桂浜ファンクラブ

「龍馬伝」が、2010年に放送するNHKの大河ドラマに決定。福田靖さんのオリジナル脚本に、桂浜の龍馬銅像も大きな期待!

長宗我部元親(一)その2・・・永国淳哉

2009年02月23日 | 長宗我部情報
長宗我部元親(一)その2    永国淳哉   (「城山」創刊号より)


元祖は秦の始皇帝

 長宗我部の名が、高知の歴史に現われるのは、南北朝の初期である。
足利尊氏の関係文書の中に、土佐の長宗我部新左衛門が登場する。

 この人物は、康暦年間(一三八〇年頃)室町幕府の管領職の名門、細川氏に従い、土佐に進出した一門といわれている。
 大陸渡来の太唐人・秦氏を元祖としているといわれている一族である。

秦の始皇帝十二世の孫・功満王あるいは融通王などが、波多姓を賜り、信濃の国で力をつけた秦一族の出身という。

土佐中央部の長岡郡宗部郷に住みつき、地名から長宗我部を名乗ったであろうといわれている。
 他頭職を与えられた長宗我部新左衛門信能を初代として、元親は二十一代目となる。

 この二世紀の間に細川氏は、四国各地の土豪や地頭を支配下に組み込み、しだいに守護領国化していった。

阿波を根拠地として、勢力を延ばし、讃岐一帯を傘下におさめると、一族の細川頼益を土佐に派遣して、さらに領国化の輪をひろげていった。


 しかし、応仁の乱(一四六七年)で、事態は一変した。京都の都での戦乱は、全国に波及。巻き起こった下克上の嵐の風潮の中で、当時の守護代、細川勝益も土佐を去らざるをえなくなった。

守護領国は崩壊し、土豪は独立をもくろみ、互いに勢力を争いはじめ、群雄割拠の戦国時代
へと突入していった。


 土佐だけでも七百近くもあったといわれる山城海城も、長宗我部元親の代の頃にはついに「土佐の国七郡、大名七人、御所一人」(長元物語)といわれるまでに淘汰されていった。

 すなわち、「御所」といわれている四万十川流域の公家大名・一条家。

応仁の乱を逃れ、土佐国幡多郡に所有していた荘園を頼ってきた関白の一門である。それに津野、大平、吉良、本山、安芸、香宗我部、長宗我部の七守護大名である。


祖父・兼序自刃、一条家へ

 ラストステージに残った「七人守護」の争いは、中央部の本山氏と長宗我部氏の雌雄決戦から展開していった。
 元親の祖父にあたる長宗我部十九代兼序も名将の誉れ高い人物であった。

「武勇才幹衆に越え、大敵を見ては欺き、小敵を侮らず、寡をもって衆に勝ち柔をもって堅を挫くこと孫呉が妙術を得たる大将」(土佐物語)細川氏の庇護のもとで「威勢甚だ盛ん」であった。

 しかし、長宗我部が頼りにしていた守護大名細川氏の勢いが弱まり、永正四年(1507)細川政元が殺害されると、さすがの兼序も窮地にたたされた。

翌年、長宗我部領内の農民と本山領内の農民の水争いを火種に、本山養明を中心に、周辺の吉良、大平、山田、の連合軍三千余騎に攻め込まれ、ついに岡豊城は落ちた。

兼序は、幼少の千雄丸を家臣に預け、西の一条家に赴かせ、夫人と娘を伴い自刃して果てた。
 千雄丸は、四万十川のほとりの一条家で養育せられ、子供のころは軍記物語を好み、大蛇が人を呑み込むような豪快な話を好んだといわれている。

当主の一条房家が「この高い二階からとび降りるなら、長宗我部の家を再興してやろう」と、冗談にいったところ、当時まだ七歳頃の千雄丸は、いきなり屋根から下に跳んだという。


 「此の子眼ざし平人に非ず。成人の後に家を起こさん」(土佐軍記)と、一条房家の信を得た。やがて本山、吉良、大平、山田の間の仲介役となり、永正十五年(1518)に千雄丸の元服式をとりおこない、長宗我部国親と名のらせ本拠の岡豊に帰城させた。


財団法人 香川経済研究所発行   調査月報(110号)より転載





城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



長宗我部ファンクラブ事務局

長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」

長宗我部元親(一) その1・・・永国淳哉

2009年02月21日 | 長宗我部情報
長宗我部元親(一) その1・・・永国淳哉  (「城山」創刊号より)




戦国末期ついに四国平定をなしとげ、「四国の鬼」とうたわれた長宗我部元親。
 しかし、その「鬼」のうけとりかたが、四国内ですら県によって全く違う。


 出身地高知では、勇猛果敢な戦国の名将としての「鬼」である。ところが四国の他県では、とんでもない話。長宗我部は、かって生きた人間を食い散らした聞くも恐ろしい「鬼」である。


