古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

十巻本和名類聚抄 翻刻と訓読 〈はじめに〉・〈凡例〉・〈序〉・〈目次〉

2022年02月02日 | 和名類聚抄
〈はじめに〉
 和名類聚抄は、本邦における本格的な辞書の嚆矢とされる。源順(911~983)の撰述によって承平四年(935)に成っている。この書物をいかに捉えるかが問題である。対象として国語研究資料としたり、平安文化や音韻研究の参考にすることも大いに役立つものである。と同時に、彼が一つ一つの言葉をどのように頭に思い浮かべながら書き記したかがわかるなら、それをフィルターにして平安時代前期の日本語の体系までも概観できる。基本的に類書形式に編まれた国語辞典であり、漢和辞典ではない。彼はバイリンガルではなく、ほぼヤマトコトバで物を考えていた。漢字ばかりで書いてある本文を彼の考えたであろう(依頼主の勤子内親王がそうよむことを期待したであろう)ように訓読することこそ、一語一語の意味ばかりでなく、観念の体系としての日本語理解に資するところとなる。
 伝本しか伝わっておらず、諸本の間に異動があるため、どれが源順の書いた書きっぷりに近いのか検討を要する。これまでは、どちらかといえば知識の正確さを重視するあまり、彼の意図とは必ずしも一致しない解釈が施される傾向があった。筆者が読み取りたいのは彼の物の考え方であり、それぞれの言葉をいかにカテゴライズして納得しようとしていたかである。引用書の記述と合わないと見える箇所も、和名類聚抄の写本段階での誤写ではなく、源順自身が勘違いしていたり、意図的に誤った可能性も考慮に入れるべきなのである。現代の国語辞書に新解さんの謎を探ることは、言葉というものについてより深く理解するうえで重要なことである。そこで、私訓においては、従来の漢語的な訓み方にとらわれずに奔放な趣向を試みた。
 辞書なのだから、意味がわかることが第一なのはそのとおりである。新撰字鏡と比べて圧倒的に網羅的であり、使い勝手がいいと思われ、後代にも大きな影響を与えている。繙いた人がどう読んだかについてはそれはそれとして課題であるが、後代のことについては考察の対象から省く。筆者の関心は上代語にある。万葉集に「左右」と書いてあるのを何と訓んだら良いのか思いあぐねたとされる(注1)源順が、それぞれの言葉をどのように把握していたか、そのことにこそ興味がある。したがって、本文校訂においてさえ、これまで誤写と思われてきた字を採ったり、また私訓においてむやみな訓読を施すこともある。可能性の文献として和名類聚抄を捉えたい。大いなるヤマトコトバを明らかにする可能性である。
 そもそも和名類聚抄は、その序文に、醍醐天皇の第四公主、勤子内親王の教命によって撰述されたと記されている。内親王が利用するための辞書、百科事典、大人のための教草とならなければ用命を果さない。内親王に興味を持ってもらいながらわかるように書くために、努力を惜しむことはなかったであろう。ある字があって、その読み方がわからないとき辞書を引いて調べる。その字が指し示す事物、事柄を理解するためである。そのとき、源順自身が把握している説明をしても誤謬があるかもしれないから、伝わっている辞書、事典、詩文の注釈など、書物に書いてあることを引用する形で正確を期すように心掛けている。かといって、とことん正確さを追究するわけではない。世間一般で通行している言葉について、内親王がわかりやすいと思ってくれるように心掛けている。ある物の名について、どうしてそう呼ぶのか、そんなことを自分の考えも加えてしまうくだけた精神によって成立している。学者として禄を食んでいるわけではない20代前半の源順は適任であった。和名類聚抄は、大人のための日本語初学書と言えるのであろう。
 そういう次第であって、和名類聚抄を私訓した本稿は、それ自体アカデミックなものではない。ここにはロクでもない陥穽が潜んでいるから、本格的に研究しようとする場合、けっして拙稿を鵜吞みにすることなく諸本に当たって再検討されたい。ちなみに、源順はアカデミックを志向した人物ではなかったようである。万葉歌もアカデミックに作られていることはない。題詞や序などに理屈をこねた表記が散見されるものの、肝心の歌は歌うもので、声の文化に彩られており、誰もが聞いてわかるように作られている。聞いていて寝てしまう講義ではない。記紀に載るお話も学術用語で構成されてはいない。集まっている人にお話をし、それを聞いてその場でわかるものが原形である。そのために言葉(ヤマトコトバ)はあった。古墳のことをコフンと呼ぶのは現今の考古学に従っている。当時、ツカと呼んでいたことは巻第六に記されている。地面を突(築)(つ)いて作るからツカである。自然と身体が動くほど、言葉を肌感覚で理解していた。平安時代も奈良時代も飛鳥時代も古墳時代も、誰しも皆、あれはツカだと呼んでいた。御陵であればミサザキである(注2)。それが彼らの認識であり、観念なのであって、使い回されている日常用語ばかりで互いに理解し合っていた。筆者はその常識を確かめようとしているのであって、偉そうな学問を志向しない。例えて言うなら、当時行われていた言語活動は算数で、数学ではないのである。伝写して残った和名類聚抄は、足し算、引き算、鶴亀算、植木算の世界へようこそ、と我々を招いてくれている。
 念のために申し上げておくが、本文の校訂も私訓も、筆者が暫定的に蘇らせたつもりになっているものである。一朝一夕に“完成”させられるようなものではないから、折に触れて気づいたら修正を施していく。筆者の理解不足は多く、ケアレスミスもある。けれども、問題の根幹は、与えられた本文に対して“正しい”漢文訓読をすることにはないことも述べておきたい。源順がところどころ我流に行った漢作文を“読む”ことが目的である。彼が何を記そうと試みたのかに触れようとしなければ本末転倒である。すなわち、彼の、ないしはその時代の人の、頭の中を覗いてみようという次第である。
(注)
(注1)拙稿「和名抄の「梟」について」参照。
(注2)拙稿「仁徳天皇の名、オホサザキの秘密」参照。

〈凡例〉
 底本には、巻第一~第二の身体類十七の途中まで真福寺本(馬渕和夫編著『古写本和名類聚抄集成 第二部 十巻本系古写本の影印対照』勉誠出版、2008年)、巻第二の残りは高松宮本(館蔵史料編集会『国立歴史民俗博物館蔵 貴重典籍叢書 文学篇 第二十二巻〈辞書〉』臨川書店、1999年)、巻第三~巻第八は伊勢十巻本(馬渕、前掲書)、巻第九~巻第十は高松宮本の影印本を用い、尾州大須宝生院蔵倭名抄残篇(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536071)、大須本摸刻零本(早稲田大学古典籍総合データベースhttps://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho02/ho02_00256/index.html)を参照しつつ、他の影印本や京本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2605646)、下総本(早稲田大学古典籍総合データベースhttps://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho02/ho02_00399/index.html)と校合し、翻字にあたっては、狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126429)、林忠鵬『類聚抄の文献学的研究』(勉誠出版、平成14年)、国立国語研究所「二十巻本和名類聚抄〈古活字版〉」(日本語史研究用テキストデータ集https://www2.ninjal.ac.jp/textdb_dataset/kwrs/)を参考にしつつ、字体は底本になるべく沿うようにして太字で表し、割注部分は〈 〉に入れた。私訓においては適宜、新字体、通用字体、正字体を用いた。現存主要諸本と複製状況については、山田健三「『和名類聚抄 高山寺本』解題」『新天理図書館善本叢書 第七巻 和名類聚抄 高山寺本』(天理図書館出版部、2017年)を参照されたい。なお、以下の「序」について、名古屋市博物館本(名古屋市博物館編『名古屋市博物館資料叢書二 和名類聚抄』同発行、1992年)に大幅な異動があるが、当初の形から外れるかと考える。
左:尾州大須宝生院蔵倭名抄残篇(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536071/6)、右:狩谷望之写和名類聚抄(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545186/13)

〈序〉
倭名類聚抄序
竊以延長第四公主柔德早樹淑姿如花呑湖陽於〓〔月偏に匋〕陂籠山陰於氣岸年纔七歲初謁先帝先帝以其姿貌言笑毎事都雅特鐘愛焉即賜御府箏手教授其譜公主天然聰高學不再問一二年間能究妙曲一三弦上更奏新聲自醍醐山陵雲愁水咽永辭魏闕之月不拂秦箏之塵時々慰幽閑者書畫之戲而己於是因點成蠅妙殆上屏風以筆廻鸞之能𡖋巧垂露漸辨八軆之字豫訪万物之名其教曰我聞思拾芥者好探義實期折桂者競採文華至于和名弃而不屑是故雖一百帙文舘詞林三十卷白氏事類而徒偹風月之興難决世俗之疑適可决其疑者辨色立成楊氏漢語抄大醫博士深根輔仁奉勅撰集和名本草山州員外刺史田公望日本紀私記等也然猶養老所傳楊説纔十部延喜所撰藥種只一端田氏私記一部三卷古語多載和名希存辨色立成十有八章與楊家説名異實同編録之間頗有長短其餘漢語抄不知何人撰世謂之甲書或呼爲業書甲則開口裒揚之名業是服膺誦習之義俗説兩端未詳其一矣又其所撰録名音義不見浮僞相交海峭爲䖣河魚爲𫚄祭樹爲榊澡器為楾等是也汝集彼數家之善説令我臨文無所疑焉㒒之先人幸忝公主之外戚故㒒得見其草隷之神妙㒒之老母𡖋陪公主之下風故㒒得蒙其松容之教命固辭不許遂用修撰或漢語抄之文或流俗人之説先舉本文正説各附出於其注若本文未詳則直舉辨色立成楊氏漢語抄日本紀私記或舉類聚國史萬葉集三代式等所用之假字水獸有葦鹿之名山鳥有稻負之號野草之中女郎花海苔之屬於期菜等是也至如於期菜者所謂六書法其五曰假借本無其字依聲託事者乎内典梵語𡖋復如是非無所據故以取之或復有以其音用于俗者雖非和名既是要用石名之礠石礬石香名之沉香淺香法師具之香爐錫杖畫師具之燕脂胡粉等是也或復有俗人知其訛謬不能改易者鮏訛為鮭榲讀如杉鍛冶之音誤渉鍜治蝙𧍗之名僞用蝛蛦等是也若此之類注加今案聊明故老之説略述閭巷之談摠而謂之欲近於俗便於事臨忽忘如指掌不欲異名別號義深旨廣有煩于披覽焉上舉天地中次人物下至草木勒成十卷々中分部々中分門廿四部百廿八門名曰和名類聚抄古人有言街談巷説猶有可採㒒雖誠淺學而所注緝皆出自前經舊史倭漢之書但刊謬補闕非才分所及内慙公主之照覽外愧賢智之盧胡耳
和名類聚抄 序
窃かに以ひみるに延長の第四公主は、柔徳早(つと)に樹ち、淑姿花の如く、湖陽を胸陂に呑み、山陰を気岸に籠む。年纔かに七歳にして、初めて先帝に謁す。先帝其の姿貌言笑の、事ある毎、都雅なるを以て特に鍾受す。即ち御府の箏を賜ひ、手づから其の譜を教授す。公主天然聡高にして、学びて再び問はず。一、二年の間に能く妙曲を究め、十三絃の上に更に新声を奏づ。醍醐の山陵に、雲、愁ひ、水、咽びてより、永く魏闕の月を辞し、秦箏の塵を払はず。時々幽閑を慰むるは、書画の戯れのみ。是に於きて点に因りて蠅を成すの妙、殆ど屏風に上し、筆を以て鸞を廻らすの能、亦、垂露に巧みなり。漸く八体の字を弁ち、予め万物の名を訪ぬ。其の教に曰はく、「我聞く拾芥を思ふ者は好みて義実を探り、折桂を期する者は競ひて文華を採る。和名に至りては、棄てて屑(もののかずともせ)ず。是の故に一百帙の文館詞林と三十巻の白氏事類と雖も、徒らに風月の興に備へて世俗の疑ひを決し難し。適(たまた)ま其の疑いを決すべき者は、弁色立成、楊氏漢語抄、大医博士深根輔仁の奉れる勅撰集和名本草、山州員外刺史田公望の日本紀私記等なり。然れども猶ほ養老に伝ふる所は楊説、纔かに十部、延喜に撰する所は薬種、只一端なり。田氏私記一部三巻は、古語は多く載すれども、和名は希にのみ存り。弁色立成十有八章は、楊家の説と、名は異にして実は同じ。編録の間、頗る長短有り。其の余の漢語抄は、何人の撰なるかを知れず。世、之れを甲書と謂ひ、或に呼びて業書と為。甲は則ち開口褒揚の名、業は是れ服膺誦習の義なり。俗説両端にして、未だ其の一なるを詳らかにせず。又、其の撰録する所の名、音義見(しめ)されず、浮偽相交はる。海蛸を䖣と為、河魚を𫚄と為、祭樹を榊と為、澡器を楾と為る等は是なり。汝、彼の数家の善説を集め、我をして文に臨みて疑ふ所無からしめよ」と。僕の先人、幸ひに公主の外戚たるを忝(かたじけな)くし、故に僕、其の草隷の神妙なるを見ること得つ。僕の老母、亦、公主の下風に陪(そ)ひ、故に僕、其の松容の教命を蒙るを得。固辞すれども許されず、遂に用て修撰す。或は漢話抄の文、或は流俗人の説あり、先づ本文正説を挙げ、各其の注に付け出す。若し本文、未だ詳らかならざれば、則ち直ちに弁色立成、楊氏漢語抄、日本紀私記を挙ぐ。或は類聚国史、万葉集、三代式等の用ゐる所の仮字を挙ぐ。水獣に葦鹿の名有り、山鳥に稲負の号有り、野草の中の女郎花、海苔の属の於期菜等は是なり。於期菜の如き者に至りては、所謂六書の法、其の五を仮借と曰ひ、本、其の字無く、声に依りて事を託す者か。内典梵語も、亦、復(また)是くの如し。拠る所無きに非ず、故に以て之を取る。或は復、其の音を以て俗に用ゐらるる者有り。和名に非ずと雖も、既に是れ要用せり。石名の磁石、礬石、香名の沈香、浅香、法師具の香炉、錫杖、画師具の燕脂、胡粉等は是なり。或は復、俗人其の訛謬を知りて、改易する能はざる者有り。鮏を訛りて鮭と為し、榲を読みて杉の如くす。鍛冶の音、誤りて鍜治に渉る。蝙𧍗の名、偽りて蝛蛦を用ゐる等は是なり。此くの若きの類、注に今案を加へ、聊か故老の説を明らかにし、略(ほぼ)閭巷の談を述ぶ。摠じて之を謂はば、俗に近く、事に便にして、忽忘に臨みて掌を指すが如くならむと欲す。名を異にし号を別にし、義深く旨広く、披覧に煩ひ有るを欲せず。上に天地を挙げ、中に人物を次ぎ、下に草木に至り、勒して十巻と成す。巻の中は部に分け、部の中は門に分け、二十四部百二十八門。名づけて和名類聚抄と曰ふ。古人、言へること有り、街談巷説にも猶ほ採るべき有りと。僕、誠に浅学なりと雖も、注緝する所は、皆、前経旧史倭漢の書より出づ。但し謬を刊(けづ)り闕を補ふは、才分の及ぶ所に非ず。内に公主の照覧に慙ぢ、外に賢智の盧胡を愧づるのみ。

