古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論

2019年08月10日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 本稿は、雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」の意味するところと、その周辺部分の編纂者の書きぶりの巧みさについて言及するものである。従来からの日本書紀の解釈や分注論では決して至ることのできない、「読む」ことの重要性について論を起こしている。
 該当部分は、雄略即位前紀の政争記事にある。そのなかで、坂合部連贄宿禰さかあひべのむらじにへのすくねが、黒彦皇子くろひこのみこの屍を抱いて焼死したため、遺骨を選別することができなかったとある。

 天皇許したまはずして、火をけていへきたまふ。是に、大臣と、黒彦皇子くろひこのみこ眉輪王まよわのおほきみと、倶に燔きころされぬ。時に坂合部連贄宿禰さかあひべのむらじにへのすくね、皇子のかばねを抱きて燔き死されぬ。其の舎人とねりども名をもらせり。焼けたるを収取とりをさめて、遂にかばねること難し。ひとひつきれて、新漢いまきのあや𣝅本つきもとの南のをか𣝅のよみ、未だつばひらかならず。蓋し是れ槻か。に合せはぶる。〔天皇不許、縦火燔宅。於是、大臣与黒彦皇子眉輪王、倶被燔死、時坂合部連贄宿禰、抱皇子屍而見燔死。其舎人等、収-取所一レ焼、遂難骨、盛之一棺、合-葬新漢𣝅本南丘𣝅字未詳。蓋是槻乎。〕(雄略前紀安康三年八月)

 「新漢」とは、今来いまき、すなわち、最近やってきた渡来人のことで、彼らが集住している地名である。わざわざ南の丘と断ってある。方角の南を表す字には、「陽」、「離」、「明」もある。「離」は八卦の一で、方位には南方に当てる。易の記号は「☲」で、漢字の「一」と「一」の間に区切りを入れている。また、「離」には「めい」の意があり、「明」も南の意に用いる。斉明紀の伊吉博得書に「みなみ」(斉明七年五月)とある。「明」の字形は、日月から成る。(ヒは甲類)、つき(キは乙類)である。つきのキも乙類である。話は棺の話である。古語に清音でヒツキである。

 棺 古丸反、人木(新撰字鏡)
 棺 四声字苑に云はく、棺〈音は官、一音は貫、比度岐ひとき〉は屍をいるる所以なり、屍〈音は尸と同じ、訓は或に通ず〉は死人の形体を屍と曰ふなりといふ。(和名抄)
 棺 音官、一音貫、ヒト(ツ)キ(名義抄)

 岩波古語辞典に、「ひつぎ【棺】《櫃()城()の意。室町時代までヒツキと清音》人の死体を入れる木の箱。棺()。」(1119頁)とするが、白川1995.は、疑義を唱えている。「ひとき〔棺〕 「ひつき」ともいう。人の屍を収める木の箱。単に「き」ともいう。仮名書きの例がなくて、字の甲乙を定めがたいが、「ひと」の意ならばヒは甲類、ト・キは乙類である。また「ひつ」とする説もあるが、棺をというのはあたらぬようであり、「ひとき」への音の転化をも説きがたい。」(647頁)としている。いずれにせよ、ひつきひつと関連すると考えられよう。
 正倉院に奈良時代の古櫃が百六十六合残る。立体面は杉の一枚板で、被せ蓋造りである。全体の三分の一弱は横桟形式、残りは長側面に各二本、計四本の脚形式で、横桟や脚には槻や桜のほか堅木類が用いられている。前者は和櫃、後者は唐櫃と分類される。和櫃は、蓋・身の稜角に黒漆を塗る陰切と呼ばれる技法が施され、外部からの湿気の侵入を防いでいる。それ以外は白木造りで、鏁子金具はまったくない(注1)。唐櫃は、陰切のほか、脚4本にも黒漆、また、白木造りもあるが、表面全体を蘇芳で赤く染め生漆をかけた赤漆塗りのものもある。鏁子金具がつく例もあり、長側中央上辺の蓋・身双方に、金銅製壺金具がつき、反対面の左右2か所に、金銅製の壺金具、肘金具で蓋と身が連結する構造になっている(注2)
 神功紀に、何日も昼が夜のような暗さになった事件が載る。長老によると、「阿豆那比あづなひの罪」(語義未詳)というもので、二つの社の祝者はふりを合葬したことによる災いではないかという。調べたところ、小竹しのはふり天野あまのの祝は仲良しだったが、小竹の祝が病死したので天野の祝は泣き悲しみ、生きているときいつも一緒にいたから死んでも一緒にいたいと言って、遺骸の傍に伏して自殺してしまった。そのため合葬したのだが、それが良くないとわかったので改葬することにした。

