古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

相撲と力士─雄略紀十三年九月条と万3831番歌を考えあわせて─ 其の二

2020年09月19日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
(注)
(注1)「大工さんが釿(ちょうな)ではつる - Shaving by Daiku」(japanesepine(https://www.youtube.com/channel/UCEqkC9oV9auXQx_QHJ-DdDA)様)参照。
(注2)長谷川1993.は、雄略紀十三年条の前、十二年十月条に載る、木工(こだくみ)闘鶏御田(つけのみた)の話とが同工異曲であると指摘する。闘鶏御田が楼閣を建設する際、とび職のように高所を自在に駆け巡っていたところを下で見ていた采女が驚いて粗相をした。木工が采女と姦淫したと天皇は疑って刑に処そうとしていたが、無実であると忠言する者があって助かったという話である。同じく大工と采女とのセットの話だからと、関係づけられて解釈されている。そして、2つの話が載っているのは、「韋那(いな)(摂津国河辺郡)の大工たちと、闘鶏(つけ)(大和国山辺郡)の大工たちの両方の顔を立てる必要があったからではないか。この時代の大工は、部民であっても、特殊技術者として重んじられていた。後に平城京が定められるまで、都は、つまり天皇の宮は一代ごとに移動したのである。そのたびに新しい宮殿を建てるわけであるから、熟練した大工の集団は常に確保していなければならなかった。雄略が韋那部を殺すことができなかった理由はそこにある。」(57~58頁)としている。大工技術に優れた人がいなくなると、宮は建たないということを表しており、大工たちの冗談から生まれた話ではないかと推測している。
 議論に大きな誤りがある。言葉が先にあって話は作られる。大工どうしの冗談は、その大工どうしの間でしか通用しない。後に伝えられて伝承化されたとしても、歴代大工記、本朝木工記といった名の書物に収められることはあっても、日本書紀に収められるとは考えにくい。ましてや、韋那部真根という1人の大工がいなくなったからといって、建物が建てられなくなるということはない。屋根に瓦を載せるわけではなく、天皇1代ごと以上に宮は建て替えられている。あげられている作業も、手斧で材を削ることと、墨縄で線を引くことだけである。鑿で鎌継ぎにしようと目論んでいるのではない。教わって何日か練習すれば、うまい下手の別はあっても、よそ見しなければできることである。話の面白さを味わうことが先決である。
(注3)古代に砥石の用途としては、磨製石器や勾玉の製作に始まり、金属の刃物を研ぐこと、ならびに、木材や塑造の研磨の用途があった。漆工芸や鍍金において、下素地と平滑にしておくことは重要である。漆の浸みこみを少なくきれいに仕上げるのに欠かせない。今扱っている材の削りにおいても、チョウナやヤリガンナばかりか、家具類など、砥石、砥の粉が用いられたことであろう。延喜式に見られる砥石の利用については、髙岡2010.参照。
(注4)書陵部本日本書紀の「傷」字には傍訓に前者は「ヤ」、後者は「ツ」とある。大系本日本書紀は、ブラズ、キズクと訓むことを伝えるものとする。ただ、「ヤ」字は縦画が立っていて、「カ」ではないかとも疑われ、カクと訓むのではないか。なぜなら、刃は切りつけた対象をヤブルものであり、事前に自らがヤブラレルことを想定するものではないからである。