 高知県境に近い愛媛線喜多郡内子町出身のノーベル賞作家、大江健三郎氏は、その代表作「万延元年のフットボール」でこう著述している。


 「チョウソカベはあらゆる時間と空間に偏在している、恐ろしく巨大な他者だ。僕が反抗すると、祖母はチョウソカベが森からやってくると威嚇したが、その声の響きは、幼児の僕のみならず八十歳の祖母自身にも、われわれと同時代に生きている恐ろしく巨大なチョウソカベの気 を実感させた」


 長宗我部元親の出城である岡豊城の跡地(南国市)高知県立の歴史民俗資料館が完成した時、「土佐人は、自分たちの歴史の恥を知っているのか」との、憤りの手紙を他県より頂戴し、いまさらながら驚いた。


 「元親の最後の居城だった浦戸城の本丸跡に、県立で坂本龍馬記念館 を建てる史観錯乱の土地柄だから、今さら文句をいっても仕方ないでしょう」という中央の歴史家もいた。



戦国武将の悲しいさだめ


 高知市長浜にある元親の墓所の立札には、次のように書かれている。
 「長宗我部元親(一五三九~一五九九)初陣永禄三年(一五六〇)二十二歳の時、長浜で本山氏と戦い、以後十五年間に本山、安芸、一条の群雄を滅ぼして土佐を統一。続いて十年経て四国を併せたが、豊臣秀吉に降って土佐を保つ。


 翌天正十四年(一五八六)豊後戸次川戦に大敗後は、領国支配の刷新を図り、検地、城下町建設、掟書制定に当たり、政治家として、面目を発揮したが、慶長四年(一五九九)伏見に病死。この地に葬られた」


 関ヶ原の前年に途絶えた元親の六十年。それは、この四国においては、群雄割拠の戦国時代の最後の一幕であった。


中央勢力が、西洋伝来の銃で順次装備をしてゆく中、地方においては、兵農未分離のままの状態で戦いはくりひろげられた。

全ての村の男たちに刀槍をもたせ、女子供まで巻き込み、力の論理が支配した凄まじい半世紀であった。


 多くの血の代償として成し遂げた四国の統一。「四国の雄」として讃えられた名将が、はかり知れない犠牲で獲得した全てを失うのに、時間はかからなかった。地方のリーダーの悲しい運命。

中央の戦局も常に分析し、織田信長ラインに配慮し、秀吉にも充分に義理をつくし、忠節をたててきた。九州での島津勢力の北部進攻に抗し、大分の戸次川合戦に長男・信親とともに参戦し、不利と知りつつ突進したのは、秀吉の命に従った結果であった。

その戦いで、最愛の長男と最強の七百騎を失う。
武力でたつものは、力に負ける世のならい。二百年続いた土佐の豪族は、元親で大きく花咲き、そして壊滅してゆく。あたかも線香花火が、地に落ちる寸前に、持てる力の全てをついやして闇を照らす一瞬に似た長宗我部元親の生涯を紹介しよう。


 日本の天下をわけた関ヶ原戦のあと、長宗我部にかわり、土佐には遠州(静岡県)掛川より山内一豊が入城してくることになるのである。


財団法人 香川経済研究所発行   調査月報(110号)より転載




城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より


長宗我部ファンクラブ事務局

長宗我部顕彰会ほか発行の「城山



浦戸城跡探訪記・・・堀内昭五郎(「城山」創刊号より)

2009年02月19日 | 長宗我部情報
浦戸城跡探訪記        堀内昭五郎  (「城山」創刊号より)



 平成八年三月二十八日午前十時龍馬記念館前に三十二名が集まり、浦戸城跡探訪会が開かれました。


 始めに、中世城郭研究家として著名な、宅間一之先生による浦戸城の概要の説明があり、続いて同先生の案内にて、古図面により、古道を散策しました。


 天気も大変よく、周囲は桜の花が一行を出迎える様に咲き乱れ、太平洋は青く輝いていました。


 先ず天守跡をスタート、本城より西へ、三の段へ行き、堅堀を北へくだり、住吉神社脇を抜け桂浜の集落にでる。

そこから稲荷神社、魚市場を過ぎ、旧浦戸小学校への坂をあがり、二の段から堀切りへ。

ここでこの「堀切」遺構について詳しい説明があった後、始め通った三の段を経て十二時過ぎに、もとの集合場所に帰りました。


 約二時間、参加者一同は心地よい春を満喫し、往事のロマンにひたった一日でした。





城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より転載

長宗我部ファンクラブ事務局



長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」

ラブラブ桂浜水族館

2009年02月13日 | 桂浜水族館
みなさん、桂浜はカップルにとってとぉ~ってもラブラブな聖地なの
知っていましたか?

なぜかって?

そ・れ・は!!!