〈目次〉
巻第一
 天地部第一
  景宿類一 風雨類二 神霊類三 水土類四 山石類五 田野類六
 人倫部第二
  男女類七 父母類八 兄弟類九 子孫類十 婚姻類十一 夫婦類十二
巻第二
 形体部第三
  頭面類十三 耳目類十四 鼻口類十五 毛髪類十六 身体類十七 臓腑類十八 手足類十九 茎垂類二十
 疾病部第四
  病類二十一 瘡類二十二
 術芸部第五
  射芸類二十三 射芸具二十四 雑芸類二十五 雑芸具二十六
巻第三
 居処部第六
  居宅類二十七 居宅具二十八 墻壁類二十九 墻壁具三十 門戸類三十一 門戸具三十二 道路類三十三 道路具三十四
 舟車部第七
  船類三十五 舟具三十六 車類三十七 車具三十八
 珍宝部第八
  金銀類三十九 玉石類四十
 布帛部第九
  錦綺類四十一 絹布類四十二
巻第四
 装束部第十
  冠帽類四十三 冠帽具四十四 衣服類四十五 衣服具四十六 腰帯具四十七 腰帯類四十八 履褥類四十九 履褥具五十
 飲食部第十一
  薬酒類五十一 水奬類五十二 飯餅類五十三 麹糵類五十四 酥蜜類五十五 果菜類五十六 魚鳥類五十七 塩梅類五十八
 器皿部第十二
  金器五十九 漆器六十 木器六十一 瓦器六十二 竹器六十三
 灯火部第十三
  灯火類六十四 灯火具六十五 灯火器六十六
巻第五
 調度部第十四
  仏塔具六十七 伽藍具六十八 僧房具六十九 祭祀具七十 文書具七十一 図絵具七十二 征戦具七十三 弓剣具七十四
  刑罰具七十五 鞍馬具七十六 鷹犬具七十七 畋猟具七十八 漁釣具七十九 農耕具八十 造作具八十一 木工具八十二
  細工具八十三 鍛冶具八十四
巻第六
 調度部下
  音楽具八十五 服玩具八十六 秤量具八十七 容飾具八十八 澡浴具八十九 厨膳具九十 薫香具九十一 裁縫具九十二
  染色具九十三 織機具九十四 蚕糸具九十五 屏障具九十六 坐臥具九十七 行旅具九十八 葬送具九十九
巻第七
 羽族部第十五
  鳥名百 鳥体百一
 毛群部第十六
  獣名百二 獣体百三
 牛馬部第十七
  牛馬類百四 牛馬毛百五 牛馬体百六 牛馬病百七
巻第八
 龍魚部第十八
  龍魚類百八 龍魚体百九
 亀貝部第十九
  亀貝類百十 亀貝体百十一
 虫豸部第二十
  虫名百十二 虫体百十三
巻第九
 稲穀部第二十一
  稲穀類百十四 稲穀具百十五
 菜蔬部第二十二
  蒜類百十六 藻類百十七 菜類百十八
 果蓏部第二十三
  果蓏類百十九 果蓏具百二十
巻第十
 草木部第二十四
  草類百二十一 苔類百二十二 蓮類百二十三 葛類百二十四
 草木部下
  竹類百二十五 竹具百二十六 木類百二十七 木具百二十八

和名抄の「梟」について

2021年11月08日 | 和名類聚抄
 本稿では、源順の和名抄、羽族部・鳥名の「梟」について考える。

(a)梟 説文云─ 不孝鳥也尒雅注云鴟梟八別大小之名也古堯反布久呂布弁色立成云佐計食父母 
  梟 説文に云はく、梟〈古堯反、布久呂布(ふくろふ)、弁色立成に佐計(さけ)と云ふ。父母を食ふ不孝の鳥なり。爾雅注に鴟梟は大小を八別する名なりと云ふ〉鴟といふ。

 これは、伊勢十巻本、高松宮本、前田本を校訂したものである。ところが、狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄の本文部分にはそうは書かれていない。

(b)梟 說文云梟、辨色立成云、佐計、古堯反、布久呂布、父母不孝鳥也、爾雅注云、鴟梟者分別大小之名也、
  梟 説文に云はく、梟〈古堯反、布久呂布(ふくろふ)、弁色立成に佐計(さけ)と云ふ〉は父母を食ふ不孝の鳥なりといふ。爾雅注に云はく、鴟梟は大小を分別する名なりといふ。

 爾雅の注釈書の逸文に「鴟梟分別大小之名也」とあるらしく、それを引いたのであろうから、「分別」が正しくて「八別」は誤写したのであろうと考えられている(注1)。しかし、二十巻本刊本の書き入れに「古本」(注2)とある伊勢十巻本、高松宮本、前田本などとでは小字注の範囲が異なり、最後の「鴟」字の有無にも違いがある(注3)
 源順がどのように書いたのか、それはこれら写本から推測するしかないわけであるが、文章を頭から書いてきてどうであったろうかと思うと、(a)に記したものに近かったのではないかと考えられるふしがある。「梟 説文云梟〈古堯反布久呂布弁色立成云……」となっている。梟を説明するのに、当代きっての権威ある辞書、説文を引こうとしている。説文には次のようにある。

 梟 不孝鳥也日至捕梟磔之从鳥頭在木上
 梟 不孝の鳥なり。日至に梟を捕りて之れを磔す。鳥の頭の木の上に在るに从ふ。

 これをそのまま引けばいいところを、先にヤマトでの訓み方を記し入れている。フクロフ、また、サケと言うのだとしている。その訓の限りにおいて、不孝の鳥であると述べている。磔の件は割愛されている。そして、爾雅注を引いて、鴟梟は大小の区別で字を使い分けるものであるという解釈を示している。なぜ混乱するような解釈を入れ込んでいるのだろうか。
 ヤマトでの訓み方を示すのに弁色立成を引いている。(a)にある「弁」字は(b)にある「辨」字の略字である。「辨」は、わかつの意である。文中にわかつ意は二箇所にあらわれる。爾雅注に、鴟梟というのはサイズの大小をわかつ名として別してあると言っている。もうひとつ、梟(ふくろふ)のことをサケとも言うのだとしている。サケと聞けば、割(裂)けることを言い表しているような気がする(注4)。二つにわかつことを言っている。単に鴟が大きく、梟は小さいというばかりではない含意が感じられてくる。
 源順は、動物学、博物学に関心を持ち、辞書を編むに至ったわけではない。万葉集の訓詁に当たるなど、関心の対象は言葉にあった。鴟と梟と二つの漢字があってヤマトでもトビ、フクロフと別に呼ばれているが、フクロフである梟にサケと訓む例があると記している。そして、両者はサイズの違いで呼び習わされているという認識を明かしている。爾雅注を見るとそう書いてあるからそう考えて整合性を保つように把握しようとし、サイズが違って鴟・梟と書き分けているが、梟は「食父母」鳥ということになっている。
 サイズの違いを鴟・梟という字に書き表したいだけであれば、大型化している鴟の子どもが小型であることを示す梟の父母を食べるということになってしまう。しかし、不孝なる鳥は梟ばかりであるから、そこのところ、両者はきちんと弁別されねばならない。不孝者であり、説文の後段にあって割愛している磔の件を思い合せれば、裁きが下されていることが思い起こされよう。孝不孝について捌くべき裁きが必要なのである。結果、梟という字は梟首、梟示などとさらし首のことをいうようになっている(注5)。その「捌」は漢数字「八」の大字である。だから、「八別」と書いてある。「分別(ふんべつ)」があることと親を食べないこととは直結しない。分別がなかったら親を食べないかといえば、無分別な出来損ないの子であっても親を食べることはふつうはない。
 そう考え進めると、梟がサケと別称されていることにも納得がいく。どうして親を食べるのか。それは、酒に飲まれてしまって中毒となり、つまみに食べるものがないから近くにいる父母をあてにして酒を飲もうとしている。フクロウは夜行性である。酒を夜に飲み、飲めば酔って狩りに飛ぶことはできず、でもまだ酒食を続けたいから、夜陰に乗じて父母を肴にしてしまっているのだと納得できる。すなわち、この項は、舶来の辞書にいろいろ書いてあることと、ヤマトコトバとの間の辻褄を合わせるべく、それなりに深く考え極めた成果なのである。すべての意味を包括させるために観念体系に誤謬が生じないように整理した。その整理が自然科学に、また、後世の人にとって正しいか正しくないかは無関係である。源順の頭の中では(a)のように理解していたということになる。
 説文に「梟鴟」と続けて書いてあるわけではないが、詩経・大雅・瞻卬に「為梟為鴟」とあり、鄭玄箋に「梟鴟、悪声之鳥。」としている。また、後漢書・朱浮伝に「棄休令之嘉名、造梟鴟之逆謀。」とある。文選・曹植・贈白馬王彪詩には「鴟梟鳴衡軛 豺狼當路衢」とあり、李善注に「鴟梟、豺狼、以喩小人也。」としている。一緒くたの悪者にされている。
 源順は、続けている。梟は音に古堯反であり、本邦でいうフクロフのことである。弁色立成ではサケと呼ぶともしている。また、父母を食べる不孝なる鳥で、道徳的に悖るものであるという。爾雅の注釈では、鴟と梟とはサイズの違いである点を分けるための名であるとしているのだけれども、子どもの身体が親を上回って大きくなったときに飲んだくれになってしまい、親不孝の極みのようなことをしかねないのが梟なのだと解説している。
 和名抄の「梟」の一つ前の項に「鴟」がある。

(c)鴟 本草云鴟一名鳶 字亦作𪀝度比上音祗下音鈆 尒雅云一名𪀝鵟 喜食鼠而大目者也
  鴟 本草に云はく、鴟は一名に鳶〈上の音は祗、下の音は鉛、字は亦、𪀝に作る。度比(とび)〉といふ。爾雅に云はく、一名に𪀝鵟〈音は狂〉は喜びて鼠を食ひ目を大にする者なりといふ。