(注5)無文字文化の言葉への思いが文字文化のそれと違うことは、この文章にも表れている。スマヒトラシムという言い方である。大系本日本書紀に、「使……相撲」の古訓にスマヒトラシムとある点について、「天皇の行為でも、感心できない行為の場合は、敬語をつけないという平安朝の語法の一つの現われ。」((三)73頁)とある。垂仁紀七年七月条に、「則ち当摩蹶速と野見宿禰と捔力(すまひと)らしむ。」とあり、「令捔力」の主語は、「一臣」なのか、天皇なのか定められない。皇極紀元年七月条に、「乃ち健児(ちからひと)に命(ことおほ)せて、翹岐(げうき)が前(まへ)に相撲(すまひと)らしむ。」とある「相-撲於翹岐前」の主語は皇極天皇であろうかと思われる。しかし、敬語表現は含まれない。
 大系本のいう、雄略紀にスマヒトラシム訓に敬語を欠くとする認識は当たらないと考える。それは、スマヒという語によって証明される。スマヒとは、スマフ(拒)という動詞の連用形の名詞である。こばむことをスマフと言っている。互いに相手の攻撃をふせぐことがスマフである。それをスマヒという名詞に転じた場合、動詞の原義が残存すると感じられたなら、スマヒを自らすることはあり得ないことである。しないしないと拒むことをするということだからである。嫌よ嫌よと言いながら喜んで異性を受け入れる場合、嫌よ嫌よも好きのうち、という諺となって語り継がれる。言外のパフォーマンスに現れるところを注意深く観察せずに事に及べば、裁判所で“合意”の上であったかどうか白黒はっきりさせられる。ヤマトコトバの論理からすると、スマヒは、取らされる形でもってしか行われない。よって、定型訓として、スマヒトラシムという形に落ち着いている。スマヒトラサセシムとあると、拒んでいることを天皇が命令的に行わせて拒ませていることとなって、スマヒ(相撲)を取るのか取らずにスマフ(拒)のか、わからなくなる。天皇の建前は、言向け和(やは)すことである。言霊信仰に基づいて、言葉に従う事柄という原則によって統治している。そのことと矛盾が生じてしまうスマヒという語に、敬語表現は似合わない。
(注6)歌を題詞とともに見たとき、白鷺が木の棒切れをくわえて飛んで行っているのを詠歌している。「由縁有る」とされる巻十六の歌であるから何か別に理由があって、それが伎楽であるというが疑問である。当時の人にとって、説明がなければわからない「由縁」の場合、万3790番歌のように、「竹取翁」伝説が題詞に記されている。端的な題詞は説明を要しないことの表われである。換言すれば、常識として人口に膾炙されていた事柄である。伎楽が大流行を見せていたとの記録もない。歌が歌われた時、「力士舞」という語が登場してきた段階で、「由縁」の種明かしは終了している。AとBとを似たものとして捉えたというだけで、ヤマトコトバの言語テクニックに「由縁有る」とは言えない。逆言すれば、そのようなことで「由縁」とするなら、枕詞をひとつ用いただけで、「由縁」は生じてしまう。最後まで歌い切られて、なるほどうまいこと言うものだなあと感心させられるのが、「由縁有る」歌であろう。ヤマトコトバの多義性、多様性、多面性を絡めまとめてひとつの歌とするものと認められる。
(注7)教訓抄・巻第四の「他家相伝舞曲物語 中曲等」に、伎楽は「妓楽」と記されている。巻四は、胡飲酒、採桑老、抜頭、還城楽、菩薩、迦陵頻、蘇莫者、倍臚、皇麞、清上楽、汎竜舟、河南浦、放鷹楽、蘇芳菲、師子、妓楽、小馬形から成る。内閣文庫蔵本教訓抄、宮内庁書陵部蔵本教訓抄、井伊家旧蔵本教訓抄によって見ることができる。
 教訓抄・巻第四、「妓楽」の項には、「此舞者、聖徳太子之御時、従百済国舞師〈未摩子云〉、所伝置妓楽曲也。」とある。内訳は、「獅子舞」、「呉公」、「金剛」、「迦楼羅」、「婆羅門」、「崑崙」、「力士」、「大孤」、「酔胡」、「武徳楽」の十曲があったとし、このうち、「崑崙、力士ヲバ一曲ニスル」ことなどから「八妓楽」で伝わっているとする。
 今、問題とされている「崑崙」、「力士」の説明を見ると以下の通りである。

 次、崑崙。