 是の時にあたりて、昼の暗きこと夜の如くして、已に多くの日を経ぬ。時人の曰く、「常夜とこやみ行く」といふなり。皇后きさき紀直きのあたひおや豊耳とよみみに問ひて曰はく、「是のしるましは何の由ぞ」とのたまふ。時にひとり老父おきな有りて曰さく、「つてに聞く、かくの如き怪は阿豆那比あづなひの罪と謂ふ」とまをす。「何の謂ぞ」と問ひたまふ。対へて曰さく、「ふたつの社の祝者はふりを、共に合せをさむるか」とまをす。因りて、巷里むらさと推問はしむるに、一の人有りて曰さく、「小竹しのはふり天野あまのの祝と、共にうるはしき友たりき。小竹の祝、逢病やまひしてみまかりぬ。天野の祝、血泣いさちて曰はく、『吾は生けりしときに交友うるはしきともたりき。何ぞ死して穴を同じくすること無けむや』といひて、則ちかばねほとりに伏して自ら死ぬ。仍りて合せ葬む。蓋し是か」とまをす。乃ち墓を開きて見ればまことなり。故、更に棺櫬ひつきを改めて、おのもおのも異処ことどころにしてうづむ。則ち日のひかり炳爃りて、ひるよるわきだめ有り。(神功紀元年二月)