 鴟は狂うと𪀝鵟となる。鼠を捕まえてきて喜んで食べては目をランランと輝かせている。目が飛び出すからトビというのだとの納得を含んだ表記である。この程度の洒落は日常茶飯事で大して受けるものではないから贅言していない。そして、梟とは違って酒飲みではなく、汚らしい鼠を捕ってきて喜んで食べるような輩ではあるが、孝不孝の一線を越えて父母を食べるようなことはしない。他方、梟は獲物を捕まえることまでサボって近くの父母を食べてしまう輩である。鴟と梟は似て非なるものであると言わんとする思い入れが辞書の記述ににじみ出ている。そのとき、「八」字を使っている。説文に、「八 別ける也。分別を象り相背くの形なり。凡そ八の属、皆八に从ふ(八 別也象分別相背之形凡八之属皆从八)」とあり、また、「分 別ける也。八に从ひ刀に从ふ。刀は以て物を分別する也(分 別也从八从刀刀以分別物也)」とある。同じような意味に捉えられるが、厳密に考えると、最初から背を向けて別々であるのを「八」に、一つであったものを刀で切り分けるのを「分」に使うと受けとれる。鴟と梟とは根本的に最初から異なるものだから、「八別」という書き方がより正しいと考えられる。
 辞書である倭名抄のなかに道徳が説かれている。同じように残虐なことをするにしても、人間性の欠如した者(注6)とそうでない者との間には「八別」がある。孝不孝の観念がそもそも欠落している梟は、八つ裂きにして磔刑に処すのがふさわしいと考えている。源順の関心は言葉にあり、言葉は観念を形作るものである。
 
 今日、和名抄の研究は進んでいない。十巻本と二十巻本のいずれが先に成ったかは書誌学の域を出るものではない。引書を整理してみても編纂した源順の考え方自体は見えてこない。それぞれの項目ごとに説明を求めることは、碩学の狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄に考証が行われ、その線上に上回ることはほぼ見られない。しかし、翻って源順という人物のことを考えるなら、石山寺縁起には、万葉集原文の用字の訓みにこだわりながら参詣へ赴く途中、馬方がマテなどと声を挙げているさまを目にして、「左右」は「真手」の意から助詞のマデのことだと悟る様子が描かれている(注7)。彼の関心は言葉にある。博物知識を披瀝しようとしているわけではない(注8)。棭齋の学術が無意味というわけではなく、それはそれとして享受すればよいのである。一方で、源順の頭の中はどうであったかということを着眼点に据えなければ、平安時代の一貴族から見てとれる宮廷文化の特徴をはじめ、万葉集の訓詁、上代への関心への視座は得られない。肩肘張らずに頓智とユーモアを汲みとろうとする姿勢が求められよう。

(注)
(注1)狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄が本文を記しつつ注している(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209888/13)。また、林2002.334頁。
(注2)国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574203/30参照。
(注3)「鴟」字は、伊勢十巻本、高松宮本にある。
(注4)谷川士清・倭訓栞に、「さけぶの義なるべし」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562792/16)という説が見える。フクロウの鳴き声にホーホーという声を馴染みとするが、オオカミのホーホーという遠吠えもある。書記に同じく写し取られるが、オオカミのそれは吠えるもの、フクロウのそれは吹くものとして感じられている。鳴き真似をした時、口をすぼめて息を吹いている。語源ということではないが、フクロウと呼んで違和感がない。
(注5)説文でも、「梟」字は鳥部にあるのではなく、木部にある。
(注6)現代に良心の欠落した人物について議論され耳目を集めているが、王朝は栄枯盛衰して小国が乱立しつつ夷狄に囲まれていたところに生まれた古代の儒教思想においては、道徳は作るものであると理解されていた。
(注7)石山寺縁起絵巻模本、狩野晏川・山名義海模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)詞書に、「康保の比、廣幡の御息所の申させ給けるによりて、源順、勅をうけたまはりて、万葉集をやはらげて點じ侍けるに、よみとかれぬ所々おほくて、当寺にいのり申さむとてまいりにけり。左右といふもじのよみをさとらずして下向の道すがら、あむじもてゆく程に、大津の浦にて物おほせたる馬に行あひたりけるが、口付のおきな、左右の手にておほせたる物をおしなほすとて、をのがどちまて(真手)よりといふことをいひけるに、はじめてこの心をさとり侍けるとぞ。」(句読点、濁点を付した)とある。
(注8)拙稿「和名抄の「田」について」参照。

(引用・参考文献)
館蔵史料編集会『国立歴史民俗博物館蔵貴重典籍叢書 文学編 第22巻〈辞書〉』臨川書店、1999年。国立国語研究所・日本語史研究用テキストデータ集「二十巻本和名類聚抄〈古活字版〉」https://textdb01.ninjal.ac.jp/dataset/kwrs/
小松茂美編『日本の絵巻16 石山寺縁起』中央公論社、昭和63年。
馬渕和夫編『古写本和名類聚抄集成 第二部 十巻本系古写本の影印対照』勉誠出版、平成20年。
林2002. 林忠鵬『和名類聚抄の文献学的研究』勉誠出版、平成14年。

和名抄の「田」について

2019年11月23日 | 和名類聚抄
 源順の和名類聚抄は、平安時代の承平年間(931~938年)に成立した百科事典的な古辞書である。古来、権威ある辞書の代表格として利用されてきた。江戸時代には、元和3年(1617年)に那波道円の古活字本(二十巻本系)が刊行され、また、それに基づいた附訓整版本が流布した。
和名類聚抄の勉強本(寛文7年(1667年)以降、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2561170?tocOpened=1(22/108)をトリミング)
 さらに、狩谷棭斎は、諸本を校合して詳細な考証を加え、『箋注倭名類聚抄』十巻が文政10年(1827年)に成っている。百科事典に対して漢和のさらなる考証を加えた途方もない注解書である。だから、もう研究されつくしていてわからないことなどなく、ただ慣れない字が使われて諸伝本間に違いがあったり、今の人に馴染みの少ない漢文体で書いてあるから、遠い存在になりつつあるだけであると思われている。
 しかし、そうとばかりは言えない。1例だけあげておく。和名類聚抄の巻第一、天地部第一、田野類六の「田」の項である。
田 釋名云土已耕者為田徒年反和名太漢語抄云水田古奈太田填也五穀填滿其中也
 附訓流布本に従うと次のように訓める。校訂が問題なのではない。
田 釋名に云、土已に耕(たがや)す者を田(た)と爲(す)と。從年の反、和名太。漢鈔に云、水田(こなた)古奈太、田の塡(みて)る也(なり)。
 箋注倭名類聚抄では次のように記されている。
田 釋名云、土已耕者爲田、徒年反、和名太、漢語抄云、水田、古奈太、○水田見後漢馬援傳、按新撰字鏡、墾字訓古奈多、谷川氏曰、日本紀熟訓古奈須、蓋粉成之義、然則古奈太、熟田也、田、塡也、五穀塡滿其中也、○所引釋地文、原書無土字、爲作曰、五穀作五稼、齊民要術引作五穀、與此同、按禮記禮運注、田者人所捊治、哀十二年公羊傳疏、凡言田者、指墾土之處、是卽土已耕之義、說文、田陳也、樹穀曰田、象四口、十阡陌之制也、爾雅釋文引李巡注云、田𨼤也、謂𨼤列種穀之處、廣雅亦云、田陳也、劉氏釋爲塡者、恐非是、
 くだくだと引用しているけれど、結局のところ、「塡(填)」字について理解に至っていない。
 源順は、「田填也五穀填滿其中也」と書いている。「田」は「填」である、だから、それだから、「五穀」が「其中」に「填滿」するのであると言い切っている。それが本当かどうかが問題ではなく、源順がそのように理解した、その理解の仕方について理解されなければならない。
 そうしたいとき、「填(塡)」について、ミテルという附訓ばかり気にしていたら、正解にはなかなか辿り着けない。彼はまず音で理解した。テン(デン)という音である。中国では音が同じなら意味も同じと聞いた。つまり、「田」は「填」のつもりであったのであろう。だからこそ、「田」は、「五穀填滿其中也」なのだと仮説している。そしてそれが本邦でも当てはまるか検証してみた。「田」という字は三本線が縦横に刻まれている。すなわち、「田」はミツ(三)の完成形である。だから、ミツ(填)と言って正しい(注1)。結果、たくさんの稔りで填満する(注2)
 彼はこの“権威”ある辞書を、宮廷に提出した。宮廷の人たちは、なるほどそうだと理解したと思われる。なぜなら、誰も学者ではないからである。最初の説明の「釋名」では耕したらそれが「田」であるとしているが、耕しただけで「田」なんてことはない。読んでみてそれが伝わって来なかったら、“辞書”として説明不足である。よってわかりやすく解いている。デデンがテンで、稔りがミツ(填(満)&三(|||))から「田」なのだ。
 眉唾な説であるけれど、洒落のわかる人にはわかるのである。そういう辞書であることに思い至らなければ、和名類聚抄の“研究”は、いつまでたっても同時代的にはならず、学問のための学問から免れ出ることがなく、耕しているばかりで稔りあることにならない。

(注1)ミツという言葉は、上代に「三」、「填」ともにミは甲類である。この言説は案外に早くから行われていた可能性が高い。源順が素っ気なく記している所以であろう。
(注2)「填(塡)」字にミテルと附けた訓は疑問である。自動詞は四段活用、他動詞が下二段活用である。「田 釋名云土已耕者爲田從年反和名太漢鈔云水田古奈太田塡也」とあれば、「……漢鈔に云、水田(こなた)古奈太。田は塡(み)つ也(なり)。」がふつうではないか。

(引用文献)
狩谷望之写・和名類聚抄(京本)(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545186(22/81))
那波道円校・倭名類聚鈔(早稲田大学古典籍総合データベースhttp://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ho02/ho02_04312/ho02_04312_0001/ho02_04312_0001_p0017.jpg)
狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991784/47(82/151))

貂、あるいは手について

2017年03月18日 | 和名類聚抄
ホンドテン(キテン)(「動物写真のホームページ」様http://www.ax.sakura.ne.jp/~hy4477/link/zukan/niku/hondoten.htm)
 テンである。毛色によってキテン(明色型)とスステン(冬でも灰褐色型)に分けられている。キテンの冬毛は特に光沢があってきれいでやわらかい。テンの毛皮のことは、中古文学に「ふるき」とある。

  聴(ゆる)し色のわりなう上白みたる一襲(ひとかさね)、なごりなう黒き袿(うちぎ)重ねて、表着(うはぎ)には 黒貂(ふるき)の皮衣(かはぎぬ)、いときよらに香ばしきを着たまへり。(源氏物語・末摘花)
 赤色の織物の直垂(ひたたれ)、 綾のにも綿入れて、 白き綾の袿重ねて、 六尺ばかりの黒貂の裘(かはぎぬ)、 綾の裏つけて綿入れたる、 御包に包ませたまふ。(うつほ物語・蔵開中)

「黒貂」と記されるそれは、渤海などからの輸入品らしいと解されている。けれども、日本に棲息しているテンの夏毛が、あたかも毛皮が古くなったものと見立ててフルキと命名している可能性の方が高いと考える(注1)。夏毛と冬毛を上手に着替えるドレッサーとして貂という動物は認知されていた。それを後から渤海などからの輸入品の名にまで当てがってフルキと総称したとするのが語学的には正解であろう。
 そして、そのテンの胴を抜いて筒にすれば、アームウォーマーにそのまま使えるのではないかと感じられる。
黒貂のアームウォーマー(いらすとや様https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_333.html)
 和名抄に次のように記載される。

 貂 同[四声字]苑に云はく、貂〈音は凋、天(て)〉は鼠に似て黄色〈皮は裘(かはごろも)を作るに堪ふ〉といふ。
 黒貂 唐韻に云はく、貂に黄貂有り、東北夷に出づ〈黒貂は布流岐(ふるき)〉といふ。

 万葉仮名に「天」はテと訓む。和名抄の伊勢十巻本、前田本、高松宮本に、「貂」にテと傍訓が記され、ノイタチとも書かれている。「天」字には声点が「上」に一点記されている。つまり、奈良時代、平安時代初めに、貂のことは、高い声でテと言っていた。「手」については、一般に平声とされるが、和名抄伊勢十巻本、「杻」の項、「天加之(てかし)」に上上平と点せられている。同じくテという言葉である。やはり、貂はアームウォーマーとされたようである。実際にしていたかどうかは毛皮は遺物に残らないからわからないが、上代に「手(て)」の意味は、人体の①肩から指先までの部分全体、②腕や手首、③手首から先、のいずれをも指す語である。仮に貂のことを手に相当すると考えるなら、①肩から指先までの部分全体を表す意、と捉え返すことができる。貂の長い胴が人の一の腕、長い尾が人の二の腕に当たるように感じられる。人の手の甲が貂の頭頂、掌が顔面の白い部分に当たるという観察である。人は、手の甲と掌とで色がとても違っている。うまく擬せられているわけである。
 なお、和名抄の、「東北夷」が渤海に当たるのか、陸奥・蝦夷方面に当たるのか、筆者には定め切ることができない(注2)。また、和名抄の、「黒貂 唐韻云貂有黄―出東北夷〈黒貂布流岐〉」の反復略字は、「貂」一字ではなく「黒貂」と見るべきなのかもしれない。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄には、「黒貂 唐韻云、貂有黄貂黒貂東北夷〈黒貂、布流岐〉」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991790(68/94))ととっている。
 残念ながら、貂をテと訓む例は、文献上、和名抄以外に見られない。古今著聞集(1254年)に「てん」の形であらわれている。かといって、撥音便のンは上代になかったから、テムなどという外来語系の形であったかといえば、列島に在来種がいたことが確実でありその可能性は限りなく低い。縄文人以来、人が野放しにしておくとは考えられないからである。したがって、和名抄の記述などを見た人が、それまでテと呼ばれていた動物を、字音でテンと呼ぶようになっていったと考えるのが妥当である。古語辞典や索引の類に、「貂(て)」と載せていないのは遺憾なことである。