  拍子十、可三返。壱越調吹之。先五女、燈臚前立ツ。〈二人打輪持、二人袋ヲ頂。〉其後、舞人二人出テ舞、終ニハ扇ヲツカヒ、マカケヲ指テ、五女之内二人ヲケサウスルヨシス。
 次、力士。〈手タヽキテ出、金剛開門。〉
  壱越調音、火急吹之。可三返。謂之マラフリ舞。彼五女ケサウスル所、外道崑崙ノカウ伏スルマネ也。マラカタニ縄を付テ引テ、件ラウ打ヲリ、ヤウヤウ〔ニ〕スル躰ニ舞也。
  或人云、尺迦仏ノ御䦐也。ヨバイニマハスルトハ是也ト云。(内閣文庫蔵本教訓抄88~89頁)

 伎楽についての論考のうち、書籍化されているものとしては、植木1981.、新川1990.、新川1998.、末吉1998.、今岡2008.がある。
(注8)地名説にはいくつかある。最近のものとしては、井上2015.に、「奈良県磯城郡田原本町法貴寺の「池坐朝霧黄幡比売神社」である蓋然性が高い」(13頁)とする。伎楽が頻繁に行われていたところとの考えが通用していたとしても、歌の作者が、別のところではなく、わざわざ「池神」を選んで用いていることの配慮について検討しなければならない。“歌枕”ではないのに唐突に「池神」が出ている理由が了解されるに至っていない。教訓抄に、推古二十年、百済の味摩之(みまし)の記述として、伎楽舞を呉国に学んで来日し、桜井村に置かれたとある。
(注9)鴻巣1934.に、「こんな絵でもあつたのであらう。巻九の仙人の形を詠んだ歌常之陪爾(トコシヘニ)夏冬往哉(ナツフユユケヤ)裘(カハゴロモ)扇不放(アフギハナタヌ)山住人(ヤマニスムヒト)(一六八二)と共に画賛の歌かもしれない。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259724(51/325)、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注10)例えば次のようなことと同じである。夏目漱石『坊つちやん』の一節に、「「あの松を見給へ、幹が真直で、上が傘の様に開いてターナーの画にありさうだね」と赤シヤツが野だに云ふと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合つたらありませんね。ターナーそつくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙つて居た。……すると野だがどうです教頭、是からあの島をターナー島と名づけ様ぢやありませんかと余計な発議をした。赤シヤツはそいつは面白い、吾々は是からさう云はうと賛成した。此吾々うちにおれも這入つてるなら迷惑だ。おれには青嶋で沢山だ。」とある。主人公の「坊つちやん」は、荒唐無稽な話と捉えている。
(注11)外来語の「理解」に当たっては、既存の類似概念を敷衍させることで納得に至ったものと想定される。神仏習合はことさら珍しいことではなく、在来の神のような「他神(あたしかみ)」が伝来したと思っている。理解に至るには、理解の枠組みが必要であり、その枠組みが活用されて理解される。
(注12)小柄であったとされる隼人が「膂力者(ちからびと)」であったとはいえない。拙稿「隼人(はやと・はやひと)の名義は、助詞のハヤによく表れている」参照。
(注13)スモウ(相撲)という語について、語源や由来についてさまざまに探索されている。例えば、長谷川1993.に、スモウの語源と相撲の字源について、それぞれまとめられている(180~186頁、235~240頁)。中世、近世における音便化といったことや、スマヒの用字については本論から離れる。上代の語に、スマヒである点についてのみ考察している。
