世界一小さな戦争博物館

第二次世界大戦中の1/144スケール航空機を中心にしたミリタリー食玩を展示しています

巡洋艦「足柄」搭乗員の方の証言

2016-02-20 15:44:13 | 食玩日記
戦後70年たちますが、まだまだ戦争体験者の方はお元気なようです
そこで、現在でもご健在の方の戦争体験証言を集めてみました
今回は、巡洋艦「足柄」に搭乗していた方の証言です

Kさん(熊本県 94才)

 1945(昭和20)年6月8日、私の乗った兵員輸送中の重巡洋艦「足柄」は、英潜水艦の魚雷攻撃で沈没した。魚雷4発がほとんど同時に右舷に命中。上がった水柱が滝のように落ちてきた。息ができない。艦は右に傾いていく。速力が急速に落ちた。
 私の担当は高射砲で、弾道計算の任務に就いていた。「総員、後甲板」という命令を受けて移動しようとしたが、海藻を踏んで滑り、海中へ落ちた。艦が沈没すると渦ができるので、巻き込まれないように必死に泳いで艦を離れた。
 間もなく、艦は船尾から海中に沈んだ。海に浮いていた者たちは感情が激して「バンザーイ、バンザーイ」と叫んだ。続いて「海ゆかば」の合唱。日本酒の酒瓶が、あちこちに浮いていた。「どうなるかわからん。飲め、飲め」とやけっぱちになって勧める者もいた。
1時間以上も浮いていただろうか、僚艦の駆逐艦「神風」に救助された。片足のひざから下が欠落し、白い骨が見えている兵もいた。

Tさん(香川県 88才)

 海面に白い気泡を残しながら向かってくる魚雷がはっきり見えた。「だめだ、当たる」。Tさんは、敵艦までの距離を計る測距儀(そっきょぎ)の担当だった。衝撃で頭を打ち付け、かぶっていた防毒マスクのレンズが自分の血で真っ赤に染まった。機関兵の悲鳴が聞こえたが、持ち場を守ることで必死だった。
Tさんが乗船した足柄は、大戦前の37年5月には英国に派遣され、ジョージ6世の戴冠記念観艦式に国内から唯一参加した船だった。「上官に『有名な船だぞ』と言われてね。誇らしかった」
「総員退避!」。上官の叫び声が響く。数発の魚雷が直撃した足柄は砲身が海につかる寸前に傾いていた。乗組員が投げ出されるように海に落ち、Tさんも続いた。6月8日午後0時37分、足柄は沈没。乗組員と移送中の陸軍兵士ら計約2千人のうち、乗組員約300人が犠牲となり、陸軍兵士にも死者が出た。
2時間海を漂流し救助されTさんは、英国軍による1年間の捕虜生活を経て46年8月に帰国。故郷は平穏を取り戻していたが、胸の痛みは消えなかった。

Uさん(熊本県 90才)

 熊本県本渡町(現・天草市)に生まれ、1942年5月、16歳で志願して佐世保第2海兵団に入った。機関兵として訓練を受け、1年足らずで足柄への乗艦を命じられた。
 45年6月8日。シンガポールに陸軍部隊を運ぶため、インドネシア沖のバンカ海峡に差しかかったときだった。艦内に爆音が響き、激しい横揺れが襲った。船底に近いボイラー室で戦闘配置についていたが、立っていられない。英軍の潜水艦が放った魚雷4発が命中していた。「もう上がるぞっ」ボイラー室には同期のKさんと2人だけになり、一緒に退避しようとした。だが、Kさんは座ったまま、立ち上がろうとしなかった。
「泳げないから、お前に迷惑をかける。俺はここで死ぬ。生き残って内地に帰ったら、俺の死に様を両親に伝えてくれ」
どれだけ促そうとも、決意は固かった。「K、さようなら」。タラップを駆け上がり、海に飛び込んだ。約3時間、必死に泳ぎ、行動を共にしていた駆逐艦にたどり着いた。足柄は沈没し、乗組員約1000人のうち185人が死亡した。

✳︎写真は足柄と同型艦の妙高の模型

礼号作戦

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