日本で初めて新婚旅行へ行った坂本龍馬(v^ー°)
竜王岬にお祀りしている神さまは恋愛の神様(*^ワ^*)

しかも、桂浜水族館では子だくさんカップルがいっぱいと
くりゃぁ、ここ桂浜はカップルの聖地O(≧∇≦)O


そこで!!
桂浜水族館のラブラブバレンタインイベント
恋する乙女の大チャンス♡
バレンタイン企画
2月14日(土)と2月15日(日)午後12:00~午後2:30~
ペンギン団地にて、各回先着20組様
【ラブラブ♡ペンギンえさやりタイム】
ペンギンは、結婚をすると生涯ず~~っと一緒に
病める時も健やかなる時も共に歩み、
一緒に泣き笑い、死が二人を分かつまで愛を誓い
お互いを想い添い遂げるのです 。★。 ゜☆゜ 。

ステキでしょう♡

そんなペンギンにちなんで、
カップルの二人で愛の共同作業を体験してみませんか?
ペンギンに二人でえさを与えることで
ペンギンカップルと同じように永遠の愛をはぐくめるはずです!('O'(ー^*)chu♪
記念にお二人のネームを入れたカードもプレゼント(* ̄▽ ̄*)
帰りには、マリンストアでペンギングッズを買って
二人の愛を高めよう!!



2/22 「龍馬の歌と花」をテーマに第16回「近江屋対談」

2009年02月13日 | 個人会員でーす
坂本龍馬記念館より、イベントのお知らせ携帯メールが届きました。


2009年2月22日(日)
午後6時30分~午後8時の予定で

第16回「近江屋対談」を開催します。
テーマは「龍馬の歌と花」

第16回「近江屋対談」は「龍馬の歌と花」をテーマに、
現在当館2階フロアに展示中の「龍馬の歌と花展」関連企画として開催します。

龍馬の家族は風雅を好み、和歌や音楽をたしなみました。
龍馬もいくつかの和歌を残しています。
その中で花の歌を選んで、歴史研究家の永国淳哉さんが面白く興味深い解釈をしました。

梅の花咲くこの時期に、才谷梅太郎こと坂本龍馬の心にある風景を永国さんとともに皆様と味わって見たいと思います。対談相手は記念館学芸主任・前田由紀枝
ぜひご参加ください。

また、対談前には「桂浜水族館」学芸員・丸林友文さんによる紙芝居も開催します。

対談までは、「海援隊約規物語」展開催中の館内をごゆっくりご見学ください。

参加費は無料ですが、一般(18歳以上)の方は入館料500円が必要です。
※各種手帳所持者無料

定員は30名となっておりますので、参加ご希望の方は事前にお電話(088-841-0001)で申し込みください。

HN:龍馬

桂浜ウオッチィング・・・花海道

2009年02月07日 | 桂浜の・お宝・自然・四季
桂浜・花海道はいつも美しい花でいっぱいです!

今は左の白い建物がなくなりました・・・



美しい花は、心ある企業の協賛で行われているようです。
感謝をしながら、いつも車窓から楽しませていただいています。
桂浜のコアゾーンとして、観光客の皆さんもよく写真を撮られています。


こんな情報もありました。

花海道 花いっぱい運動・・個人スポンサー大募集!!  
桂浜花海道「花いっぱい運動」を開催します
桂浜花海道「花いっぱい運動」を開催しました

HN:つかさ

浦戸城址の史跡となりて・・・瀬戸鉄男  (「城山」第一号より)

2009年02月02日 | 個人会員でーす
浦戸城址の史跡となりて       
                 瀬戸鉄男  (「城山」第一号より)


(一)はじめに
 「月の名所」桂浜は、龍頭岬から眺める景観と坂本龍馬の銅像等、た
しかに日本を代表する景勝地であり、訪れる人は何かを感じることであ
ろう。
 しかしながら、単なる一日の外見的な観光に終わらせるには、惜しま
れる古城跡としての城山ではなかろうか。
 長宗我部盛衰の歴史に始まり、山内氏の入国、そして明治維新から近
代日本へと続く時代の変遷は、土佐の先人の足跡でもあろう。
 浦戸の城山から眺望する太平洋と北山の峰を借景として、浦戸湾から
高知方面を遠望するとき、この雄大なる景観に内包される四百年の歴史
を重ねて思うとき、しばし立ち去り難い城山ではなかろうか。
 長宗我部氏の歴史の中で、今年は慶長元年(一五九六)八月二十六
日、イスパニヤのサン・フェリペ号の浦戸漂着から丁度四百年目に当た
る。
 この漂着問題は、元親が浦戸へ移転後五年目の大事件であった。
 これに関する詳細を印した文献としては、関田駒吉歴史論文集「サ
ン・フェリペ船の浦戸漂着」(高知市民図書館発行)があるので、本紙
創刊にあたり、一部抜粋を交えながらこれらについて、またその他浦戸
城移転の背景等について以下記すことにする。