(注14)上田1981.によれば、相撲をスマヒと訓むには、本来は「相舞(すまひ)」としての神事芸能的側面を持つものであったからで、後に遊戯化して角技のひとつになったという。筆者は、まわしを互いにつかんで回し合う格闘技である相撲が、言葉としてマフ(舞)要素を自ずと持ってしまうからと考える。あまり使われない後代の当て字を拡大解釈する意見に懐疑的である。とはいえ、後の相撲節において、舞踊や楽奏が伴う点を無視したり、否定するつもりもない。結果として付随している事例を検討することは参考となる。しかし、それがみな歴史を遡ってもとから存在する性格であると定義できるものではない。
(注15)相撲のルーツを問う見方では、大きく分けて北方伝播説と南方伝播説があり、相撲が行われる場面として北方伝播説では葬礼との関連を指摘し、南方伝播説では農耕儀礼との関連を見ている。後代の事例に記録との整合性を示そうとつとめるものの、決定的な証拠を示せずにいるためどちらにも軍配が上がらない。土屋2017.や新田2010.のように、格闘技はどの民族においても発祥するものであるとする見解に勝るものはない。子どもの頃を思い出せば、特にルールを決めずとも、体をぶつけて組み合って力比べをしていた。自然発生的であると体が教えてくれる。
(注16)大陸とのつながりについては、無批判なところも目立ちながらさまざまに論じられている。高句麗の角抵塚や舞踊塚の壁画にも描かれており、列島の相撲の形象、力士埴輪や子持装飾台付須恵器、石人像との結び付きを論じる傾向にある。門田2011.に、「古墳時代の力士像と高句麗壁画の角抵図とは史的背景に基づく違いがあり、おそらく高句麗のそれは中華世界における雑技としての角抵からの影響が考えうる。これに対し、……古墳時代の「力士」の造形に関しては、その背景に中華世界の雑技の文化があるという徴証は想定されない……。よって古墳時代の「力士」の造形を高句麗壁画の角抵図と前提なく直接に結びつけることはできない。」(250頁)とあり、むやみやたらとスマヒと角抵とを一緒にしてはならないと警鐘を鳴らされている。
 また、皇極紀元年七月条、百済の使者の饗宴に、百済王子の翹岐の前で相撲をさせたとの記事は、翹岐の身内の葬礼と関係する見解も示されるが、この記事を以て相撲の何たるかが語るには、あまりにも短くて単発である。
(注17)リキジ(力士)という言葉は、ヤマトコトバ本来のものではない。万葉集に使われた漢語として、「過所(くわそ)」(万3754)、「双六(すぐろく)」(万3827・3838)、「法師(ほふし)」(万3846)、「檀越(だにをち)」(万3847)、「波羅門(ばらもに)」(万3856)といった例とともにあげられることが多い。漢語使用には仏教関係の語も多い。ただ、平板に漢語を外来語として流入させていたと考えるのは誤りであろう。選択的、意識的に、採り入れるものは採り入れ、そうでないものはなかなか広がりを見せなかった。リキジ(力士)という言葉は、仏教の金剛力士像、同じく伎楽の力士面によって定着が見られたものと考えられる。
 新田2010.に、「現代普通に用いられている「力士」の語は、仏を守護する「金剛力士」などのように、もとは大刀を持つ壮士を意味した語であり、特に相撲の競技者を指して「力士」ということは、近世にはじまるようである。」(28頁)とある。相撲節のお相撲さんのことは、スマヒビト、あるいは単にスマヒと呼ばれていたようである。漢語として「力士」という文字を見た人たちが、これはチカラビトのことを示す言葉であると考え、「力士」とは世に言うチカラビトのことだと思い、金剛力士とはお相撲さんのようなチカラビトのことであるとイメージが浮かんで「力士」とは何かが初めてよく理解された。