(注)
(注1)古くさい、流行遅れの、という意に解する説と、古体の、という意に解する説があるが、偕老同穴の議論である。フルキがあるならアラタキがありそうだからである。夏毛と冬毛とでまるで変わってしまう毛皮の色・質のことを物語るヤマトコトバであろう。黒貂の毛皮を男性が堂々と着していたと記録されている。江家次第に、「昔蕃客参入時、重明親王乗鴨毛車、着黒貂裘八重。見物此間蕃客纔以件裘一領持来、為重物八重、大慙云云。」(巻第五・春日祭、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2573672?tocOpened=1(37/192))とある。黄金色に輝くようなホンドテンの冬毛に対してフルキという語は作られていると考える。重明親王が着ていたのは、ホンドテン、あるいはエゾクロテンの夏毛を使ったものと考えれば、珍しかろうとわざわざ舶来品を持ってきた使節が「大慙」をかいた理由も納得がいく。
(注2)記録として交易品のリストに載る可能性は極めて高く、常日頃からそこらへんで調達しているものについては記録しないのが世の常である。源順に聞いてみるよりほかわからないのであるが、渤海国を「東北夷」と呼び捨てていたとするのであろうか。

(参考文献)
大舘大學「東アジアにおけるクロテンの皮衣―特に古代日本の「ふるきのかわぎぬ」の実像をめぐって―」蓑島栄紀編著『アイヌ史を問いなおす:生態・交流・文化継承 アジア遊学139』 勉誠出版、2011年3月。北海道大学学術成果コレクションhttps://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/56459/1/bensei.pdf
河添房江『光源氏が愛した王朝ブランド品』角川学芸出版、2008年。
白柳秀湖『日本民族文化史考』文理書院、昭和22年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041547/101?tocOpened=1
鈴木靖民「入唐求法巡礼行記の世界の背景―渤海国家の交易と交流―」http://www.junreikoki.jp/pdf/suzuki.pdf

※本稿は、2017年3月稿をもとにして2020年8月に大幅に書き改めたものである。

オニ(鬼)のはじまり

2016年09月02日 | 和名類聚抄
 ヤマトコトバにオニ(鬼)という言葉は、飛鳥時代ごろに生まれたものと考えられる。本稿では、オニ(鬼)という言葉のはじまりを探り、温故知新としたい。

鬼のパンツは虎の皮?
 鬼のパンツが虎の皮に定着するようになったのは、近世以降、さらには昭和になってからのようである。蔵王権現の引敷、下帯などとされる虎皮(豹皮もある)が現れて以後、時代的にかなり下るもので、連動的に考えられてはいない。江戸時代の鬼のパンツがなぜ虎皮なのかについては、艮(うしとら)の方角との関係を推測されることもある。鬼も、人間の頭の中の面倒な話に巻き込まれて迷惑であろう。もちろん、人間の頭のなかで作りだされたものが鬼である。宮崎成身・視聴草(みききぐさ)に、享保年間(1716~36)の落書に地獄の倹約令があり、鬼のパンツも狐や狸にせよとの件がある。
宮崎成身『視聴草(みききぐさ)』(国立公文書館「ようこそ地獄、たのしい地獄」展展示(……一 鬼共豹虎の皮の下帯ハ茨木皇子・石熊童子の外一切無用たるへし 下々の鬼共蜜々に法外之義於有之ハ吃度呵責すへし 但し狸狐等之皮ハ苦るしからさる事……)、「国立公文書館・旗本御家人Ⅱ」参照。)
十王像(閻魔王)(絹本着色、室町時代、15世紀、東博展示品)
 そんなパンツの鬼も、仏教が中国に入って道教の影響を受けたものが日本へ流れて来て、地獄の獄卒として活躍しているという次第のようである。それ以前からいた日本の鬼、波状的に中国の思想が到来している鬼としては、物の怪とも呼ばれる鬼、鬼やらいの鬼などがあり、多様な様相を示している。オニ(鬼)という言葉は一語にしてとても使い勝手が良く、重宝されて多用された。鬼瓦(注1)、鬼退治、鬼に金棒、鬼の形相、仕事の鬼、鬼嫁、渡る世間に鬼……、銘酒「鬼ころし」、椿鬼奴、……。
山水鬼神文磚(韓国扶余窺岩面出土、三国時代(百済)、6~7世紀、東博展示品)
鬼面文鬼瓦(奈良県中山町中山瓦窯跡出土、奈良時代、8世紀、奈良文化財研究所、東博展示品)
鬼瓦の変遷(竹中大工道具館「千年の甍―古代瓦を葺く―」展解説パネル。飛鳥時代に「鬼」瓦はなかったらしい。)

和名抄の著者、源順を擁護する
 筆者は、いわゆる“語源”を探るという立場に立たない。ヤマトコトバの語源は、現代でのネーミング、商標権などと異なり、極められるものではない。とはいえ、飛鳥時代に、当該語の音の響きを人々がどのように感じ取っていたか、当時の人々の“語感”のようなことは、万葉集の表記などから推測することができる。むしろそれが、当時の人たちの心の真相であろうと考える。万葉集の用字に、助詞のカモを鳥類の「鴨」という字を多く用いていた。すると鳥類のカモを見つけるたびに、もしかしたら、といった意味合いを見て取ってしまうということになった。結果、洒落として把握していた可能性がある。
駅ポスター
 紀に、次のようにある。

 故、時人、改めて其の河を号けて、挑河(いどみがは)と曰ふ。今、泉河(いづみがは)と謂ふは訛(よこなば)れるなり。(崇神紀十年九月)
 故、其の地を堕国(おちくに)と謂ふ。今、弟国(おとくに)と謂ふは訛れるなり。(垂仁紀十五年八月)

 地名の由来が語られている。訛ったのだと真面目に述べられている。今日、このような地名譚について、それを地名の“語源”であると主張する人はいない。真に受けていては気が変だと思われかねない。笑い話ということで何の不都合も生じない。しかし、こういった地名譚ばかりでなく、記紀説話すべてが洒落であるのかもしれない。筆者の考えはそちらへ傾いているが、その証明にはすべての説話について検討が必要となる(注2)
 地名の訛り譚と同じノリで、源順(911~983)が和名抄を記しているとすると、どう考えられるか。

 人神 周易云人神曰鬼〈居傳反和名於邇或説云於邇者隠奇之訛也鬼物隠而不欲顕形故以稱也〉唐韻云呉人曰鬼越人曰◆(「幾」字の「人」の代わりに鬼、魕の異体字)〈音蟻又音祈〉四聲字苑云鬼人死神魂也(高松本による。「傳」は「偉」の誤りか。)
 人神 周易に云はく、人神を鬼〈居偉反、和名於邇(おに)。或説に云はく、於邇(おに)は隠奇(オンキ)の訛れる也といふ。鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称す也〉と曰ふといふ。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は◆〈音蟻又音祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神の魂也といふ。

 オニ(鬼)の語源説として、隠の字音、オンが訛ったものだと言われていている。和名抄のこの記事に依っている。和名抄の諸本のうち、「隠奇」となく、「隠」だけのものがあり、銭(ゼン→ぜに)、盆(ボン→ぼに)のように、撥音便を避けているものと思われている。源順自身が言っているのは、「或説云」だけである。彼が「按」じているのではない。そういう説があると紹介してくれているだけである。
 和名抄に、言葉の謂れを記した記述は各種ある。「云」、「謂」、「言」、「云」、「読」などと、巧みに書き分けている。文選に登場する語で、なるほど納得、知恵の働いた訓が付けられているものだなあと、源順が感動したものについては、「文選……読」という表記が採られている(注3)
 それに対し、ここでは、「或説云」という無責任な表記が行われている。彼自身、言葉として大して興味をそそられるようなものではなかったのであろう。オニがどうしてオニと言われるのか? ある説では……このように述べられている、と言っている。
 今日から振り返ったとき、オニ(鬼)という言葉が多義化して膨らんで、いろいろと便利に用いられているから、もう少ししっかりした“語源”的なものがあるような気がするようである。しかし、言葉とは、それほど“科学”的にはできていない。「泉河」が「挑河」の訛った形であるということと同列に捉えれば、別に、事を荒立ててオニ(鬼)という言葉が「隠」の字音、オンの訛ったものだと言っていて構わない。しかも、当時の大学者の源順自身のぶち上げた説ではなく、そんなことらしいという話として定着している。

新撰字鏡の「鬼」
 オニ(鬼)という言葉について、今後新しい“語源”説を唱えられ、検証されることがあるかもしれない。けれども、和名抄の記述に異議を唱えても仕方がないであろう。オニ(鬼)=「隠」の字音「オン」の音訛説は、平安時代にそういう説が歴史的事実としてあった。そう考える人たちが当時少なからずいた。中古語ばかりでなく上代語を理解するうえでこの点は肝要である。
 山口2016.に、新撰字鏡を誤読した解釈が行われている。

 鬼 九偉反、上。人神曰鬼。慧也、帰也、送身也、遠也。(新撰字鏡)

「この『遠』はヲニという音を写していると考えられる。つまりオニを表記する(於邇)の前身に、(遠)という表記があったのである。平安時代にはヲとオが混同されるようになっていたから(6)、ヲニ(遠)がオニ(於邇)となるのに不都合はない。」(36頁。「注」は、「(6)大坪併治著『改訂訓点語の研究』上、風間書房、平成四年刊。」(51頁)。)としている(注4)
 新撰字鏡は、字書である。漢漢辞典のなかに、パラパラと万葉仮名で和訓が記されている。万葉仮名で記されているのが和訓で、「○○也」と書いてあるのは、漢漢辞典、漢字の字義の説明を漢字でしているところである。ここは、「鬼 九偉反、上[声]。人神は鬼(クヰ)と曰ふ。慧也、帰也、身を送る也、遠也」とあって、鬼の説明として、慧(さと)いものであること、(あの世に)帰るものであること、身は送って残った霊魂のようなものであること、そして「遠」であるものであること、と記されている。和訓は記されていない。「遠」は、論語・学而に、「曽子曰く、終りを慎み遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。(曽子曰、慎終追遠、民徳帰厚矣。)」とある「遠」の意で、先祖のことである。「人神」を「鬼」と言っている。亡くなったご先祖様のことである。
 中国で道教や民間信仰が盛んであったことは確かであるものの、それ以上に儒教が盛んであったことも事実である。なかでも論語は基本である。新撰字鏡の著者、昌住(9世紀)はお坊さんである。学問全般に通じていて、中国由来の思想、儒・仏・道・陰陽・神仙などのいずれをも視野に字書が作られているものと思われる。「遠」はご先祖様のことであるから「也」と断じられている。「遠」は万葉仮名として記しているのではなく、「也」も衍字ではない。
 他の「遠」字の例を垣間見てみる。新撰字鏡の天治本と享和本を校異しながら、

 悠々 思也、遠也。宇加大礼、又大伊々々志久。

とあるらしい箇所は、「悠々 思也、遠也。宇加太礼(うかだれ)、又、大伊々々志久(おほいおほいしく)」と読み、書かれてあるのは、悠々の字義は思いやるほどのこと、遠くはなれていることのことで、和訓ではウカダレ、また、オホイオホイシクである、というであろう。ウカダレやオオイオオイシクなど、滅多にお目に掛かれない和語を知れる素晴らしい字書である。「太皇太后宮(おほいおほいきさいのみや)」という言い方がある。天皇の祖母でむかし皇后であったおおおばあ様には、悠々自適にお暮しになられることを望みたいものですとの表明である。

斉明紀のオニ(鬼)=神功皇后の「人神」
 万葉集で「鬼」字はすべてモノと訓まれている。では、当時、オニ(鬼)という言葉はヤマトコトバになかったかと言えば、筆者はあったと考える。歌語ではないから万葉集ではそう訓まないということであろう。紀に、「鬼」字にオニと古訓が振られている。平安時代に付けられたものだから、飛鳥時代にはそうは呼ばれていなかったと言えなくはないが、まずはそう振られているから、騙されたつもりであれそう読まなければ話が始まらない。
 斉明天皇は女帝で、舒明天皇の皇后、その後を襲って皇極天皇として位に就き、大化改新時に退位して「皇祖母千尊(すめみおやのみこと)」と呼ばれていた。そんなおばあさんが重祚して斉明天皇となり、悠々自適には過ごされずに、白村江の戦いに臨もうと九州まで来たところ客死されている。そこで「鬼」が出てくる。

