古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

安康記、目弱王物語における都夫良意美の発言「然恃己入坐于随家之王子者死而不棄」について

2019年08月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
はじめに

 安康記の目弱王(まよはのおほきみ)物語で、七歳の目弱王は義父に当たる安康天皇を暗殺したのち、都夫良意美(つぶらおみ)を頼ってその家に逃げ込んでいる。都夫良意美は大長谷王(おほはつせのみこ)の軍勢に取り囲まれながら堂々と振る舞い、最後は目弱王の言葉通りに運命を共にしている。実に劇的な物語である。ここでは、そのクライマックス部分について検討する。
 まず、今日一般に訓まれている訓み方を示す。

 亦、軍(いくさ)を興して都夫良意美(つぶらおみ)が家を囲みき。爾くして、軍を興して待ち戦ひ、射(い)出(いだ)す矢、葦の如く来散りき。ここに大長谷王(おほはつせのみこ)、矛を以て杖と為(し)て、其の内を臨みて詔(の)らさく、「我が相言へる嬢子(をとめ)は、若し此の家に有りや」とのる。爾くして、都夫良意美、此の詔命(みことのり)を聞きて、自ら参ゐ出で、佩かせる兵(つはもの)を解きて、八度(やたび)拝(をろが)みて白さく、「先の日に問ひ賜へる女子(むすめ)、訶良比売(からひめ)は侍らむ。亦、五処(いつところ)の屯宅(みやけ)を副(そ)へて献らむ。〈所謂(いはゆ)る五村(いつむら)の屯宅は、今の葛城の五村の苑人(そのひと)ぞ。〉 然れども、其の正身(ただみ)の参ゐ向はぬ所以(ゆゑ)は、往古(いにしへ)より今時(いま)に至るまで、臣・連が主(あろじ)(注1)の宮に隠れしことは聞けども、未だ王子(みこ)の臣が家に隠れしことを聞かず。是を以て思ふに、賤しき奴(やつこ)意富美(おほみ)は、力を竭(つく)して戦ふとも、更に勝つべきこと無けむ。然れども、己(おのれ)を恃(たの)みて陋(いや)しき家に入り坐(ま)しし王子は、死ぬとも棄(す)てじ」とまをす。如此(かく)白して、亦、其の兵を取りて、還り入りて戦ふ。爾くして、力窮(つ)き矢尽きぬれば、其の王子に白さく、「僕(やつかれ)は手悉(ことごと)く傷(お)ひつ。矢も亦尽きぬ。今は戦ふこと得ず。如何(いか)に」とまをすに、其の王子、答へて詔(の)らさく、「然らば、更に為(せ)むすべ無し。今は吾を殺せ」とのる。故(かれ)、刀(たち)を以て其の王子を刺し殺し、乃ち己が頸を切りて死にき。(安康記)

 この場面で都夫良意美は、まず、天皇家の大長谷王の「詔命(おほみこと)」に対して、礼儀正しくふるまっている。呼びかけがあったから、矢を射る戦を中断し、家の外へ出て武装を解き、八度礼拝してから答えている。そして、問われた訶良比売(からひめ)については嫁がせますし、その嫁入りに当たっては五か所の屯宅も添えて進ぜましょう、と丁重に答えている。だけれども、それとは別の話として、自分があなた様、大長谷王のもとに参上しない理由はこれこれです、と滔々と述べている。
 主人のところに家臣がかくまってもらうことは聞いたことがあるけれど、王子の方が家臣の家に隠れることなどない。そんなことが今、自分の家で起こっている。もちろん、全力で戦っても、決して王家に勝てるはずはないと知っている。とはいえ、自分のことを恃みにして来た王子には、礼を以て接しなければならない。だから戦うことになるが、負けるから王子は死ぬことになる。そうなっても主人を大切にするのが臣下たる務めである、という言い分である。貴い王族のことである。死ぬまでがわずかな時間であれ尊厳をもって接し、死んだ後でも粗末に扱うようなことはしない。戦況の悪化時には年端もいかぬ目弱王にどう対応するかお伺いをたて、自分は王子の意のままにふるまって、その末に自刃して果てている。