 それは中国において、仏教の金剛力士を受け入れるに当たっても同様であったろう。中国では、もともとの「力士(リョクシ)」に、勇力ある人を言っていた。春秋公羊伝・宣公・六年条に、「趙盾之車右祁彌明者、国之力士也。」、韓非子・外儲説左下に、「少室周者、古之貞廉潔愨者也。為趙襄主力士。与中牟徐子角力、不若也。」とある。それに対して、仏教では、マラ(Malla)族の音訳に「末羅」、「摩羅」、「跋羅」、「満羅」、「末利」、「末牢」、意訳に「力士」と用いられる。ブッダがクシナーラの北、サーラ双樹の林で入滅された時、大勢のマッラ族は悲しみ泣き、その棺を舁いてマクダバンダナ(天冠寺)へ運んで荼毘に付し、舎利を守って最後はその一部をもらって自分たちも塔を建てて供養した。力持ちが一生懸命持ち上げてお葬式を取り仕切ったことになっている。法顕訳・大般涅槃経・下に、「阿難爾時告諸力士。聴留仏身七日七夜恣意供養。時諸力士聞阿難言。心大悲慶。即於林中種種供養。満七日已。時諸力士以新浄綿及以細㲲纒如来身。然後内以金棺之中。其金棺内散以牛頭栴檀香屑及諸妙華。即以金棺内銀棺中。又以銀棺内銅棺中。又以銅棺内鉄棺中。又以鉄棺置宝輿上。作諸伎楽歌唄讃歎。諸天於空。散曼陀羅花。摩訶曼陀羅花。曼殊沙花。摩訶曼殊沙花。并作天楽。種種供養。然後次第下諸棺蓋。時力士等共相謂言。七日之期今者已満。我等宜応舁如来棺。周匝繞城。令諸人民恣意供養。然後往於城南闍維。作此言已。即便共舁如来之棺。尽其身力而不能起。各共驚怪不知何故。……即舁仏棺。繞城一匝。従北門入。住城之中。聴諸天人恣意供養。作妙伎楽。焼香散華。歌唄讃歎。諸天於空。雨曼陀羅花。摩訶曼陀羅華。曼殊沙花。摩訶曼殊沙花。并作天楽。種種供養。供養訖已。即便従城東門而出。往於宝冠支提之所。……四面火起。経歴七日。宝棺融尽。於時諸天。雨火令滅。諸力士衆収取舎利。以千張㲲纒仏身者。最裏一張及外一重。如本不然。猶裹舎利。当爾之時。虚空諸天雨衆妙華。并作伎楽。歌唄讃歎。供養舎利。時諸来衆及以力士。皆悉各設種種供養。諸力士衆。即以金甖収取舎利。置宝輿上。焼香散華。作衆伎楽。還帰入城。起大高楼而以舎利置於楼上。即厳四兵。防衞守護。……諸力士等取其一分。於闍維処。合余灰炭而起兜婆。如是凡起十処兜婆。」とある。
 そんな力持ちは、仏陀を守る人であったといえる。守護神、金剛力士と同じ意味を持っている。マラ族を「力士」と意訳した結果、イメージが浮かんできてわかりやすくなり、中国人の理解の助けとなった。同じことが本邦でも起こっている。お相撲さんのことをリキシと漢語で呼ぶのが近世まで行われなかったのは、お寺さんに配慮してのことかもしれない。
 林2011.に、中国北魏時代に金剛力士像が異人化して対で造られるようになった点についての考察がある。インドにおいて金剛力士は仏陀のそばに控えていたものが、北魏には門の左右へと離れていっている。「仏陀守護から寺域守護へ」(43頁)と役割が変化した。古代から中国に伝統的に見られる辟邪の門神の考え方と、金剛力士の守護の考え方が融合していったものとされ、「門衛の神、すなわち守門神の役割に固定された」(43頁)のであるとしている。そしてまた、漢墓画像石に見られる力士像の阿形、吽形の対の構成との関係も指摘している。八木1998.参照。
 すなわち、中国では、北魏期に、仏教思想の金剛力士が、もとからある「力士」像と混淆しながら換骨脱胎してよくわかる存在へと衣替えをした。それが、本邦においても理解に有効的に働いたものと思われる。本邦にもともといたのはチカラビトである。そのチカラビトが力比べをするのはスマヒ(相撲)であり、互いに攻撃されることをスマフ(拒)ことと観念されていた。タフサギをつかみ合って舞うように回るようにしつつ勝敗を決める格闘技であった。と同時に、チカラビトがチカラビトであり続けるためには、互いに切磋琢磨する稽古が求められていることも自明のことと思われていた。スマヒ(相撲)に強くなるためには、スマヒ(相撲)をスマヒ(拒)していては駄目なのである。語学的に言えば、スマヒとは自己矛盾競技であったといえる。