 五月の乙未の朔癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居す。是の時に、朝倉社の木を斮(き)り除(はら)ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿(おほとの)を壊(こほ)つ。亦、宮の中に鬼火(おにび)見(あらは)れぬ。是に由りて、大舎人(とねり)及び諸の近侍(ちかくはべるひと)、病みて死(まか)れる者衆(おほ)し。(斉明七年五月)
 秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩(かむあが)りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子(ひつぎのみこ)、天皇の喪を奉徒(ゐまつ)りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、(おに)有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る。衆(ひとびと)皆嗟怪(あやし)ぶ。(斉明紀七年七月)

 この部分の「鬼火」を火の玉のこととすると、現代科学では解明されているらしいが、よくわからない神秘的な火としてオニビと呼んだのであろうと推測される。モノビという言い方は知られていない。人の前に神が姿を現すことは、雄略天皇の前に葛城の一言主大神が現われたといった記事にある。姿を現した一言主大神は「神」である。他方、「鬼」は、和名抄に、「鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称す也」とある。姿が不明瞭なのをオニと呼んだということになる。「大物主神」という場合、「物(もの)」は物の怪のモノに当たるのであろうが、それを祀るべく対象として把握できている、つまり、「神(かみ)」として崇めてしまうことによって、オニではなくなったということではないか。この点については諸説ある。
 「人神」にして、「隠」れていて「遠」なるものとは、遠いご先祖様の霊魂のようなものと考えることができる。朝倉宮で人々が怖がった「鬼」とは、斉明天皇のご先祖様であろう。その場合、儒教では父系をたどる。斉明天皇がご先祖様と仰いで同じように朝鮮半島へ派兵しようとしているのは、神功皇后に違いない。古く新羅親征を行って成功を収めた。すなわち、神功皇后の霊が、「鬼火」となり、「鬼」となってぼやぼやっと顕れるか顕れないかしたということが活写されているということになる。むろん、斉明紀の記述においてそうあるというだけである。古代の人びとの一般的、普遍的なものの考え方はわかろうはずはない。それでも、斉明天皇の行軍の様子は、神功皇后の新羅親征を準えていて、宮廷社会の人々にとっては、もはや“常識”であったと言えるのではないか。そして、斉明七年(661)時点におけるオニとは、ご先祖様の亡霊のことを指していると言えそうである。後々、オニという言葉が、いろいろな意味にも転用されるようになる出発点として、初めの一歩はそうであったろうと定められる。和名抄の「周易云、人神曰」という説明は当を得ていると言える。

 以上、ヤマトコトバのオニ(鬼)の原初的形態について垣間見た。興味深いテーマである。歴史はその後1200年続いて今日に至っている。オニ(鬼)に幅広い諸相を見ることができる。

(注)
(注1)林1996.に、「[広州龍生崗の鬼瓦の附く屋根(陶製明器)]は鬼瓦の古い形である。その名称は今のところ不明である。」(191頁)とある。平城京の屋根に載せられた鬼瓦を当時の人が何と呼んでいたか、筆者にも今のところ不明である。
(注2)筆者の研究の基本姿勢である。
(注3)個々の事例については、拙稿「和名抄の『文選読』について」参照。
(注4)山口2016.の論述では、「瘟」がメインで、「瘧鬼」、「疫鬼」に和語のオニのルーツを求めている。導入部分に「遠」字が出ている。

(引用・参考文献)
林1996. 林巳奈夫編『漢代の文物』朋友書店、1996年。
山口2016. 山口建治『オニ考―コトバでたどる民間信仰―』辺境社発行、勁草書房発売、2016年。

※本稿は、2016年9月稿「オニ(鬼)考序説」を2017年10月に改題、改稿したものを2020年8月に整理したものである。

和名抄の「文選読」について 各論

2015年04月07日 | 和名類聚抄
(承前)
 和名抄における「文選読」という字面に関し、具体例をみていく。

24.軒檻 漢書注云軒〈唐言反〉檻上板也檻〈音監文選檻讀師説於保之万〉殿上欄也唐韻云欄〈音蘭漢語抄云欄檻〉階陛木勾欄亦〈如本〉
 軒檻 漢書注に云はく、軒〈唐言反〉は檻上の板也、檻〈音は監、文選に、檻を師説に於保之万(おほしま)と読む〉は殿上の欄也といふ。唐韻に云はく、欄〈音は蘭、漢語抄に、欄は檻と云ふ〉は階陛の木の勾れるを云ふ。欄も亦なり〈本の如し〉。

 先に、「文選云」の例であげた「鏤檻文㮰」は、文選の張衡・西京賦にある。足利本(『和刻本文選 第一巻』59頁)に、チリハメタルヲハシマカサレルノキハアリと振られている。注に、「檻は闌也」、「闌上を名けて軒と曰ふ」、「軒は檻欄也」とある。現代の我々にとって、ヲからオへ転じてオバシマと訓むのに疑義はない。猿投本文選にもヲハシマとあるらしい(築島2015.631頁)。ところが、平安初期の大学寮の講義説といわれる「師説」によって、「於保之万(オホシマ)」と訓むとある。これが問題である。ホがバへ音転したとは考えにくい。
おばしま(伴大納言絵巻写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574901?tocOpened=1(15/34))
 源順は、檻は欄であると理解している。手すりの欄干のことは闌干とも書く。ただし、闌干には、入り乱れて多いさまをも表す。呉都賦に、「珠琲闌干」とあり、注に「闌干は縦横也」とある。縦横無尽の縦横であり、多いことを表す語ゆえ、それと混同してオホシマとこじつけられる。それを面白がって書いたとも考えられる。しかし、それを「読」という言葉で表す理由は見当たらない。
 割注のなかで、師説に檻をオホシマと読むと言っている。檻は、名義抄に、オバシマ、ヲリの2つの和訓が載る。鳥獣・罪人・狂人を入れておくところがヲリである。紀に「檻(をり)」(天武紀四年四月)と記されている。たしかに、オバシマとは、ボクシングやプロレスのリングから落ちないように設けられた柵のようなものである。ところが、ヲリという言葉は、「居(を)る」と同根の言葉とされる。同じ「居」の字をあてるヲルとヰルの違いは、ヲルに卑下や蔑視のニュアンスがこもっていることである。これは異なことである。オバシマがあるのは、高床の殿上で、偉い人々がいらっしゃる場所である。動物や罪人など、貶める相手ではなく、尊敬すべき人々の囲いがどうしてヲリなのであろうか。
殿上人の溜まり場の囲いなのに、ヲリとも訓んでしまうことの謎は、古事記によって解かれることになる。記の国生み章に次のようにある。

 次、生大島。亦名、謂大多麻流別〈自多至流以音〉。
 次に、大島を生みき。亦の名は大多麻〈上〉流別(おほたまるわけ)〈多より流に至るは音を以てす〉と謂ふ。(記上)

「麻」の字の下に小さく「上」の字が入っている。音注である。タマルは「溜まる」の意であることを示す。オホシマの別名はオホタマルワケ(大溜別)と言った。山口県の屋代島のことを指すとされている。シマ(島)という語については、その語源は明らかではないながら、「シマはシム(占)という語と関係があると思う。」(西郷2005.139頁)とする説がある。また、シマク(繞)とは、とり巻く、とり囲む意である。島は海がとり巻いている。すると、ヤシロジマ(屋代島)とは、ヤシロ(社)+シマ(島)のことで、社を取り巻く欄干のことを言っているように感じられる。社という語は、ヤ(屋)+シロ(代)の意である。しかし、シロについては、辞書の間に微妙な揺れがあり、西宮1990.に詳論されている。辞書式にまとめられた箇所を以下に引く。

 ●しろ〔代〕シル(領知)が原義。(一)占有する、特別な場所。①~となるための特別地。「苗代」「山代」。②~するための特別地。「矢代」「糊代」「城」。③秘密の占有地。④助数詞。土地の広さの単位。(二)領知する人・所・物・事。①代りの人・物・所。「親代」「御名代」「網代」「咲かぬが代に」。②代りの物が本物と同じ機能をもつもの。「物実」。(361頁)

 そして、ヤシロ(社)は、「屋を建てるために設けられた特別地」(361頁)のことが原義であるとする。注連縄などで囲って地鎮祭を行うように、地祇にまつわる所ということになる。廿巻本和名抄には、「地祇 周易に云はく、地神は祇と曰ひ、巨支反といふ。日本紀に云はく、地祇〈和名は久爾豆加三(くにつかみ)〉は或に〈夜之路(やしろ)〉といふ。」とある。地祇を祀って神社のヤシロは建つ。それに似た立派な作りの御殿には、神さまのような尊い人たちが溜まっている場がある。そのまわりをとり巻く囲いは、注連縄の変化したオバシマ(欄)に当たるということになる。
おばしま(戸越八幡神社にて)
 屋代島は記に、「大島」、また、「大たまる(溜)別」とあるから、オバシマはオホシマということになる。ふつう、タマル(溜)といえば、水が溜まることで、水を溜めるものは、槽(ふね)である。フネという語は、同じ形をしていて海に浮かぶ船にも用いられる。ふつうの人が乗る、あまり大きくないのがフネである。それに対して、高貴な人が乗る大きな船のことは、舶(つむ)という。

 乃ち進みて嶋郡(しまのこほり)に屯(いは)みて、船舶(つむ)を聚(あつ)めて軍(いくさ)の粮(かて)を運ぶ。(推古紀十年四月)
 [百済]参官等が乗る船舶(つむ)、岸に触(つ)きて破る。(皇極紀元年八月)

 2例はツムという古訓の付けられている箇所である。大型船に違いなのだからツムの訓に誤りはない。新編全集本日本書紀(③65~66頁)に、船舶の総称だからといった理由でフネと新訓を与えているのは誤りであろう。推古紀記事では、鉄でできた重たい武器を運ぶのに小船では沈んでしまう。そうでなくても、海水がかかったら錆びてしまう。皇極紀の記事は、百済に賜わった船舶が壊れたから、その後、百済からは、任那分も含めた大量の貢物が来ることはなかった。そういう含みを持っている。そして、ツムには、船べりに欄干が設けられていた。また、タマル(溜)には、物を積む意もある。どちらもツム(舶・積)である。西郷2005.が島と占との関係を指摘された箇所は、古事記の国生み章の初めの「淤能碁呂島(おのごろしま)」のところである。「其の矛の末(さき)より垂(た)り落つる塩、累(かさ)なり積もりて島と成りき。」(記上)とある。塩は貴重品であった。水がかかって溶け出して駄目にならないよう、船舶で運ぶためには鉄の武器同様、小型の船ではなく乾舷(freeboard)の高い大形の舶(つむ)に積むのが常識であったろう。今日、船の安全運航を図るため、適正な予備浮力を保つために、喫水線が規定されている。舶は喫水線から上の乾舷が十分に備わった船のことになる。
 陸上の、社、ないし、殿上に積んだものとは、水を溜めた槽ではなく、お酒を入れた樽であったろう。神さまにお供えするにも、高貴な人に献上するにも、飲み物といえば水ではなくお酒である。タル(樽)という語の上代の用例は、記102歌謡に「秀罇(本陀理(ほだり))」と見られるだけで乏しく不詳ながら、タル(垂)やタマル(溜)からタル(樽)という言葉が生れたとしても不思議ではない。以上、よくよく考えてみると、檻はヲリではなくてオホシマのことなのだと、師が仰っていたなぞなぞ的解釈が、なるほど尤もなことであると得心がいく。そこで、「読」という字を源順は使っている。なお、後にオバシマと言うようになった過程は未詳である。

28.玫瑰 唐韻云玫瑰〈枚廻二音今案雲母同見干文選讀翡翠火齊處〉火齊珠也

 玫瑰については、杉本1999.に次のようにある。

 玫瑰 唐韻云玫瑰〈枚廻二音今案和名与雲母同見于文選読翡翠火斉処〉火斉珠也
 〈与雲母同〉というのは[和名抄・玉類の]直前の〈雲母〉のことで、〈和名岐良々〉も示している点をさすと思われる。それよりも、〈見……処〉までがさしあたって問題なのである。十巻本も同様の指示が与えられているようであるが、[狩谷棭斎の]『箋註』では、〈見文選読、翡翠火斎(ママ)処〉とよんでいる。出典ではなく語の所在の指示ということになろう。〈翡翠火斉〉の語は当時の知識人には日常的といえるほどのことであろうが、念のために確認しておくと、『文選』の張平子〈西京賦〉の一部で、〈翡翠火斉絡以美玉〉というところである。〈火斉〉は〈玫瑰〉のことをさすのであるが、玫瑰の語はここにみえない。〈文選読……〉の真意は解しかねる。〈玫瑰〉の出典を『文選』に求めるならば、巻七の司馬長卿〈子虚賦〉に、〈其石則赤玉玫瑰琳琘昆吾〉などとみえるが、〈火斉珠〉との関連で考えれば、ここを引用しているわけではなさそうである。まして上でもふれたように、この事典の使用者の立場からいけば、迷惑というか、『文選』の〈翡翠火斉〉のところが参考になるならば、抜きだしてここに示してほしいわけである。後人の手になる挿入か。添え書きした書込みがまぎれこんでしまったのかもしれない。〈于〉の助字の使用も特別である。(117~118頁)