問題の所在

 都夫良意美の発言の最後の一文、「然恃己入坐于家之王子者、死而不棄」は、本文校訂によって「陋」とされている。しかし、真福寺本、兼永筆本にここは「随」とあって揺るがない。また、「而」は通常、テと訓まれることが多いなか、トモと訓んでいる。この2点は再考の必要がある。
 西條1998.は、和語の接続助詞「~テ」で訓まれる文字に、記では「而」、「以」を当てて書記していると述べている。「而」は漢文では順接と逆接に両用される連詞であるが、記に約550例あるうち、明らかに逆接とみられるのは、「然恃己入坐于陋家之王子者、死而不棄」(安康記)の1例であるとする。
「……然恃己入坐于随家之王子者死而不棄……」(4行目14字目~5行目6字目)(真福寺本古事記下巻、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184140(18/38))
 この部分は、諸解説書に次のように訓まれている。

 「……。然(しか)れども、己(おのれ)を恃(たの)みて陋(いや)しき家に入(い)り坐(ま)せる王子(みこ)は、死ぬとも棄(す)てじ」(新編全集本、333頁)
 「……。然れども己れを恃(たの)みて陋(いや)しき家に入り坐(ま)しし王子(みこ)は、死にても棄(う)てじ」(西郷2006.、233頁)
 「……。然(しか)あれドモ、己(おノ)れを恃(たノ)みて陋(いや)しき家(いへ)に入(い)り坐(ま)しし王子(みこ)者(は)、死(し)に而(て)モ棄(う)て不(じ)。」(思想大系本、265頁)
 「……。しかれども、おのれを恃(たの)みて、陋(いや)しき家に入(い)りまししせる王子(みこ)は、死ぬとも棄(う)てまつらじ」(古典集成本、237頁)
 「……。然(しか)れども己れを恃(たの)みて陋(いぶせ)き家に入り坐(ま)しし王子(みこ)は、死ぬとも棄てまつらじ。」(古典全書本、245頁)
 「……。然れども己れを恃(たの)みて随(やつこ)の家に入り坐しし王子(みこ)は、死にても棄(う)てじ。」(倉野1980.、196頁)
 「……。然れども己(おのれ)を恃(たの)み、随(ともひと)の家に入り坐(ま)しせる王子(みこ)は、死ぬとも棄(う)てまつらじ」(中村2009.、210頁)
 「……。然(しか)あれども、己(おのれ)を恃(たの)みて随(とも)が家(いへ)に入(い)り坐(ま)しし王子(みこ)は、死(し)ぬとも棄(す)てじ」(新校古事記、136頁)

 都夫良意美が大長谷王に向かって放った言葉である。そう啖呵を切った後、再び戦いに戻っている。都夫良意美は大長谷王(後の雄略天皇)の軍勢の攻勢に奮戦するも、傷つき、矢も尽きてしまった。そこで、目弱王にどうしたらいいか奏上を立てていて、王子は答えている。もう仕方がないから、私のことを殺しなさい。その言葉にこたえて、刀で王子を刺し殺し、自分の頸も切って死んでしまった。
 都夫良意美は、最初から負けると思いながらも戦っている。仕方がないではないか。臣下の方が主人を頼ってその宮にかくまってもらうことは聞くけれど、その反対の、王子の方が臣下の家にかくまってもらおうとしたことなどない。身分が違うこともあるし、家の構えとして、すなわち、“城”としての防御機能が全然違う。都夫良意美は大豪族ではないのである。勝てっこしないのはわかっているけれど、自分のことを王子が頼ってきたのである。王子はまだ七歳である。頑張る以外に選択肢はない。そして、結果、万策尽きている。最期をどうしようかと王子に問うている。もう他に手立てはないから、自分のことを殺せと言っている。そこで、都夫良意美は目弱王を刺し殺し、すぐに自分も自刃している。
 上述の諸解説書の訓みは、論理学上の論理の次元で、とても奇妙に聞える。都夫良意美の娘は大長谷王の許嫁(いいなずけ)であった。そのことを問われたとき、家から出て前に進み、武器を外して再敬礼で拝礼して答えていた。その態度とは裏腹に、再度籠城して矢を射続けている。彼は言っていた。「死ぬとも棄てじ」。死んでも目弱王のことは見捨てないよ、というのである。なのに、死ぬ前に目弱王を殺して、自分も死んでいる。「死ぬとも棄てじ」は都夫良意美の心意気を表明しているのだと考えられているようであるが、そういった言い回しをしたいなら、自分の目の黒いうちは絶対にお守りするよ、という言い方もある。言っていることとやっていることにズレがあり、解釈に誤謬があると感じられる。