 棺はヒトキが古形、ヒツキが新しい形とされている(注3)。もともと、人木の意であったものが、櫃との形状の似通いからヒツキとも呼ばれるようになったのではあるまいか。ここでは、二人の遺骸を一つの棺に収めるのは縁起が悪いとされたことを記している。二人を一緒くたにするひつきは、日と月、昼と夜とが一緒くたになる日食を表すということである。同じ言葉は同じ事柄を表すと考えられていた。語の本来の意味での言霊信仰によっている。無文字文化に特有のヤマトコトバの技法であった。音だけが頼りだから、音だけを頼りにして言葉遣いを整序する必要があった。だからヒツキ(ヒは甲類、キは乙類)に合わせ葬ることは災いと考えられた。
 ところが、その悪しき罪のはずが、黒彦皇子と坂合部連贄宿禰の場合は問題とされず、一棺に合葬している。なぜか。新漢の地で調達した棺は、それに合致する新形態のものであったからであろう。すなわち、カラウトである。
 カラウト(カロウド)という言葉には、(a)唐櫃、(b)屍櫃、(c)石室の三義がある。唐櫃は、大陸風の櫃のことで、カラヒツ、カラウツ、カラト、カロウトなどともいう。衣類や装身具、調度品、書物の保存、運搬に用い、目的に応じて大小さまざまなものが作られている。白木造りと漆塗りがあり、時には蒔絵や螺鈿のほどこされたものもある。長方形の箱の四面に四本、または六本の反った脚が外向けについている。屍櫃は、亡骸なきがらのカラ、ヒツの転のウツの転のウトである。石室は墓石の下に設けられた空間をいい、横穴式石室をもつ古墳ではそこへ至る通路が付いている。その石室へ棺を納める(注4)。「無戸室うつむろ」(神代紀第九段本文)のウツが転じてウトになっていると思われたのであろう。
上:唐櫃、下:和櫃(飯田剛彦・佐々田悠「正倉院櫃類銘文集成(一)」『正倉院紀要』第41号、平成31年3月。宮内庁ホームページhttp://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Bulletin/Pdf?bno=0415084142(3/59))
 今来の渡来人集落で調達した棺(屍櫃)は、和櫃にはない脚がついた唐櫃であった。まらうと蔵人くらうどのように、人のことをウトという。人だから脚がついている。脚が四本あると、二人分収めても適うことになる。
 「離」を表す「☲」という記号は、一人と一人の間に区切りを入れること、離すことに成功している。また、唐櫃には、蓋の内側にも漆塗りされたものがある。蓋を裏返して盆のように用いた。身も蓋もあることになる。一人は身に、もう一人は蓋の内側に納めたという洒落に適っている。さらに、ウトは烏兎、すなわち、金烏玉兎きんうぎょくとの略で、中国の知識では日月の別名である。日月ひつきひつきである。そして、「☲」と表される「離」に同じ方角の、南と定めて丘に葬っている。丘は墳丘で、棺が格納される石室を備えていた。カラウトなのだから合葬することに支障はない。すべての言葉が言葉自体に絡められるように循環して解説されるに至っている(注5)