 狩谷棭斎・箋注和名類聚抄には、「……〈枚廻二音、今案和名与雲母同、見于文選讀、翡翠火齊處、〉……」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786(89/104))とある。京本類と呼ばれる和名抄の諸本に、「于」は、「千」とも「干」ともとれる字体である。杉本1999.は「于」と見るが、筆者は、「干」の字と見る。

 玫瑰 唐韻に云はく、玫瑰〈枚廻二音、今案ずるに雲母に同じ。干に見ゆ。文選に、翡翠火齊の処を読む〉は火齊珠也といふ。

 和名抄に、「雲母 本草に云はく、雲母〈岐良々(きらら)〉は、赤多きは之を雲珠と謂ひ、五色具ふるは之を雲華と謂ひ、青多きは之を雲英と謂ひ、白多きは之を雲液と謂ひ、黄多きは之を雲沙と謂ふといふ。」とある。「干」は、琅玕を指す。和名抄には、「玉 四声字苑に云はく、玉〈語欲反、白玉は和名は上[シラタマ]に同じ〉は宝石也といふ。兼名苑に云はく、球琳〈求林の二音〉、琅玕〈良干の二音〉は皆美しき玉の名也といふ。」とある。文選では、司馬相如・子虚賦などに、玫瑰は出てくる。和名抄は其処ではなく、わざわざ翡翠火齊の処をあげている。班固・西都賦に、「翡翠火齊、流耀含英(翡翠ノ火齊、ひかりヲ流シ英ヲ含メリ)」、李善注に、「張楫が上林賦の注に、翡翠の大小、爵の如しと曰ふ。雄赤を翡と曰ひ、雌青を翠と曰ふ。韻集に、玫瑰・火齊は珠也と曰ふ。」とある。また、張衡・西京賦に、「翡翠火齊、絡以美玉」とあり、李善注に、「翡翠は鳥の名也。火齊は玫瑰珠也。」とある。いずれも、翡翠という語について、鉱石名ではなく鳥名と捉えている。そして、足利本(『和刻本文選 第一巻』61頁)に、「ハ子ノタマアテ、マツフニ美玉ヲ以テセリ」と振られている。青や赤の色にきらきらしている玉のことをいうものと考えている。
 ハネノタマアテなる訓は、中村1983.によれば、九条本には付されていないようであるが、和名抄の、「文選に翡翠火齊の処を読む」とある「読」はこれであろう。わざわざ「処」などと断ってあるのは、この意訳が気に入っていたからである。ハネノタマアテとは、羽根突きに使う羽子のことである。羽子の羽には、鳥の羽の美しいものを用いたようで、染色したものも使われている。それを、鳥の翡翠、カワセミのような美しい羽と謂っている。羽子が玫瑰という宝石で、それが火齊珠であるという。火齊とは、(a)美玉の名で雲母に似ているもの、(b)瑠璃の異名、(c)火加減のこと、(d)煎湯の薬名、のことを表す。(b)については、令義解・職員令に、「典鋳司 正一人。金銀銅鉄を造り鋳り、塗餝、瑠璃〈火齊珠也と謂ふ〉、玉造、及び工戸の戸口の名籍の事を掌る。」とある。(c)は、齊の整える意から、火加減のことを指している。それらの多義を含めるのが、羽子である。「御火焼(みひたき、ミ・キは甲類、ヒは乙類)の老人(おきな)」が火加減を整えるのと、鳥の鶲(ひたき、ヒ・キの甲乙不明)と鳥の瑠璃の近似性から、言葉の上で、羽子、玫瑰、火齊珠は重なっているのである(注1)。なお、漢語で玫瑰は、バラがてかてかの実を結ぶことにも通用している。
玫瑰(バラの意、神代植物公園案内板)
 バラのテカテカの硬い実に、カワセミの美しい羽をつけて、羽根突きをしようというのである。日の光を受けて行えば、突くたびにきらきらとしてきれいだよというのが一連の頓智話である。それを「玫瑰」の語の一項目内に書いてしまっている。それが可能なのは、文選の西京賦に、ハネノタマアテなる妙なる訓が施されているからである。よくよく考えて、なるほどそうだったのかというなぞなぞ的なよみ方だから、「読」という字が用いられている。

39.寒 文選云寒鶬烝麑〈師説寒讀古与之毛乃此間云迩古与春〉
 寒 文選に云はく、寒鶬烝麑〈師説に寒を古与之毛乃(こよしもの)と読む。此の間に、迩古与春(にこよす)と云ふ〉といふ。

 文選の曹植・名都篇に、「鼈(べつ)を寒にし、熊膰(ゆうはん)を炙(しゃ)にす。(寒鼈、炙熊膰。)」、同じく七啓に、「芳苓の巣亀を寒にし、(寒芳苓之巣亀、)」とある。足利本(『和刻本文選 第二巻』)に、前者は、「炮〈善作寒〉鼈炙熊膰」(667頁)とあって、「炮」の字にミマスニシテ、ニコヨスモノニシテ、「寒」の字にヤキモノニシテと振られている。後者は、「寒〈五臣作搴〉芳苓〈五臣作蓮〉之巣亀」(834頁)とあり、「寒」の字に、にニコシニシと振られている。中村1983.の九条本では、ニコヨスニシテ、ニコヤシニシ、ニコヨスニシ、コヨシモノニシといったルビが見られる。名義抄に、「寒 ……、コヨシ物 俗云ニコヨ爪(シ)」、「鯖 ……、ニゴヨシ」、色葉字類抄に、「寒 ニコヤス。鯖同。煮凝。同」とある。今日言うところの、にこごりという料理である。説文に、「寒 凍る也。人の宀下に在るに从ふ。茻薦を以て覆ひし下に仌有るなり」、集韻に、「𦙫 魚を煮、肉を煎るを𦙫と曰ふ。或に鯖に作る」とある。源順の説明では、先生は寒をコヨシモノと洒落たことを仰っていたけれど、最近ではニコヨスと言っているものだ、と語っている。
 時代別国語大辞典の「こゆ【凍・寒】」の項の【考】に、「なお、寒鶬烝麑〈師説、寒読古与之毛乃(コヨシモノ)、此間云邇古与春(ニコヨス)〉」(和名抄)「寒〈コヨシモノ、俗云ニコヨス〉」(名義抄)などのコヨスは、コユから派生した他動詞で、凍らせるの意であろう。コユのコは、凝ル・コゴシなどのコと語源的につながるとすれば、乙類であろう。」(313頁)とある。この解釈の若干の難点は、コヨスの近似形にコユ(凍・寒)、コル(凝)の形をあげるなら、コス(にこごりにする)という形になっていそうな気がする点である。コヨスと、使役形の如くなっている説明が施されていない。おそらく、魚などは煮付けておいてそれで完成なのであるが、一晩置いておいておいたら、ひとりでに勝手ににこごりになっていた、というように、主体的、積極的に作らんとして作るのではなく、大きな自然の力になすがまま、させられるがままに出来上がることを含意した言葉であると思われる。同じ気温下でも、素材の条件によって、できるものとできないものとがある。
カレイのにこごり(両目が上を向き、体色が腐った色に見える。古代にない醤油を使用。)
 食べ物のにこごりは、夏の暑いときには冷蔵庫がない時代にはできなかった。肉や魚から出たおいしい汁が、温度の低下で凝縮しゼラチン化する。「醴酒(こさけ、コは甲類)」(応神紀十九年十月)、「漿〈訓、古美豆(こみづ)〉」(華厳音義私記)、「白飲 四時食制経に云はく、冬宜しく白飲〈古美豆(こみづ)、今案ずるに、濃漿の名也〉を食すべしといふ。」(和名抄)と同じく、濃い汁の意を持っていると思われる。コ(濃)+ヨシ(寄)+モノ(物)である。「寒」はふつう、さむい、こごえる、ひえる、つめたい、ことである。冬場寒いとどうなるか。子どもの遊びが変わる。集まって押しくらまんじゅうをしている。コ(子、コは甲類)+ヨシ(寄)+モノ(物)となる。
 食べ物のにこごりは、折詰のような容器に盛った魚肉の周りに煮汁がとけ出し、それが再びかたまったものである。おそらくではあるが、これと同じ現象を、棺のなかに見たのではあるまいか。土葬して古墳に埋葬するのであるが、その前に、殯(もがり)を行うことがあった。天皇のような貴人の場合、長期間にわたっている。すると、遺体から肉汁がしみだしてくる。腐敗しないように氷を使って冷やすことは、礼記・喪大記に、「君には大盤を設けて冰を造(い)れ、大夫には夷盤を設けて冰を造る。士は瓦盤を併べて冰無し。(君設大盤冰焉、大夫設夷盤冰焉。士併瓦盤冰。)」とあって、実際に行われていたであろう。遺体を加熱したわけではないから、にこごり状に見えるケースは、たくさんの氷を使う「君」の場合に限られよう。この諒闇に当たる殯宮儀礼によって、ヒツギノミコ(太子、ヒ・ギは甲類)は、日嗣を行って、天皇の位に昇ることとなる。棺(ひつき、ヒ・キの甲乙不明)をよく守ったからである。棺をヒトキと訓む例があり、人木の意と解してヒは甲類、ト・キは乙類とする説があるが、なお未詳である。筆者は、棺(ひつき)のヒ・キは甲類ではないかと思う。にこごりのことをいう寒、コヨシモノに似た音に、「百済の太子(こよしむ)」(継体紀十八年正月、院政期前田本訓)とあるからである。古朝鮮語で王のことはコキシ、太子のことはコヨシムなどと発音した。太子が棺の中の寒(こよしもの)を確認して、日嗣の儀式を執り行わせられるのである。太子などというものは、王の後ろ盾があって成り立っているもので、天皇の死後にそのまま自動的に天皇に即位できるのではなく、豪族たちの合意が得られなければ他の人に皇位は巡って行ってしまうものであった。よって、太子という存在自体が、使役形に表されてしかるべきで、古朝鮮語発音のコヨシムは、なるほど納得の言葉として倭の人に受け入れられたのであろう。そして、にこごりとの関係から、ヒツギノミコのこととまったくもって合致する、すごい頓智話であると源順は驚嘆し、「読」と記したに違いあるまい。

41.属鏤 廣雅云属鏤〈力朱反文選讀豆流岐〉劔也
 属鏤 広雅に云はく、属鏤〈力朱反、文選に豆流岐(つるき)と読む〉は剣也といふ。

 属鏤は、呉王夫差が伍子胥に死ぬように与えたとされる名剣の名である。史記・呉太伯世家に、「呉王聞之、大怒、賜子胥属鏤之剣以死。」とある。「子胥に属鏤之剣を賜ふ」との記事は、春秋左氏伝・哀公十一年条にも載る。文選には、張衡の呉都賦に「抜揄属鏤(属鏤を抜(ぬ)き揄(ひ)く)。」とある。史記にあった「之剣」が脱落している。足利本(『和刻本文選 第二巻』141頁)に傍訓はないが、九条本(中村1983.171頁)には、「屬-鏤」の「屬」字の右下から「鏤」の字の右下までには「ノツルキヲ」と振られている。つまり、「属鏤」は、ショクルノツルキといういわゆる文選読みによって読まれ、理解されていた。
 数ある名剣のなかで、わざわざ和名抄が「読」と断って取りあげたのには、属鏤という字面からツルギと訓ずべき意を読み取ったからであろう。説文に、「属は連なる也」、また、鏤は、「剛鐵なり。以て刻み鏤(ゑ)る可し。金に从ひ婁声。夏書に曰く、梁州は鏤を貢すといふ。一に曰く、鏤は釜也といふ」とある。鏤は鋼(はがね)の意味だから、属鏤は固有名詞のはずであるものの、その字義は、刃が刀身のまわりを連なっていることとなっており、両刃の剣のさまをよく捉えている。ヤマトコトバに直しても、連なるのツルと、牙のキ(キの甲乙不明)の意になっている。よって、属鏤でツルキと訓むと一応納得できる(注2)
 しかし、その程度のことなら、「云」と記し、「読」と断る必要はない。鏤の字の説文に見える釜の義は興味深い。説文の記事に、今の四川省と陝西省に当たる梁州は、お釜を貢物にして献上していたらしい。お釜は竈に用いられる羽釜(はかま)のことである。鍔がついていて竈の縁にぴったりとはまってかかり、煙も漏れず炉中に落ちることもない。同様に鍔がついているものに大刀(たち)があり、鯉口の仕掛けなども手伝い、鞘に納まって抜け落ちることはない。その鞘には、腰に佩かせるために帯取を通す足金物(一の足・二の足の山形金)が拵えつけられている。つまり、属鏤という字面から、佩かせる大刀の意が直感されるわけである。どうして落ちないのか、その秘密は鍔にある。ひっかかる仕掛けは、一方は羽釜、他方は袴(はかま)である。大刀を腰に佩くのは、参朝するときの礼式であり、袴を着用する。鞘の足金物につけた帯取を大刀の緒が絡めて袴の上に巻く。どちらもハカマ。なるほどの頓智、お呪いのように符合している。「読」に値する言葉づかいである。
羽釜と竈(横浜市の古民家)
鍔(草花文鍔、無名.古美濃、16世紀、室町時代、東博展示品)
梁州(「大明地理之図」、文化11年(1818)模写、細谷良夫氏寄贈、東洋文庫ミュージアム展示品)
 応神記歌謡に次のようにある。