無文字時代の言語活動

 現代の言葉遣いでいえば、それは言葉の“あや”というものだとされよう。そのため、曖昧なままの解釈が罷り通っている。しかし、ここで使われているのは上代語である。無文字時代に、言葉は、言霊信仰にしたがって用いられていた。言葉は事柄をそのままにあらわし、事柄は言葉にそのままにあらわれる。互いに相即の関係にあると考えられていた。文字を持たない言語の、言葉のやり取りにおける担保として、「言」=「事」とすることを暗黙の了解としていた。コトという一語に集められ、表され、概念となっている(注2)。したがって、「死ぬとも棄(す)てじ」という「言」と、「刀を以て其の王子を刺し殺し、乃ち己が頸を切りて死にき。」という行為、つまり、「事」とが、言行不一致を来している。上代の観念にあり得ない。
 この矛盾への解決策は1つしかない。「然恃己入坐于陋家之王子者死而不棄」の「而」字を、他の古事記の例と同様、テと訓むのである。そして、「者」は、事物を強調提示する助詞ハである。訓み方は次のようになる。

 「……然恃己入-坐于随家之王子者死而不棄」
 「……然れども、己を恃みて随の家に入り坐せる王子は、死にて、棄てじ」

 「者」は事物を区別し指示する。ヤマトコトバのハであり、取り立ての助詞と解される。すると、ここでは主語につくハであると考えられる。例をあげる。

 故大毘古命者随先命而罷-行高志国
 故、大毘古命(おほびこのみこと)は、先の命(みこと)の随(まま)に、高志国(こしのくに)に罷り行きき。(崇神記)(注3)

 したがって、「者」の後にある動詞「死」ぬの主語は、「者」の前にある「〔恃己入-坐于随家之〕王子」、すなわち、目弱王であり、都夫良意美ではない(注4)。都夫良意美ではないということは、この文章が、話者である都夫良意美自身が死んでも目弱王のことは見捨てない、と宣言しているのではないということである。文章の構成は次のようになる。

 「……然れども、己を恃みて随の家に入り坐せる王子は死にて、[吾(=都夫良意美)ハ]棄てじ」

 死ぬのは「王子」である。すなわち、王子が死んだとき、その遺骸を私、都夫良意美は無碍に棄てない、つまりは、晒しものにしないということである。都夫良意美の主張は、語られている時代の天皇周辺の政争による殺害、粛清において、遺体を棄て置いたり、遺族に対して敬意を抱かず無関心に放置したことに関連し、非難する内容になっている。穴穂御子(安康天皇)は大日下王(おほくさかのみこ)を殺してその嫡妻(むかひめ)、長田大郎女(ながたのおほいらつめ)を我が物にして皇后に据えている。大日下王と長田大郎女との間の遺児が、目弱王である。実父を殺した人の家に、それとは知らされずに育てられている。母親はそのことに無頓着である。そのうえ、「神牀(かむどこ)」という、神殿に備えられたベッドに2人して昼寝をしている。神託を求めて潔斎して夜寝るためのところで、昼間からいちゃついておしゃべりしていた。その高床式神殿の床下で、目弱王は遊んでいた。天皇は、目弱王が成長して父親を殺したことを知ったら、自分に対して邪心を抱くだろう、それが気がかりだと后の長田大郎女に話した。聞きつけた目弱王は、天皇の寝ているところを暗殺し、都夫良意美のところへ逃げ込んだ。
 異常事態である。安康天皇の弟の大長谷王(雄略天皇)は腹を立てた。彼は「童男(をぐな)」であった。やんちゃなのである。同母の兄に当たる黒日子王(くろひこのみこ)、白日子王(しろひこのみこ)にどうしたらいいかと持ち掛けたが、どちらものほほんと構えていた。怒りが突発的に湧き起こり、見境もなく残忍なやり方で殺してしまっている。世相が道義、礼節を欠いてしまっている。そんな状況に対して、都夫良意美は物申していると知れる。

