、事態は一変した。京都の都での戦乱は、全国に波及。巻き起こった下克上の嵐の風潮の中で、当時の守護代、細川勝益も土佐を去らざるをえなくなった。
守護領国は崩壊し、土豪は独立をもくろみ、互いに勢力を争いはじめ、群雄割拠の戦国時代
へと突入していった。
土佐だけでも七百近くもあったといわれる山城海城も、長宗我部元親の代の頃にはついに「土佐の国七郡、大名七人、御所一人」(長元物語)といわれるまでに淘汰されていった。
すなわち、「御所」といわれている四万十川流域の公家大名・一条家。
応仁の乱を逃れ、土佐国幡多郡に所有していた荘園を頼ってきた関白の一門である。それに津野、大平、吉良、本山、安芸、香宗我部、長宗我部の七守護大名である。
祖父・兼序自刃、一条家へ
ラストステージに残った「七人守護」の争いは、中央部の本山氏と長宗我部氏の雌雄決戦から展開していった。
元親の祖父にあたる長宗我部十九代兼序も名将の誉れ高い人物であった。
「武勇才幹衆に越え、大敵を見ては欺き、小敵を侮らず、寡をもって衆に勝ち柔をもって堅を挫くこと孫呉が妙術を得たる大将」(土佐物語)細川氏の庇護のもとで「威勢甚だ盛ん」であった。
しかし、長宗我部が頼りにしていた守護大名細川氏の勢いが弱まり、永正四年(1507)細川政元が殺害されると、さすがの兼序も窮地にたたされた。
翌年、長宗我部領内の農民と本山領内の農民の水争いを火種に、本山養明を中心に、周辺の吉良、大平、山田、の連合軍三千余騎に攻め込まれ、ついに岡豊城は落ちた。
兼序は、幼少の千雄丸を家臣に預け、西の一条家に赴かせ、夫人と娘を伴い自刃して果てた。
千雄丸は、四万十川のほとりの一条家で養育せられ、子供のころは軍記物語を好み、大蛇が人を呑み込むような豪快な話を好んだといわれている。
当主の一条房家が「この高い二階からとび降りるなら、長宗我部の家を再興してやろう」と、冗談にいったところ、当時まだ七歳頃の千雄丸は、いきなり屋根から下に跳んだという。
「此の子眼ざし平人に非ず。成人の後に家を起こさん」(土佐軍記)と、一条房家の信を得た。やがて本山、吉良、大平、山田の間の仲介役となり、永正十五年(1518)に千雄丸の元服式をとりおこない、長宗我部国親と名のらせ本拠の岡豊に帰城させた。
財団法人 香川経済研究所発行 調査月報(110号)より転載
城山 創刊号 発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より
長宗我部ファンクラブ事務局
長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」
元祖は秦の始皇帝
長宗我部の名が、高知の歴史に現われるのは、南北朝の初期である。
足利尊氏の関係文書の中に、土佐の長宗我部新左衛門が登場する。
この人物は、康暦年間(一三八〇年頃)室町幕府の管領職の名門、細川氏に従い、土佐に進出した一門といわれている。
大陸渡来の太唐人・秦氏を元祖としているといわれている一族である。
秦の始皇帝十二世の孫・功満王あるいは融通王などが、波多姓を賜り、信濃の国で力をつけた秦一族の出身という。
土佐中央部の長岡郡宗部郷に住みつき、地名から長宗我部を名乗ったであろうといわれている。
他頭職を与えられた長宗我部新左衛門信能を初代として、元親は二十一代目となる。
この二世紀の間に細川氏は、四国各地の土豪や地頭を支配下に組み込み、しだいに守護領国化していった。
阿波を根拠地として、勢力を延ばし、讃岐一帯を傘下におさめると、一族の細川頼益を土佐に派遣して、さらに領国化の輪をひろげていった。
しかし、応仁の乱(一四六七年)で、事態は一変した。京都の都での戦乱は、全国に波及。巻き起こった下克上の嵐の風潮の中で、当時の守護代、細川勝益も土佐を去らざるをえなくなった。
守護領国は崩壊し、土豪は独立をもくろみ、互いに勢力を争いはじめ、群雄割拠の戦国時代
へと突入していった。
土佐だけでも七百近くもあったといわれる山城海城も、長宗我部元親の代の頃にはついに「土佐の国七郡、大名七人、御所一人」(長元物語)といわれるまでに淘汰されていった。
すなわち、「御所」といわれている四万十川流域の公家大名・一条家。
応仁の乱を逃れ、土佐国幡多郡に所有していた荘園を頼ってきた関白の一門である。それに津野、大平、吉良、本山、安芸、香宗我部、長宗我部の七守護大名である。
祖父・兼序自刃、一条家へ
ラストステージに残った「七人守護」の争いは、中央部の本山氏と長宗我部氏の雌雄決戦から展開していった。
元親の祖父にあたる長宗我部十九代兼序も名将の誉れ高い人物であった。
「武勇才幹衆に越え、大敵を見ては欺き、小敵を侮らず、寡をもって衆に勝ち柔をもって堅を挫くこと孫呉が妙術を得たる大将」(土佐物語)細川氏の庇護のもとで「威勢甚だ盛ん」であった。
しかし、長宗我部が頼りにしていた守護大名細川氏の勢いが弱まり、永正四年(1507)細川政元が殺害されると、さすがの兼序も窮地にたたされた。
翌年、長宗我部領内の農民と本山領内の農民の水争いを火種に、本山養明を中心に、周辺の吉良、大平、山田、の連合軍三千余騎に攻め込まれ、ついに岡豊城は落ちた。
兼序は、幼少の千雄丸を家臣に預け、西の一条家に赴かせ、夫人と娘を伴い自刃して果てた。
千雄丸は、四万十川のほとりの一条家で養育せられ、子供のころは軍記物語を好み、大蛇が人を呑み込むような豪快な話を好んだといわれている。
当主の一条房家が「この高い二階からとび降りるなら、長宗我部の家を再興してやろう」と、冗談にいったところ、当時まだ七歳頃の千雄丸は、いきなり屋根から下に跳んだという。
「此の子眼ざし平人に非ず。成人の後に家を起こさん」(土佐軍記)と、一条房家の信を得た。やがて本山、吉良、大平、山田の間の仲介役となり、永正十五年(1518)に千雄丸の元服式をとりおこない、長宗我部国親と名のらせ本拠の岡豊に帰城させた。
財団法人 香川経済研究所発行 調査月報(110号)より転載
城山 創刊号 発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より
長宗我部ファンクラブ事務局
長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」