 誉田(ほむた)の 日の御子 大雀(おほさざき) 大雀 佩かせる大刀(たち) 本吊(つる)ぎ 末振ゆ 冬木の 素幹(すから)が下木の さやさや(記47)

ツルグは本末で「振ゆ」と対比されているから、他に用例は見ないものの動詞であることに間違いない。剣のもとの方はしっかりと吊るされており、先の方はぶらぶらと振れている、という意味である。刃物そのものを表す大刀と、それを鞘に納めて帯刀可能となった剣(つるぎ)とは、言葉としてきちんと分けて考えられている。吊るすことのできる鞘のついた大刀はツルギタチという連語でも表す。タチツルギという本末転倒な言葉がない点については、竹光との関係で考え直さなければならない別の話である。景行記に、倭建命(やまとたけるのみこと)が出雲建(いづもたける)を打ち殺すとき、「窃(ひそ)かに赤檮(いちひ)以て詐(いつはり)の刀(たち)に作りて、御佩(みはかし)と為て、……」とあり、行水の時に刀を易えたという話が載る。もちろん、「出雲建、詐の刀を抜くこと得ず。」となった。とても卑怯な仕業と思われるが、倭建命は御歌を歌っている。

 やつめさす 出雲建が 佩ける刀(たち) 黒葛(つづら)多(さは)纒(ま)き さ身無しにあはれ(記23)

 そして、属鏤という固有名の剣は、そもそも呉王夫差が忠臣の伍子胥に、これをもって死ぬようにと与えた剣の名であった。伍子胥は、呉の国によく仕えた。闔閭、夫差の二代の王のもとで働いた。最後はあらぬ疑いをかけられて、自害させられることとなった。その時、「必樹吾墓上以梓、令以為器。而抉吾眼呉東門之上、以観越寇之入滅呉也。」(史記・伍子胥列伝)と言っている。自分の墓の上に梓の木を植え、それで夫差の棺桶が作れるようにしてくれ。自分の目をくりぬいて東の宿敵、越を向く城門の上に置いてくれ。越兵が呉を滅ぼすのを見られるように、と言い残した。墓に納まってまでも呉の国のことに思いを致すほど、激情的に諫言する人物であった。ハカマの話が元へ戻っている。墓まで呉の国に尽くそうとしている。確かに、ツクシにはハカマがあり、それをこまめにとってから湯がかないと、えぐみ(苦味)が残って美味しくない。伍子胥は、越王勾践に勝利した際、「越王為人能辛苦。今王不滅、後必悔之。」と夫差に諫言したが、聞き入れられなかった。越王は、臥薪嘗胆の末に力を蓄え、呉を滅ぼすこととなった。「孔子曰、良薬苦於口、而利於病。忠言逆於耳、而利於行。」(孔子家語・六本)の教えのとおりになっている。中国でもそうなのである。ヤマトコトバでも頓智は日々の生活にまで根づいている。源順は漢籍に精通していたから、この対称からしてもどう転んでも「属鏤」はツルギと読めてしまうのである。
 飛鳥時代に、伍子胥に準えられそうなほど諫言して憚らない大臣がいたらしい。蘇我馬子である。天皇の唱和した歌に次のようにある。

 真蘇我(まそが)よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき(推古紀二十年正月、紀歌謡103)

「諾し」は、事情が尤もであるというときに使う言葉である。「呉の真刀」とは「属鏤」を表している。伍子胥のように誠実に仕えているから、「諾し」と言っている。別に死ねと言っているわけではない。呉王夫差とは違って推古天皇は器が大きく、国は滅びない。推古朝に伍子胥が知られていたかと言えば、逸話として知られていたのではないかと思う。推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子のトロイカ態勢は、政治を安定させていた。なれ合い、もたれ合いで、長期的な政治的安定は可能ではない。

42.叉 六韜云叉〈初牙反文選叉簇讀比之今案簇即鏃字也〉両岐䥫柄長六尺
 叉 六韜に云はく、叉〈初牙反、文選に叉簇を比之(ひし)と読む。今案ずるに、簇は即ち鏃の字也〉は、両岐の鉄にして柄の長さ六尺なりといふ。

 叉蔟はさすまた、または漁具のやすのことである。叉とあってヒシと訓むのは難しい。それを解消してくれるのが、文選の読みである。張衡の西京賦に、「叉蔟之所攙捔」とあり、足利本(『和刻本文選 第二巻』71頁)、九条本(中村1983.70頁)に、ともに文選読みで、ササクノヒシノサシクスヌルトコロと訓むように振られている。築島2015.に、「「クスヌク」は「串(クス)貫(ヌ)く」の意であろう。……古点本類には他に用例を見ない語である。」(627頁)とある。このクスヌクの語義解釈は誤りであろう。叉蔟は二股になっている刺叉のことだから、一本槍とは刺し方が違う点を表す言葉として考案されていると考えられる。西京賦のこの節は、天子の狩猟について書かれている。「竿殳之所揘畢」に続いている。竿殳は竹製のほこ、揘畢は戟などで突き刺す意である。動物を一本槍で突き刺して貫通させ、木にとどめた場合、一箇所では体をよじらせくねらせ七転八倒する。しかし、二股のフォーク状である叉の場合、二箇所でとめられているから胴体を動かすことはできずに手足のみバタバタさせることになる。
矢じり他(武蔵国府関連遺跡出土品、8~10世紀、府中市郷土の森博物館展示品)
 すなわち、クスヌクのクスは、クスネルのクスである。掏摸(すり)が他人の懐へ手を差入れて財布を抜き取る時、人差し指と中指とをもって、紙入れを抜く。じゃんけんのチョキの指二本で仕事をするわけである。「掏(す)る」という語については、猛禽類が幼鳥を捕らえる用例が平安後期にある。古い時代に紙入れはなかったかもしれないが、クスヌクとは、そういった業師のする所作を表現している。日本人は箸を使うから、子どもに箸の使い方を教えるのは、掏摸の手ほどきをしているようなものであるとの陰口も聞かれる。

 掏摸は相当の修練を要するからね。殊に指先きだけの仕事だから、年老いて指先が硬くなつたり、震えがきては仕舞で、盛りは十七八歳位から三十歳位で、彼等は指先きを大切にすると共に、節制して酒など飲まない者さへあるといふ話だ。その証拠に仕立屋銀次の全盛時代に〝何の某〟と相当に名を売つた腕達者の掏摸が、久々で出獄して〝俺も昔とつた杵束〟と掏摸を働いて、すぐ捕へられてゐるのでも判るであらう。だから働き盛りの犯人は、美しく軟かい手をしてゐて、指頭で物を挟んで持つ力が強い。彼等は示指と中指の間、中指と環指の間の指頭に挟んで、重い蟇口を抜き取るのだ。(楠瀬1941.20頁)
 はじめは、大きなどんぶり・・・・に盛った砂の中へ人指ゆびと中ゆびを突きこみ、その砂の中で二本のゆびをしめたり放したり、砂の圧力に負けず自由自在にゆびがうごくまで訓練をさせられる。掏摸の業は、この二本のゆびによっておこなわれる。財布をはさんでぬき取り、これを電光のごとく、わが懐中へ移行させるには、二本のゆびが恐るべきちからをそなえていなければならないのだ。(池波2000.107頁)

 古代から連綿として存在し続ける業師には、なにより忍術使いがいる。重要書類を掏り取ったり、重要情報を覗き聞き取ったりするのが仕事である。取られた方は気づいてから、追いかける。逃げる側の忍びの者は、逃走道具として、蒔菱を道に蒔く。追手は、刺のある菱の硬い実に足の裏をとられ、先へ進むことができない。菱の実は、針が一本ではなく、テトラ形の隅が尖っていて、刺さる時は2点で刺さるようである。画鋲を蒔かれるよりも始末が悪い。これは刺叉と同じ効果があり、身動きが取れなくなる。そして、この和名抄の記述から、鉄製の蒔菱がはやくから作られていたことがわかる。
蒔菱(忍者オフィシャルサイトhttp://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=21)
伸子針の利用(左:張殿、三十二番職人歌合模本、原1494年、1838年模、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E5%BC%B5をトリミング、右:年中行事絵巻京大本巻第十三、京都大学文学研究科図書館所蔵、京都大学貴重資料デジタルアーカイブhttps://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000030(212/221)をトリミング、令和3年1月14日特別利用許可No. 京大文図掲18号)
 文選に「叉蔟」なる語は他に見られないから、源順はこの刺叉と蒔菱の関係を「読」んだに違いない。和名抄に「叉簇」とあって竹冠なのは、簇の字が、撿や箴子、伸子とも書くシンシ(シイシ、シシ)のこと、今では伸子針とふつう呼んでいるもののことをいうからであろう。シンシとは、布を染めたり洗い張りをするとき、布の巾の両端に弓形にさし渡して均一に広げ、皺を伸ばす竹串のことである。割竹を細く丸く削り、両端には真鍮製の針がついていて、布地に挿してぴんと張り渡す。その古い形は竹だけでできたもので、その両端を二股に尖らせたものである。京大本年中行事絵巻の図は、手前の人物があやつる伸子針の先端が二股に分れていることを誇張的に描いていると見受けられる。鎌倉期の字鏡集に、「簇、シヒシ」とあり、また、人倫訓蒙図彙に、「簇削」の項がある。
左:真鍮製、右:二股(「日々あれこれ きものあれこれ」ブログhttps://chiya99.exblog.jp/1638603/)
「簇削」(源三郎絵・人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945297/1(106/162)をトリミング)
 簇師(しいしけづり) 都の詞に、簇(しいし)を、しんしといへり。田舎はづかしき片言(かたこと)なり。張物師(はりものし)これをもちゆ。巻物、絹、品々のわかちあり。大仏近辺所々に住す。此見世に、竹のひき粉、田楽串(でんがくぐし)編竹(さゝら)等これをうるなり。(朝倉1990.191頁)

 「簇(しひし)」とヒシの音が含まれている。口ずさみの洒落にもなっているが、刺叉張りにとめられるから布地は動きが取れないのである。菱の実の尖った部分が、二股の伸子針の先端と形状・効用が同じであると見たのであろう。なるほど納得の「読」みということになる。

54.冠 野王案溪鳥勅鳥頭上有毛冠〈冠讀佐賀文選羽毛射雉賦冠雙立謂之毛角耳〉鳥冠也爾雅注云木兎似鴟而毛冠〈今案此間名同上但獨立謂之毛冠雙立謂之毛角耳〉
 冠 野王案に、溪鳥・勅鳥の頭上に有る毛の冠〈冠は佐賀(さか)と読む。文選の羽毛射雉賦に、冠の雙つ立つは之れを毛の角耳を謂ふ〉は鳥の冠也とす。爾雅注に云はく、木兎は鴟に似て毛の冠ありといふ〈今案ずるに此の間、名は上に同じ。但し、独つ立つは之れを毛冠と謂ひ、雙つ立つは之れを毛の角耳と謂ふ〉。