「随」字の訓

 したがって、この個所の従来の訓みには、2点、訂正が求められていたとわかる。再掲する。

 「……然、恃己入-坐于之王子者死而不棄」
 「……然れども、己(おのれ)を恃(たの)みて随(まま)の家に入り坐(ま)せる王子(みこ)は死にて棄てず」

 本文校訂において、「随」字を「陋」としていたのは誤りである。倉野1980.に「随」をヤツコ、中村2009.に「随」をトモヒト、新校古事記に「随」をトモと訓む訓法が行われていた。主人たる王族の目弱王と、臣下たる都夫良意美との間柄について、ヤツコ、トモヒト、(ミ)トモなどと呼ぶことから推理して訓づけしている。しかし、わざわざ「随」字を使っている理由は不分明である。単に意訳として訓まれるべきではなく、深い理由があって用字が選ばれていると考えられる。太安万侶は、自らの書記の方針として、「意況易解、更非注」(記序)と述べていた。覚悟を持って書紀している。
 「随」字は、副詞のマニマニ、ママニと訓まれる。中古にはすでに、ママとつづまった形が確立している。事態の成り行きにまかせることを指す。このママという言葉は、「継」という字を当てるママに通じている。親子・兄弟の関係において、血のつながりのない間柄をいう。自分が選んでそうなったのではなく、近親者が婚姻関係を結んだ結果、成り行きとして親子関係や兄弟姉妹関係が成立して、ママ(継)の間柄になっている。1つの音列の言葉は、1つの意味のもとに収斂されることに落ち着いている。

 庶兄 万ゝ兄(新撰字鏡)
 ◆(白偏に丁) 万ゝ妹也(新撰字鏡)
 継父 万ゝ父(新撰字鏡)
 嫡母 万ゝ波ゝ(新撰字鏡)
 ◇(女偏に虛) 胡故反、好也、𨈣也、媔也、戯(?)也、悦也、保志支万ゝ(ほしきまま)。又阿佐礼和佐須(あざれわざす)
 態 他載反、去、意心恣也、保志支万ゝ尓(ほしきままに)(新撰字鏡)
 当(まさ)に衆神(もろかみたち)の意(みこころ)の随(まま)に、此より永(ひたすら)に根国(ねのくに)に帰(まか)りなむ。(神代紀第七段一書第三)

 いま、都夫良意美は「女子(むすめ)」の訶良比売を大長谷王に嫁がせようとしている。天皇家と姻戚関係になるわけである。都夫良意美は、大長谷王の義理の父、継父(ままちち)になる。大長谷王は安康天皇の弟である。安康天皇の妻、長田大郎女の連れ子が目弱王である。目弱王にとって安康天皇は継父、大長谷王は継叔父(ままをぢ(?))に当たる。そんな目弱王が都夫良意美のところに助けを求めて逃げ込んできている。すなわち、目弱王は、継祖父(ままおほぢ(?))の関係にある家を、その身の最後の恃みとして訪れたということである。子は親を選べない。臣下も主人を選べない。好きなように姻戚関係を結ばれて、棄て置かれて虐げられ、いつ命を奪われるかわからない晒し者の存在になる人がいる。その気持ちがわかるから、都夫良意美は目弱王が逃げ込んできたときに門残払いにしなかったと言える。
 第二に、「…者死而不棄」の「而」は順接仮定の因果関係を表すことになっている(注5)。実父である大日下王を殺して実母の長田大郎女を奪ったのが安康天皇である。目弱王にとっては継父である。継父である天皇を暗殺した目弱王は、目弱王自身に権力があって天皇にでもなるのならともかく、権力闘争の渦中にあれば池禅尼の歎願でもなければ、少年法もないのだから七歳の子は死罪になるであろう。とはいえ、大長谷王(雄略天皇)が、同母の兄を次々にむごいやり方で殺していったのと同様にされてはたまらない。尊厳を保つことができるように、丁重に扱われなくてはならない。そう都夫良意美は考えている。だから、その遠い姻戚関係を頼って来たからには、少なくとも自分だけはと思い、敬意をもって対処したのである。「死にて棄てず」の精神が必要であった。
 以上が、都夫良意美のところへ逃げ込んだ目弱王の逸話が伝えたいことである。
 校訂面において、「随」は「陋」の誤りではなく、ママと訓み、継父(ままちち)などの意とともに、その意向のままに随うことを含んで謂わんとしていると理解された。言葉のなかに言葉が塗り込められるように意味が重なり合っている。
 文法的には、「而」はテと訓み、古事記の他の用例ならびに不読の用例同様、順接の関係を示していると理解された(注6)