(二)サン・フェリペ船の浦戸漂着
前記紹介文献抜粋
 慶長元年(一五九六)の呂宋船
 慶長元年の秋、西班牙船サン・フェリペは、呂宋よりメキシコに向け
航海中暴風に遭遇し、舵機を破壊せられ、針路を転じて長崎に避航せん
とし、漂蕩して土佐浦戸港外に表はれた。
 長宗我部元親之を港内に引入れ、豊臣秀吉に急報した。
 秀吉即ち増田長盛を使はし、貨物全部を没収して之を大坂に運送せし
め、船員には食糧品を贈与して長崎より帰国せしめた。
 而して本件は、サン・フェリペの水先案内人フランシスコ・デ・サン
ダが貨物没収を阻止せんとして、威嚇的に布教に因るペリュウ、メキシ
コ等外国征服の実例を壮語せしたことから、秀吉の憤怒を買ひ、外教厳
禁の因を為したことと、尋で起った長崎に於ける教徒二十六人の殺戮と
に関連して著名なる事件である。(以下略)
 太平洋に面した四国唯一の海港の城下町を浦戸に求めた元親の構想
は、やはり近代につながる発想であったと思われる。
 秀吉政権下における国際的事件の舞台となったこの浦戸城山の一角に
サン・フェリペ号漂着の記念碑建立を切に待たるる思いがするものであ
る。
(三)浦戸移転の背景
 長宗我部氏の浦戸在城の時代は、わずかに十年の命運でしかなかった。
 元親は、天正十五年(一五八七)頃より居城を岡豊山より大高坂へ移
転しようと、諸般の施策を進めてきたようである。
 大高坂城への移転は、天正十六年より始め、二、三年後の十九年冬頃
終わった、と、諸書には記されている。 
 浦戸へ移転の理由はいろいろあったようであるが、大高坂水害の理由
が最大であったと思われる。
 従って当時の時代背景、次ぎの構想として浦戸をその居城にと行動に
移ることが急がれ、元親の指導力と大英断が要求されたものと思われる。
 当時の出来事をいくつか述べて考えてみたい。
 天正十三年(一五八五)七月、元親は秀吉に降伏して土佐一国を許さ
れた。
 翌年秀吉の命により九州へ出兵、長宗我部勢にしては、海を越えて水
軍による初陣であった。
 そして、豊後の国戸次川に於ける島津勢との戦いで、十二月十二日、
長男信親始め七百余人の戦死者を出す敗北となった。
 そのあと家督相続の問題から骨肉に争いなど晩年の元親は、人生が大
きく狂ってきたと思われる。
 この継●問題は、長宗我部の大きな悲劇となった。
 土佐に残る七人みさき怨霊の伝説が語り草となって伝えられてきたの
である。
 更に秀吉の命により、小田原戦に水軍を率いて参戦したのは、大高坂
城へ移転中の天正十八年であった。
 二年後の文禄元年(一五九二)には朝鮮遠征をひかえていたので、小
田原での水軍の経験からも浦戸湾という天然の良港をひかえた浦戸への
移転を決断して、人生最後の建直しを考えたと思いたい。

(四)最後の光芒
 秀吉は九州平定後の天正十五年五月には、羽柴秀長を通じて、大隅国
を元親に与えようと告げさせたという。(土佐国●簡集 巻五)
 元親はこれを辞退したのであったが、ついで九月より長宗我部検地を
始めたり、秀吉の信頼を一身に感じて元親は、ようやく立ち直ろうとし
た。
 思えば、永禄三年(一五六〇)元親十八歳の長浜城戸の本の合戦以来
慶長二年(一五九七)二度目の朝鮮出兵まで三十七年に及ぶ戦いに明け
暮れた時代であった。
 戦国乱世の人々の障害が、わかるような気がするものである。
 土佐が生んだ戦国英雄の一人長宗我部元親も遂に伏見の邸において、
慶長四年五月一九日六十一歳の生涯を終えた。
 法号「雪●怨三大禅定門」
 浦戸在住の十年の時代は、いうなれば、長宗我部氏最後の光芒であっ
た。
 平成五年八月十三日、国民宿舎桂浜荘の建築工事の始め天守台跡の南
に延びる一角の小山から土塁跡の石垣が発見され、次いで大規模な石垣
(総延長百メートル)が九月九日発見されたのである。
 ついに浦戸城は四百年の眠りからさめたのであった。
 浦戸城址保存会と住民の熱烈な運動によって、高知市はこれを永久保
存として、地中に埋めもどしたのである。
 この保存運動の詳細については、次の機会とする。



※ おことわり ●印は変換できなかった部分です。



城山  第1号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より転載