 その定義は、事柄そのものへと及ぶ。スマヒに必要な条件、それは、相手があって初めて成立するという点である。一人では相撲も拒絶もできない。祭事に一人相撲が行われる地方もあり、また、自分で言い出しておいて自分で拒絶する内面の葛藤のようなこともないことはない。しかし、語学的な定義は、それらを荒唐無稽なこととして扱う。行為として排除はしないが、自己矛盾をきちんと認識しておくべきと強調している。
(注18)福富1927.参照。
 なぜ「犢鼻」という字を使うかについては、中国で同じようなものをそのように記して呼んでいたからである。和名抄に記述が見える。三角巾の上下を逆にしたような形は、牛の鼻の伸びていくところの形状とよく似ているとの見立てによるのであろう。
 中国で相撲のことを表す熟語は、角抵、角牴と言った。漢書・刑法志に、「春秋之後、滅弱呑小、並為戦国、稍増講武之礼、以為戯楽、用相夸視。而秦更名角抵、先王之礼没於滛楽中矣。」とある。牛が角つき合わせて戦う闘牛に準えられているようである。その連想から、ほとんど裸であるのに陰部を隠す褌のことも、犢鼻、こってい牛、「事負乃牛(ことひのうし)」(万3838)と関連づけて言葉が作られていたのではないか。次の万3839番歌にも、「犢鼻(たふさき)」とある。ヤマトコトバのタフサギがコトヒノウシと直接関係がある語として連想されているか不明であるが、表記においては漢語を用いざるを得ないから、タフサギと呼ばれているものに犢鼻という字を当てている。
(注19)このようなヤマトコトバの言語構成から、ただちに相撲の農耕との関係を導き出して南方から伝播してきたものである結論を急ぐのは間違いである。なぜなら、ヤマトコトバにおいてしか語られていないからである。ヤマトコトバは、若干、朝鮮半島の南部に移り住んでいた人や、中国へ使節として赴いた人がそのときだけ中国大陸で使っていたことはあるかもしれないが、ほとんど列島においてしか用いられていない。すなわち、洒落が通じない地域には、言葉を以て説明することができない。まったくもって無力である。
 また、マラ族を棺運びの力士とする点から、ただちに相撲と葬儀との関係を導き出すのも間違いである。高句麗古墳壁画には、力士が組み合っている図のほか、1体で描かれるものがあるが、棺を運んでいたり、仁王さんのように門前で睨みを利かしているといった構図がとられているわけではない。
(注20)拙稿「十握剣(とつかのつるぎ)を逆(さかしま)に立てる事」参照。
(注21)拙稿「事代主神の応諾について」参照。
(注22)拙稿「走水と弟橘比売」参照。
(注23)『狭山池 埋蔵文化財編』参照。
(注24)円座が樋の口、ミトサギ、タフサギから相撲に関係すると思われて、相撲節に相撲人が狩衣や刀などを脱いでそこへ置くことにつながっている。古くは、力士埴輪に、特徴的な髪形、扁平扇形髷や鉢巻形に形象されている。筆者は、髪形を顔面に平らに考えて円座の形(原山古墳形)、頭部を上から見て樋の口形に頭を突っ込む形(井辺八幡山古墳形)に表しているものと考える。力の強い人は、水門を堰き止めることができるとの謂いである。
 考古学に、いくつかこの扁平扇形髷を解釈する向きがある。例えば、若松2008.に、「その狭い端面に赤色彩色が施されていることは、髪ではないことを示しており、仮面と推測する一根拠となる。……仮面や頭巾で哀悼断髪を装う便法が早くに現れたのであろう。」(46~49頁)、基峰2016.に、「……力士に関しては衣服(褌)とともに扁平髷こそが,渡来芸能であることを反映していると考えられる。」(101頁)とある。辟邪や鎮魂を相撲の大目的と考え、大陸との文化的なつながりを見ているようである。しかし、高句麗古墳壁画の髪の描写と力士埴輪の扁平扇形髷が似ているようには見えない。鉢巻形も含めて力士埴輪の頭部には、明らかに何かを造形しようとする意図が見える。力がありそうな二人が居合わせたら、力比べに相撲が行われたことがあっただろう。それと喪葬とは別問題である。儀礼としての相撲には仮面を被ったものとして、埴輪に形としたということであろうか。筆者は、股間にタフサギ(犢鼻)、頭をフタ(蓋)に作っているとシンプルに考える。タフとフタは音が転倒していて、尻と頭が反対にあることの義にも適っている。