(注)
(注1)真福寺本に「主宮」とあるを、今日、一般に、兼永本に「王宮」とあるに従っている。その兼永本には「王」の右傍に「主」とある。主人のことを指すアロジはアルジとも訓まれている。臣下が主人の所へ行って匿ってもらうことはあるが、という意味だから、「主宮」とあったほうが妥当であろう。すなわち、庶民レベルでにおいても、隣近所の喧嘩で恐くなった弱い者が、一時的に里長のところへ避難することなどもあったのであろう。そういった事情を含めて一般論を語っているものと考える。「自往古至今時」などと大上段に構えて力説している。新編全集本頭注に、「「臣」も「連」も姓(かばね)の一種だが、ここは臣下の総称としていう。」(333頁)とあるとおりであろう。ところが同書では、「允恭天皇の条に、軽太子が大前小前宿禰大臣の家に逃げ込んだ事件が記されており、……この発言は矛盾しているようにみえる。しかし、次に「是を以て思ふに…更に勝つべきこと無けむ」という判断が導かれているところからすると、皇族が臣下の家に隠れるだけでなく、その命を全うすることまでを含んで、そうした事例を聞いていないことを表現したものとみられる。」(333頁頭注)と、わかったような解釈をほどこしている。允恭天皇条で、軽太子が大前小前宿禰大臣の家に逃げ入っているのは、允恭天皇崩御後のことで、太子が即位するはずだったその前に、百官と天下の人等が太子に背いて穴穂御子側に付いたからであった。どこを拠点に後継天皇の政争を戦うかというだけのことである。軽太子+大前小前宿禰大臣 v.s. 穴穂御子+百官と天下の人等の戦が起こっている。軽太子は匿ってもらおうとして逃げ入ったのではなく、陣を布いたのである。「未聞王子於臣家。」の前例にはならない。
「主宮」(3行目10・11字目)(真福寺本古事記下巻、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184140(18/38))
(注2)井手2004.に、「わが国では、ことばを「物」ではなく、「事」であると考える傾向が古くからあり、上代の人々は、言が事とイコールであると信じたのである。そのことは、ことばの上でばかりでなく、事実としても示される。『記・紀』の神話の中に、……ことばどおりに事柄が進行したことをかたった例がしばしば見られるのは、その一つである。……神のことば、……誓(うけ)いのことば、……夢の中でのお告げのことば……が事実となって現われたというのである。……事物にまで霊魂の働きを信じたアニミズム(Animism)的な思考法の残留した上代(特に神話の世界)においては、ことばが事物に作用して、そのことばどおりに事物が実現すると考えることは、今日とは違って、容易なことであった。……神、天皇、英雄などのことばが、地名の起源として説明するにふさわしいものとして、それらの尊貴の土地の平定、開拓等の行為と同等に重要視されていることは、これもまた、言を事と同一視する、ことばのもつ呪力への信仰から来たものといえる。」(200~202頁、用例や名告りの例など割愛した。)とある。言と事との同一視について、その源泉をことばのもつ呪力への信仰に求めている。筆者の考えとは異なる。言ったとおりに物事がなりがちである点について、早くから「予言の自己成就」(R・K・マートン)という見解が社会心理学に認められている。
 佐佐木2013.は、「言霊(ことだま)」について、「古代日本人は、ことばには現実を左右する霊力があると信じていた。そして、よい内容をもつことばを発すればよい現実がもたらされ、よくない内容のことばを発すればよくない現実がもたらされるだけでなく、同じように諺や歌にも霊力がやどると考えていた、というのである。」(9頁)、「『万葉集』に見える三例[(万894・3254・2506)の]……「言霊」が神のもつ霊力だったとすれば、ことばに対する当時の日本人の考えは、既に原始的なアニミズムの領域を脱していたことになるだろう。アニミズムというのは、自分たちの周囲にある多くの物にそれ特有の霊力がやどっており、自分たちが目にするさまざまな現象の一部は、そのような霊力によって引き起こされたものだ、というような考えかたである。一般的にはことばもその例外ではないが、「言霊」については、早い段階で、人間に具(そな)わっておらず神だけがもつ霊力だと考えられるようになっていたのではないか。」(17頁)とする。これも筆者の考えとは異なる。