 雄略紀の分注にある「𣝅」の字は木偏に疑と書く。字書に見えない造字である。木かどうか疑わしいもの、それはウドである。ウコギ科の多年草で木ではないが、高さは1.5~3mにも達する。タラの芽に似た若芽は香りが良く、煮物や汁の実に用いられた。山菜の原形をとどめ、芽の先が緑がかったものを山ウド、暗い室で軟白栽培のものは白ウド、または、単にウドと言って区別される。本草和名に「独活 宇止うど、一名、都知多良つちたら」、新撰字鏡に「独活 宇度うど、又云はく、乃太良のたらといふ、二月採りて根を曝干す」とあり、陶弘景の本草経集注に伝わった薬草である。出雲風土記に、「独活つちたら」と見える。古くウトと清音であった。紀に、「𣝅本」と「もと」に注目してあったのは、根が漢方薬になるからであろうし、大木になることも示している。図体ばかり大きくて役に立たないことは、ウドの大木という。あるいは、中国から新しい栽培法、石室を造った内、すなわち、カラウト内での促成栽培が持ち込まれ、山ウドではないものに興味が持たれたのかもしれない。今日、東京都の多摩地方で栽培が盛んである。
山ウド(市場流通品)
 また、「槻」は集韻に、「槻 一に曰ふ、樊槻とねりこ、木の皮は水に漬け墨に和して書けば色脱けず」とある。「槻」がトネリコをも表すので、雄略前紀の「其舎人等、闕名」と断り書きのあるところからも理解しやすい。舎人の名など記す必要は最初からないのに、わざわざ「闕名」と断っているのは、「槻」がケヤキなのか、トネリコなのかもわからないほどに、「𣝅」とは何かわからないこと、ならびに、トネリ=ト(助詞)+ネリ(練)という印象から一緒にいることを物語ろうとしている(注6)。ウドを栽培するために掘られた横穴に葬られたことを表しているようである。丘なのだから、古墳に見紛うということである。
 そのことは、熱田本日本書紀の神功紀元年二月条、「棺櫬」の右傍に「子リ」とあることからも了解される。「棺櫬」のことのどこがネリだというのか不明とされ無視されているが、舎人とねりが一緒に練り歩くことを表すのであれば、意味が通じる。お練り供養に伝わるように、あの世、極楽浄土へと一緒に練り歩くのである。だから、「棺櫬」ひとつに、小竹の祝と天野の祝は入らんとしていた。14世紀とされる熱田本の書写、傍訓筆段階において、機知に富んだヤマトコトバを理解した、特異な訓みは伝えられていた。
 最後になるが、とりあげた雄略前紀のこの部分は、今般、議論されなければならない個所になっている。日本書紀の書記者の推論にかかわっているからである。森1999.は太田1962.(注7)を引き、他の分注ともども、日本人ではない人によって編修時に書かれたものと考えている。「中国人による原注であろう。それも日本で生まれ育った中国人ではない。渡来一世だ。」(177頁)とある。そして、日本書紀区分論におけるα群は、「日本語に精通していない者」によって書かれたものであるとする説へと展開している(注8)。そのまさにレバレッジの要の部分に当たっている。よくわからないからよくわからない注が付いているとするのである。ところが、上述のとおり、この部分を書いた紀の編者は、日本語に精通しすぎるほどにヤマトコトバに精通していて、「𣝅」なる字を造ってまで事の真相を明らかにしようとしている。わざわざ分注を使い、読む時によくよく注意するようにと警告している。しかし、現代の日本書紀研究者は、網の目のように張り巡らされたヤマトコトバの洒落の洪水(注9)にまったく気づくことのないまま、御大層な議論を行うばかりである。誰が書き記したかよりも、何が書いてあるかのほうが百倍大事であることを忘れるに至っている。古代の史家は、本邦においても、司馬遷同様、一文字一文字に魂を入れて記述していたのであった。
 以上、古代における「棺」のあり方、その概念をうまく記した雄略前紀の分注について考察した。日本書紀を書いた人はヤマトコトバに熟達しており、同じレベルで読まれることを期待して書いていてほとんどそのまま残されている。文字列の分析の対象としている限り、ヤマトコトバによって記された知恵の沃野に近づくことはできない。