力士埴輪(左:福島県泉崎村原山古墳出土、古墳時代、5世紀後半、相撲の歴史ナビ「泉崎村資料館」https://www.vill.izumizaki.fukushima.jp/page/page000844.html)、右:井辺八幡山古墳出土、古墳時代後期、6世紀、和歌山市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/205108)
(注25)大系本日本書紀、新編全集本日本書紀とも、敏達紀に、サカベと振る点について疑問である。地名の「忍坂」(神武即位前紀戊午年十月)と関係するらしい記事があり、紀9番歌に、「於佐箇(おさか)」と言っている。拙稿「聖徳太子の名前」参照。
(注26)秋田の竿灯についての古い記録に、那珂通博・淀川盛品の風俗問状答(文化11年(1814))がある。

七月
七日星祭の事
 星御祭りは六日の夜にし候。供物定れる事なく、又異なる行事なし。竹篠にたにざく(短冊)など付候事も候へども、なべての俗には候はず。
 六日の夜、眠ながしと申事風俗にて候。廓外の町々よりなし出す。長き竹に横手を幾段も結、大なる灯籠三十、四十、五十も付る也。多力のものをゑらびて一人にて持す。手代りの三四人添て、其後(しりへ)に大鼓二つ三つらんてう(乱調)にうちて、一丁きりに若きもの群れ従ふ。まづ通町の橋中へ〈廓中より廓外へ出る第一の橋なり〉ねり出て、東より町々をわたるなり。〈侍町へは入らず。〉町々より一つ宛出す。又此夜、廓の内外ともに、児童十歳計までは、手毎に品々の灯籠を持て遊び、家毎に門に燈籠を掛る。〈図在。〉
 この眠流してふこと、城北の能代の港にはことにはなやかに候。渡り二丈計、高さ三丈にも四丈にもする屋台人形さまざまの工を尽し、皆蠟引たる紙にして、五彩をいろどり、瑠璃燈に似たり。年々新奇をきそひ、もとも壮観に候。〈図在。〉此夜、麻がらを己が年の数折て、草のかつらにてからげ、枕の下へひしきて、七日の朝とく川へ流すなり。これを眠り流しと云。里々には有ることに候。
 七日には異なる食品なども候はず。
 此日、年々城中の武庫にて、七タ飾とてものゝぐ飾ることの候。士家にても各とり飾るなり。
 此日、七たび物喰ひて、七度水浴るといふ事の候。村里の風にて、なべての事には候はず。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10303771(44~46/100)、句読点を施した。)
髙燈籠(風俗問状答、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10303771/89をトリミング)
 チカラビトが褌ひとつでかつぎ上げている。ブッダの棺を舁くような力士に相当する。
 全国的な広がりをみると、年中行事図説の「眠り流し」の項に、前半は青森県のねぶた流しが解説されている。後半には次のようにある。「秋田市一円では竿燈といつて,大きなものは長さ二丈五尺,五十箇近くの提灯をつけて重さは約十貫目,それを額や腰にあてて手をはなし,妙技を競う風がある。しかしこれらは,いずれも都会風の新らしい発達または変形で,七夕の燈籠送りは関東以北は勿論のこと,九州までにも行なわれている。長野県ではオネンブリを流すといい,群馬県ではネブト流し,宇都宮の町でも以前は思川の流れに出て,にぎやかなネブト流しがあり,人によつてはこれをネムタ流しとも云つていた。