 「言」と「事」とが同源の語だとする見解は広く認められている。両義が未分化の状態にあってコトというヤマトコトバの概念範疇が形成されている。他の諸言語においてどのような状況にあったかは知らないが、言葉を使うのは伝えるためである。何を伝えるか。事柄である。ならば、事柄と言葉とは同じでなければならない。翻って、言葉を使うに当たり勝手なことを言うことは可能である。横行するとどうなるか。フェイクニュース(「妖言(およづれこと)」(万1408))がはびこることになる。そうならないためには、「言」=「事」であるように縛りを設けておくのが一等適切なやり方である。なにしろ文字がなく、記録媒体を持たないからである。事後に鑑定するときに、証拠にする術を持っていなかった。「言」=「事」を守っていくことは、見方によっては信仰である。しめ縄を張っておいて中に入るなとする標は、鉄条網ではないから破ろうと思えばあっさり侵入できる。しかし、神の祟りのようなことを嫌って入ろうとしない性善な人が多い。「言霊」という言い方が神の手に存するように感じられるのも、「言」=「事」とする観念が共通認識としてあったからである。集合意識(E・デュルケーム)として、ヤマトの人々の間に共有された信念、慣行であったのが「言」=「事」とするヤマトコトバなのである。その勢力圏、影響圏の拡大こそがヤマト朝廷の版図の広がりと捉えていたから、「言向(ことむ)け和平(やは)す」(景行記)といった言葉が用いられている。言語の側から捉え直すと、言語の論理的厳密性を重視したのがヤマトコトバであったと言える。無文字の言語に正確性、無誤謬性を問い続けると、言葉の1音列は1義であるはずだという原則に従って、今となっては不可思議に思える言葉遣いが行われていた。白川1995.は、「鑿(のみ、ノ・ミは乙類)」と「飲(呑)み(ノ・ミは乙類)」との間に関係性を示唆している。なぞなぞ的な頓智の才を発揮した解釈を駆使して、1音列の1語が示す多義間の関連づけを認めようとする力が働いていたのである。その特徴的な言語活動について、「言霊の幸(さき)はふ国」(万894)と自認していたと考える。問題は言語活動そのものにあり、アニミズム云々の次元のことではない。
(注3)兼永筆本に、「随」字の右傍に、マニマニ(マニ+繰り返し記号)とある。
(注4)兼永筆本には、「王子者死」の部分の右傍に、ミコヲハミウストモとある。
(注5)古事記の「而」字は、書記用漢字、和訓字として、ヤマトコトバのテ(シテ)を表記するために選ばれた文字であるとされている(小林1970.、西條1998.)。漢籍に「而」という文字を和訓するとき、テ、ドモ、シカモ、シカシテ、シカシナガラなどと訓んでいたものが、逆にヤマトコトバを書記するにあたり、テに対して「而」字を常用しようと転じたのである。この議論は古くから行われている。三矢1924.は、「「而」は承上之詞とて、我が「テ」に近似せるより、漢文にては大抵「テ」と訓じたり。其の意によりて、古事記は「而」を用ゐたる」(76頁)とする。また、小島1962.は、「古事記の「而」の例は漢籍によると考へるよりも、上代人の案出した、むしろ素朴な低度の接続詞であらう。」(275頁)とする。
 西條1998.によれば、「雖為取而不得(取らむと為れども得ず)」といった不読字を除いて、「而」はテと訓んで間違いないという。なぜなら、「宇気比而生子(うけひて子を生まむ)」の「而」は、「宇那賀気理弖(うながけりて)」のような字音仮名の「弖」に重なるものであり、また、漢文で逆接になるべき「然而」が、「然而其兄、作高田者(然して其の兄、高田を作らば)」というように順接になっているのは、和語のシカシテをそのまま文字化したからで、漢語として用いているという意識は希薄になっているからであるとする(202頁)。