(注)
(注1)後世の長持などはその限りではない。
(注2)関根1991.参照。
(注3)紀の古訓に、ヒツキ、ヒトキの両用あり、またキともある。

 其の棺櫬みきもを開きてたてまつしれば(開其棺櫬而視之)(景行紀四十年是歳熱田本訓)
 ひとつひつき入れて(盛之一棺)(雄略前紀書陵部本訓)
 ひつきの上に置けり(置棺上)(推古紀二十一年十二月岩崎本訓)
 の上に置けり(置棺上)(推古紀二十一年十二月書陵部本訓)
 乃ちまたひときに伏してかむさりましぬ(乃且伏棺而薨)(仁徳前紀前田本訓、「棺」の左傍にはアナニともある)
 時にみこともちの屍を取りて、王の墓の土を底に埋む。王のひときを挙げて、其の上におろしすゑて曰はく、……(時取宰屍埋于王墓土底以挙王櫬窆其上曰……)(神功前紀仲哀九年十二月熱田本訓)
 棺櫬ひつき(棺櫬)(神功紀元年二月北野本訓)
 棺櫬子リ(棺櫬)(神功紀元年二月熱田本訓)

 景行紀の例について、大系本日本書紀の注に、「ミキという古訓もある。ミは、神・天皇のものを示す接頭語。キは、城()の意であろう。屍を収める城の意がもとである。」(107頁)とある。熱田本の傍訓によっていて、岩波古語辞典の解釈へとつながっている。奥つ城などとの連想であろうが、キを「城」の意ととるのは無理がある。棺に入れてその棺を奥つ城に葬るものである。「棺」、「櫬」とも木偏である。新撰字鏡にも「人木」と説明されている。「木」の意と解するのが妥当であろう。あの木の箱は何というものだ? あれは人が入っているからヒトキというものだ、なかの人は出てこないのかい? いやいや長期保存が目的のヒツみたいなもので、別名をヒツキというんだ、という理解は素直であろう。
(注4)考古学では、「棺」は遺体を入れる容器のこと、「槨」は棺を納め、保護する容器のこと、「室」は槨を安置した場所で人が活動できる広い空間のことで、そこ(玄室)へ至る通路(羨道)も含むものとしている。
(注5)世の中には車長持と呼ばれるストッカーが伝わっている。いつごろからあるのか筆者は知らない。上述のように、ヒトキ(ヒは甲類、ト・キは乙類)→カラウト(カロウド)の連想からすると、「轜車きぐるま」との関連も考察されなければならない。拙稿「轜車について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6bd57f8689ef57db4f0ca8bdc742ae16参照。後考を俟つ。
車長持(アミューズミュージアム使用品)
(注6)日本書紀の“研究者”は、その分注について、形式や機能から分類を試みている。例えば是澤2017.は、Ⅰ引用、Ⅱ異伝、Ⅲ編者注と分類したうえで、Ⅲ編者注は、その機能によって、①辞書的記述、②記事に関する情報の増補的記述、③記事に対する編纂者の主体的記述、に分類している。ここの「闕名。」は「闕漏注」43例に一括され、②記事に関する情報の増補的記述の一例であるとされている。また、「蓋是槻乎。」は「疑問注」15例に一括され、③記事に対する編纂者の主体的記述の一例と位置づけられている。
 この捉え方は「読む」姿勢としてあまり愉快なものではない。なぜなら、編者自身によってなされた注記においては、前後の文脈を無視して字面だけから機能を判断できる代物ではないからである。重要人物で本来なら名がわかっていて当然であろう個所の「闕名。」と、この部分のように名が伝えられている必要性自体が疑問視されるところにある「闕名。」とを同列に扱うことは、「読む」ことの妨げにさえなる。ここの「舎人」に対する「闕名。」という分注は、それを読んだとき、クスッと笑うべき記述である。拙稿「舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/efffa959adcea4998fbe52211e927561参照。また、「蓋是槻乎。」も、「疑問注」という“定義”を外して、編纂者の「疑問」ではなく、読者に「疑問」、それもなぞなぞ的な「疑問」を投げかけていると捉えなければ全体の理解には至らない。「蓋……乎。」といった修辞は方便として利用されているのである。
(注7)「𣝅字未、蓋是槻乎、……等の一見おだやかならぬ註記も、この辺の[日本書紀]編修者が特に一本・別本・或本説を供示するに熱心である点と併せ考えて、原資料の保存に比較的忠実ではあったけれども、しかしそれを咀嚼し、消化するには少し欠ける憾みをもった担当者の傾向を推知すべき例と考えることができるであろう。」(92頁)。筆者は、太田1962.や森1999.に、この辺の編修者のするどい書きっぷりについて、まったく理解できていないことを指摘している。日本書紀の書記官が誰であったか、また、誰かに教わりながら書いたのかといった点については、ヤマトコトバの洒落の多くを理解するほどに「読む」作業を進めたうえで論じることにしたい。
(注8)また、森2003.参照。
(注9)上代語としてあった言語体系の言語ゲームのルールは、今日の人の見方からすれば頓智や洒落に映る。無文字時代の余韻を残した記紀万葉の言葉のあり方の根幹は、言=事であり、一つの言葉(音)はどういう角度からかはともかく一つのカテゴリーに収斂される概念と捉えられていた。

(引用文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
太田1962. 太田善麿『古代日本文学思潮論(Ⅲ) 日本書紀の考察』桜楓社、昭和37年。
是澤2017. 是澤範三「『日本書紀』の分注─〈倭義注〉とその偏在から考える─」蜂矢真郷編『論集 古代語の研究』清文堂出版、2017年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
関根1991. 関根真隆『正倉院への道─天平美術への招待─』吉川弘文館、平成3年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上貞光・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
森1999. 森博達『日本書紀の謎を解く』中央公論社(中公新書)、1999年。
森2003. 森博達「日本書紀成立論小結─併せて万葉仮名のアクセント優先例を論ず─」『国語学』第54 巻 3号、2003年7月。雑誌『国語学』全文データベースhttps://bibdb.ninjal.ac.jp/SJL/view.php?h_id=2140010150

※本稿は、旧稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字、未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである」(2012年2月)に加筆したもので、2023年8月にさらに少し補った。

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