紙で作つた人形も流すが,主な行事は水浴びであって,睡魔をはらう意味と解せられていた。東京の附近でも, 七日の朝早く附近の用水堀に行つて泳ぐ風があり,愛知県東部の山村でも,八日の早朝,飾り物を川に持つて行つて流すことをネブチ流しという村がある。またこの行事に,ねむの木を使うならわしは方々にある。たとえば対馬の久根などのネブリナガシは,六月十五日の牛休みの日の行事であるが,ねむの木の枝を海に持つて行つて流している。これらの地方に共通している説明は,睡魔をふせぐことであり,ちようどこの季節は労動も忙しく暑さもきびしく,それを追うまじないのように解しているが,万燈流しにともなって,髪を洗つたり,水浴びしてねむけを払う作法などのおこなわれているのを考えると,もとは盆祭の物忌・みそぎから転化したものではないかと思われる。」(180頁)。
(注27)柳田1990.に、「『奥民図彙』には木守貞という人の説を引いて、七夕祭に合歓木(ねむ)の葉と大豆の葉とをもって人身を拭(ぬぐ)い、川へ流すこと六月の祓のごとし。合歓木の葉にて目を拭うときは睡をさまし、大豆の葉にて身を拭うとき壮健になるという呪(まじない)なり。睡はネムタにて流し、大豆壮健(まめ)にて止り農業に出精せよということなりといっている。……合歓と大豆の葉の説はいかにも拠(よりどころ)のなさそうな話である。……ネブタを睡魔と考えたらしいことは、秋田地方でこれを眠流しというのでもわかる。……ネブタまたはネムリは各人の睡魔ではなくて、村の総代となって水に飛び込む人が、諸国の追儺人取(ついなひととり)の祭式に引き出さるる尸童(よりまし)のごとく、自身催眠状態に落ちているのを名づけてネムタまたはネブトなどと称えたのではあるまいか。」(457~458頁)とある。
(注28)拙稿「聖徳太子の名前」参照。今いうリーゼント的スタイルの太子の髪形、「束髪於額(ひさごはな)」は、その時の年齢を表しているのではなく、その時の太子の髪形の特徴を表している。崇峻前紀の記事から、太子の年齢を判断しようとする試みがあるが、日本書紀編纂者の意図が理解できていない。割注に、「古俗」と「今」の髪形の習慣が記されているが、太子がそれに倣っているのか不明である。最も言いたいことは、太子の髪形がそのとき、「束髪於額(ひさごはな)」であったという事実である。「四天王の像を作りて、頂髪(たきふさ)に置きて、……」とあるが、髪がふさふさしていたら、「置」いたら落ちる。相撲人は頭髪をさかやきのように剃ることがあったらしく、落武者、アオサギのようにばらけていた髪の毛をまとめ上げていたと考えられる。
 伴蒿蹊・閑田耕筆に、「今田中氏の縮図(シヾメタルヅ)をこゝに挙、また此図によりて、頭を半剃(ナカバソル)ことも、古きならひ也といふことをさとりぬ。或は太平記大塔の宮の熊野落の所に、村上彦四郎のあらあつやと頭巾をとりて、まことの山伏ならぬをしらせける所にて、其前よりの事かといひ、又なほ古き証は、撰集抄に月代(ツキシロ)の跡あざやか也と見えたり、などをいへども、此すまひの図は、其撰集抄よりも時代のぼりて古きものとみゆれば、其はじめはしらねど、いかさまにも縉紳家ならぬ人は、久しきならわしなりし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562883?tocOpened=1 (11/43)、句読点を施した。)とある。

(引用・参考文献)
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※本稿は、2013年6月稿、2017年を9月稿を2020年9月に改稿したものである。

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