 古事記の「而」字から離れて、ヤマトコトバの接続助詞テという語を考えたとき、辞書はその意味するところを細かく分類している。時代別国語大辞典に、「①(a)時間的な前後をあらわす。……(b)並列をあらわす。……②(a)原因結果の関係をあらわす。……(b)逆接の関係をあらわす。……③情態や手段・方法をあらわして、修飾句を構成する。……④複合語的に一つの動作概念を構成する。」(482頁)とある。ただし、「把握のしかたによって程度の差しか持たないことが多い。」(同頁)としている。古典基礎語辞典でも、「語釈」に、「①いったん成立した動作や状態が継起・継続するときに用い、上の事態が下の事態より時間的に前に確かに起こったことを表す。…て、〔ママ〕それから。そうして。……②動作や状態が並立しているときに用い、上下の事態の並立・並存を表す。…して。そして。……③順接の関係でテの前後をつなげるときに用いる。テの前の動作が原因・理由となって、次の動作・状態が生じることを表す。(ア)上の事態が確定である場合。…ので。…のために。……(イ)上の事態が仮定である場合。…ならば。…たら。……④逆接の関係でテの前後をつなげるときに用いる。テの前の動作と、次の動作が逆接の関係にあることを表す。…のに。…が。…けれども。……⑤状態を表して、下にくる用言を修飾し、その内容を限定する。…の状態で。…の様子で。…のありさまで。……⑥下に「思ふ」「聞こゆ」などの感覚動詞を伴って、思考・知覚作用の内容を示す。…ていると。…であると。……⑦補助動詞「あり」「侍り」「候ふ」などの前にきて、それと一体になって状態を表す。…て。…して。……⑧《「もちて」の形で》手段・方法の意を表す。…で。…を使って。……」(814頁、この項、我妻多賀子)とあるも、「解説」に、「テは、動作や状態が確かに成立して、そこでいったん区切れることを表す助詞である。『万葉集』には、千五百例以上あるが、その意味・用法は、ほぼ八つに分類できる。……接続助詞テの意味・用法がきわめて多岐にわたっているのは、意味的に非常に弱く、特定の条件づけをするものでないことにもよる。テは、動作状態がすでに成立していることを示すのが役目であるため、その前後の事実関係により、容易に順接にも逆接にもなりうる。」(813~814頁)としている。
 辞書的な細分類は必ずしも有効ではないわけである。小田2015.は、「「て」は、連用形に付いて、継起関係を表す。」(478頁)、「「て」は前件と後件を単につなぐだけであ」り、「「て」が積極的にそのような[順接確定の因果関係、逆接確定の因果関係、順接仮定の因果関係といった]関係を示しているわけではない。)」(479頁)としている。上下をつなぐただそれだけの機能が、ヤマトコトバのテの本義であると考えられる。書き言葉にするなら、句読点の読点に近いもの。英語のカンマに近いものと言えるかもしれない。
ayamug様「南京玉すだれ」(https://www.youtube.com/watch?v=vKlDGwopGj0)
 テを使った合成語に、サテという語がある。サはそれまでの事情全体を承けた言葉であり、テは今の状態や、これから話す事柄とをつなぐ作用を担っている。南京玉すだれの歌に、「あ、さて、あ、さて、あ、さてさてさてさて、さては南京玉すだれ、……」とある。テという言葉の本質を如実に物語っているように思われる。何もないところから、アなどという発語に発起し、南京玉すだれの大道芸が継起してしまっている。サテのテの因果関係は、大道芸人にとっては順接であって、ここでいま営業してかまわないだろう、という訴えかけである。3回目ぐらいまでのサテで、こらこら、こんなところでやるんじゃない、と町役人などが止めに入らなければ、サテと返す見物人の声に、既成事実化してしまうのである。
 翻って、このようなヤマトコトバのテについて、それを「而」字によって書記したことは、上代人の案出した用字術上の高等テクニックであると考える。そして、西條1998.に、「書き手は、基本的な態度として和語を漢文に翻訳する方針を持たなかったので、訓み手の側も、書かれた文字列を非漢語的に訓むという構えで臨むべきであろう。」(107頁)とあるとおりで、「而」字については、「て(、)」「して(、)」、「、」と機械的に訳したほうが、時代的に持続的に使われてきた用法ゆえ、かえって現代語に正しくてわかりやすいといえるのである。
(注6)漢籍の「而」字に逆接の関係を表すものがあることは確かであるが、ヤマトコトバにおいて上代の助詞テが、はたして本当に逆接の関係を表すことがあるのか、筆者は疑問を抱いている。「雖為取而不得(取らむと為れども得ず)」(応神記)の例は不読という解釈で落ち着いている。それは、書記用漢字としての「而」字が「雖」の支配下にあることを意味するようである。言葉となっているテで逆接とされている場合も、上接や下接の語のなかに強い意味があって、テを支配下に置いているだけなのではないかと感じられる。辞書に逆接としてとり上げられている用例を見てみる。

 言(こと)のみを 後も逢はむと ねもころに 吾を頼めて 逢はざらむかも(万740)
 …… 名づけ始(そ)めけめ 名のみを 名児山(なごやま)と負ひて 吾が恋の 千重の一重も 慰めなくに(万963)
 音(おと)のみに 聞きて目に見ぬ 布勢(ふせ)の浦を 見ずは上(のぼ)らじ 年は経(へ)ぬとも(万4039)
 目には見て 手には取らえぬ 月の内の 楓(かつら)の如き 妹をいかにせむ(万632)
 花咲きて 実は成らずとも 長き日(け)に 思ほゆるかも 山吹の花(万1860) 
 抱(いだ)きおろされて、泣きなどはし給はず。(源氏・薄雲)

 1~3例目は、上接の語に「のみ」という語が見える。「のみ」と限っているのだから、それ以外は一般化しないことをすでにニュアンスとして伝えている。現代語訳として、「私を当てにさせているが」、「名児山と負っているけれど」、「評判だけを聞いているけれども」とある。はっきりするからそう訳している。しかし、すでに「のみ」と断っていて印象づけは終っている。より正確に訳すなら、「私を当てにさせておきながら」、「名児山と負っていつつ」、「評判だけ聞いていて」としたほうが、テの“軽さ”が伝わってくる。4例目は、「には」という語が上下にくり返されている。「目に見えるけれど手に取ることのできない月」と逆接を強調するよりも、「目には見えながら手には取ることのできない月」と並列風に訳したほうがわかりやすい。5例目は、「花咲き」と「実は成らず」とに挟まれている。下接の方に「は」と取り立て、「とも」と逆接仮定条件を示している。「花が咲いて実の方は成らなくても」というように、テについてはただ時間的な前後を表す点を中心と捉えたほうが良いであろう。6例目は、「車から抱き下ろされても」と訳されている。母君から引き離されたときのことだから、逆接的に訳すことに甘んじている。しかし、事情が反対の、「抱きおろされて、泣き、叫び、いさちたまふ。」とあるのが順接で、上のようにあるのは逆接であると捉えるのは少し違うであろう。「泣きなどし給はず。」となっている。なぜ泣かなかったかというと、車上で寝ていて抱きおろされたばかりで、事情が飲み込めていなかったからである。後文に、「やうやう見めぐらして、母君の見えぬを求めてらうたげにうちひそみ給へば、……」とある。5例目同様、ただ事の順序を示しているにすぎないであろう。テの機能は上下をつないでいるだけで、それ以上の意味合いは後付けで付いてきたに過ぎない、まことに“消極的”なものと考えられる。

(引用・参考文献)
井手2004. 井手至『遊文録―説話民俗編―』和泉書院、2004年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
倉野1980. 倉野憲司『古事記全註釈 第七巻 下巻篇』三省堂、昭和55年。
古典集成本 西宮一民『新潮古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
古典全書本 神田秀夫・太田善麿校註『古事記 下』朝日新聞社、昭和38年。
小島1962. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 上』塙書房、昭和37年。
小林1970. 小林芳規「上代における書記用漢字の訓の体系」『国語と国文学』第47巻10号、昭和45年10月。(https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/25347/2014101615144123558/Kokugo-to-Kokubungaku_47-10_50.pdf)
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第七巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
西條1998. 西條勉『古事記の文字法』笠間書院、平成10年。
佐佐木2013. 佐佐木隆『言霊とは何か―古代日本人の信仰を読み解く―』岩波書店(岩波新書)、2013年。
思想大系本 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
中村2009. 中村啓信『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川文庫)、平成21年。
三矢1924. 三矢重松『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』文学社、大正14年。(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085)

この記事についてブログを書く
« 雄略即位前紀の分注「𣝅字未... | トップ | 仁徳記、枯野説話の伝承地「... »