 「溪鳥」、「勅鳥」については、各一字で、「▲(溪冠の下に鳥)」、「𪃠」かもしれない。文選の射雉賦に、「朱冠の赩赫(きょくかく)たるを摛(の)べ、……雙角(さうかく)特(ひとり)起(た)つ。(摛朱冠之赩赫、……雙角特起。)」とある。ただし、源順は、「今案」ずるところでは、二つ立つのは「角耳」で、一つのが「毛冠」とされるようになってきていると考えている。それはともかく、顧野王の玉篇を見たらしく、鳥の頭の上の毛の冠とされるところを、サカと「読」んでいる。妙なる和訓だと思っている。
雉(グールド『アジアの鳥類』ロンドン刊、1850~83年、東洋文庫ミュージアムデジタルブック展示)
オナガドリ(上野動物園)
 源順は、鳥の「冠」をサカと「読」むことに感心している。これについて筆者は、景行記の「酒折宮(さかをりのみや)」は、蚊帳を吊った宮所で、檻の機能が逆転していることを論じた(注1)。「東国(あづまのくに)」でのお話である。紀では、「東国(あづま)の檝取(かとり)の地(つち)」(神代紀第九段一書第二)とあるのが早い用例である。やはり、東国と蚊取りとは関係があると考えられていたらしい。アヅマに掛かる枕詞に、「鶏が鳴く」がある。万199・382・1800・1807・3194・4094・4131・4331・4333に用例がある。時代別国語大辞典に、「東国(アヅマ)にかかるが、かかり方未詳。鶏が鳴くぞ、起きよ吾夫(アヅマ)、の意とも、鶏が鳴くと東より白みそめるからとも、東国のことばは中央の人には鶏の鳴くように聞えたのであろうともいわれる。」(509頁)とある。この場合、鶏はカケ(ケは甲類)ともいう今日ニワトリと称される類のものである。鳴き声のコケコッコーは、カケカッケーと聞こえたらしい。

 …… さ野つ鳥 雉(きぎし)は響(とよ)む 庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴く ……(記2)
 庭つ鳥 かけの垂れ尾の 乱れ尾の 長き心も 思ほえぬかも(万1413)
 里中に 鳴くなる鶏(かけ)の 呼び立てて いたくは鳴かぬ 隠妻(こもりづま)はも(万2803)

 和名抄に、「獣 爾雅注に云はく、四足にして毛なるを獣〈音は狩、介毛乃(けもの)〉と曰ふといふ。野王案に、六畜〈音は宙、一音に敕、介多毛乃(けだもの)〉は牛馬羊犬鶏豕也とす。説文に云はく、牝〈音は臏、米介毛能(めけもの)〉は畜の母也、牡〈音は母、乎介毛乃(をけもの)〉は畜の父也といふ。」とある。鶏は家畜である。卵を食べた。鶏を飼う場合、鳥籠、すなわち、檻などには入れず、庭に放し飼いである。飛んで逃げて行ったりしない。ふしろ鶏の方が野獣を恐れて家にいつき、夜間などは家の中へ入れて保護する。卵は庭のどこかで産んでいるから探せばよい。小さな「四阿(東屋、亭)(あづまや)」を設けておいて餌場にしたりする。雨でも濡れないためである。アヅマヤにアツマルのだから、「鶏が鳴く」はアヅマに掛かる枕詞であるといえる。
「色絵四阿舟図鉢」(有田古九谷様式、江戸時代、1650年代、径34cm、松岡美術館展示品)
 そんな鶏にはトサカ(鶏冠)がある。肉冠である。重いせいか片方に傾いている。歩くたびに揺れている。コンドルやホロホロチョウにも見られるものであるが、本邦で知られるのはニワトリに限られよう。景行記に「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」が歌を応酬して、「東国造(あづまのくにのみやつこ)」に任じられていた。下級の侍者、サムラヒ(侍)であるから、侍烏帽子を被っていた。角折烏帽子であったろうし、古くはそれを固めない萎烏帽子であったとされる。びらびらの鶏冠によく似たものと捉えられたであろう。すなわち、「御火焼の老人」のような下っ端は、酒折宮で文字通り蚊帳の外の存在であったところを、皮肉いっぱいの歌を返したことで、檻に示唆されるように、立場が逆転することを物語っていた。酒折宮では、外の方がミヤ(御屋)なのであった。その象徴として、高位の人が被るカガフリと、低位の人が被るエボシとの対比、反転があった。よって、鳥にある冠は、カガフリではなく、サカと「読」むことが納得されるわけである。

70.大角豆 同[崔禹食]經曰大角豆一名白角豆〈佐々介〉色如牙角故以名之其一殻含数十粒離々結房〈離々讀布佐奈流見文選〉
 大角豆 同経に曰く、大角豆は一名、白角豆〈佐々介(さゝげ)〉といふ。色は牙角の如し、故に以て之れを名づく。其の一つの殻に数十粒を含む。離々は結房なり〈離々は布佐奈流(ふさなる)と読む。文選に見ゆ〉。

 「離々讀布佐奈流見文選」とある。文選の蜀都賦に、「朱実の離離たるを結ぶ(結朱実離離)」とあって、文選集注には、「毛詩曰、其実離々。毛萇曰、垂皃也」とある。詩経・小雅・湛露に、「其の桐其の椅(い)、其の実は離離たり。(其桐其椅、其実離離)」とある。源順は、「見文選」と、テキストを見て「離々」をフサナルと読んでいる。「離々結房」なる字の連なりそのものについては、文選に由来するものではなさそうである。
 ササゲは、「荳角皇女(ささげのひめみこ)を生む。荳角、此には娑佐礙(ささげ)と云ふ。是伊勢大神の祠に侍り」(継体紀元年三月)とあり、当時から植物として本邦に見られていたことと、神に捧げることと関係する名と考えられていたと推測される。マメ科植物のササゲは、古代に大陸から伝来したもので、ササゲ、ジュウロクササゲ、ヤッコササゲなどの栽培品種がある。そして、種実を乾燥させて食べる場合と、若い莢を湯がいたりして食べる場合がある。豆は小豆同様、赤飯や餡に用いられる。その用いられ方は、民俗として複雑で、容易には理解しえない。葬式に赤飯があったり、仏事には小豆の代りにササゲを用いるなど、地方によって、あるいは、身分によって分れる。炊いた時に身が硬いから割れにくく、切腹をイメージさせないといった理屈づけが行われているようである。そして、今日、急速に栽培されなくなり、岐阜県、岡山県、沖縄県などでわずかに作られたものが全国に流通している。戦時下では、例えば、『戦時農園講義録(第三輯)』というチラシに、「豆類の作り方 第一課 インゲンとササゲの作り方」が特集され、栽培が奨励されていた。
 この際問題なのは、そのマメ科植物を、ササゲと命名している点である。莢が上を向いてついて捧げるようだからとの説が有力視されている。すると、ソラマメが空を向いていることから名づけられたというのが正解ならば、名が逆転する可能性もあったことになる。ソラマメ命名の話は措くとして、筆者は、ササゲの名の由来は、今日感じられているほど単純ではなく、複雑で込み入っているものを感じる。モノに名をつけるという作業は、言葉が口伝て以外に伝わらなかった時代には、今日のコピーライターと違って安易ではなかった。
植物のササゲ(株式会社トーホク様「ササゲ」http://tohokuseed.co.jp/list_seed/vegetable/sasage.html)
袖口のササゲ(歌舞伎衣装振袖 紅縮緬地桜流水模様、江戸時代、19世紀、板東三津江所用、高木キヨウ氏寄贈、東博展示品)
 上の着物のササゲはきわめてデコレートされたものである。元来は、装束の鰭袖(はたそで)の袖口に紐を通して、狩猟、演武、作業などの際、袖が邪魔にならないように括り緒を絞ることに由来する。袖括りである。狩衣、水干、直衣、布衣、直垂などの袖口にうまい具合につけられている。作業時に袖を括ると、紐が二本、ハの字形に垂れる。偉い人が着る袍や十二単にはついていない。作業はしないから、袖が邪魔になるということはない。すなわち、「荳角皇女……是伊勢大神の祠に侍り」の衣装は、袖括りのある白衣(はくえ・びゃくえ)を着、袖を括って神に捧げ物をしていたと思われる。その袖括りの紐の垂れる様子は、まさに「捧げ」ている姿としてふさわしいからササゲと呼ばれ、その形にそっくりのマメ科植物の莢も同時にササゲと呼ぶようになったのではないか。下二段動詞ササグの連用形に由来する語で、ゲは乙類である。和名抄に、「離々結房」とあるのも、括り紐が歌舞伎衣装ほどでなくとも組紐様で、二本が一組でそれぞれ太細太細の連なりに見立てられたようである。それぞれが離れ離れに中に実をおさめている身(莢)になっている。
 しかし、それぐらいのことでは、源順は「読」という語は使わないであろう。源順は、文選に「離々」という語を「見」たといっている。蜀都賦の、「朱実の離離たるを結ぶ」の箇所を見ている。そして、フサナルと読んでいる。「離々」という語については、易経に、「離 ☲☲〈離下離上〉(離為火(りいか))」の項に、「離は、貞(ただ)しきに利(よろ)しくして享(とほ)る。牝牛(ひんぎう)を畜(やしな)へば、吉。(離、亨利貞、畜牝牛、吉。)」とある。牝牛の特徴は、チーズ(蘇)が食べられていたことから考えて、乳牛であれば大きなおっぱいである。乳房は左右に2つずつ、垂れている。よって「房なる」と解したのであろう。そして、釈書に、「離は、麗(つ)くなり」とある。離れているはずが、くっついているというのである。易の考え方は物が極まったら則ち反るというもので、同音のリの字を持ってきて説明しているのである。蘇は貴重品で、神ならびに天皇へ捧げられるものであったのであろう。以上のことから、まったく仰る通りの「読」みであるということができる。
離(TRIGRAM FOR FIRE(Unicode2632))
 続紀の、「霊亀」が献上された時の説明文に、「前の脚に並びに離の卦有り。後ろの脚に並びに一爻有り。(前脚並有離卦。後脚並有一爻。)」(霊亀元年(715)八月)とある。亀の脚の皺を卦の記号に準えるほどであったようである。亀の前脚とは、カメノテ(亀の手)のことを洒落ていると思われる。海辺で目にするカメノテは、古語に、セ(石花)といった。時代別国語大辞典に、「【石花】(名) かめのての類をさすといわれる。かめのては、甲殻類の海産節足動物。体は多数の石灰片に覆われ、頭状部の幅四センチ、長さ三センチに達し、わが国沿岸の満潮線の岩石に塊状をなして群棲する。潮が満ちると石灰片の間から肢を出して活動する。雌雄同体、食用となる。」(396頁)とあり、和名抄に、「尨蹄子 崔禹食経に云はく、尨蹄子〈勢(せ)〉の皃は犬の蹄に似て石に付き生く者也といふ。兼名苑注に云はく、石花〈或は華に作る〉は二三月、皆舒紫の花を石に付けて生く、故、以て之れを名づくといふ。」とある(注3)。時代別国語大辞典には、「【考】棭斎は箋注和名抄で、かめのては石蜐のことであって、「石華」とは、別のものだとしている。文字の上からは、現在のふじつぼの類の方が、「石華」らしいが、未詳。なお、文選江賦、李善注に「善曰、石華附石生、肉中啖」とある。」(同頁)とある。狩谷棭斎のいうところは、動物の形からするとカメノテは亀の手でもって中国にいうところの石蜐に当たり、和名抄にある「石花」・「石華」は文字からするとフジツボ類に当たるというのである(注4)。筆者は、「離々」の解説から、この混同を混同のまま捉えることを提唱したい。カメノテ・フジツボとも、甲殻類の蔓脚類(まんきゃくるい)に分類されている。
カメノテとフジツボ(残)(葛西臨海水族園)
カメノテ・フジツボ類標本(国立科学博物館)
 すなわち、霊亀の亀の手に表れた卦の記号、☲☲は、離々である。左右に手は二つあるから、離れ離れである。それがフサナルようになっている。植物の「藤(ふぢ)」(以下、フヂと表記する。)の花の壺状の房を、言葉として表すなら、それは「ふぢつぼ」(以下、フヂツボと表記する。)といえるであろう。ササゲのようにフサナル様子をしている。一輪花の、例えばボタンやタイサンボクのような花は、マリ(椀・碗)と表現されるのではないか。そのフヂの花(華)の壺状の形で、しかも紫色をしたものに、カメノテ同様に潮だまりのできるような岩肌についた石みたいなフヂツボという似た生きものがいる。ということは、カメノテもフヂツボも、思考回路の上ではぐるぐるっと回って同じ円環上にある。
上村松園「藤娘之図」(大正初期、絹本着色、松岡美術館展示品)
 観念そのものである言葉の上で、同じ言葉にしてしまうことは、とてもエレガントな洒落になって面白味があるということになる。古語、セによって、カメノテもフヂツボも表したのであろう。なにしろ生息地が海のセ(瀬)である。瀬という語が、海に用いられている例に、「潮瀬(斯本勢(しほせ))」(記歌謡108)とある。海の瀬の潮だまりという壺型の淵にくっついているのがフヂツボである。そして、同音の背(せ)とは、背中のことである。諸々の古辞書の「背」の訓にはセナカとあるが、万葉集ではセの音に「背」の字を使い、「軽く母の脊(せ)を超ゆ」(欽明紀七年七月)とある。霊亀の亀の手の模様が、☲☲印であったことは、人の背(脊)中の特徴とよく似通っている。背筋と背骨との形である。背筋は左右に離れ離れに「━」、その間にある背骨はとぎれとぎれの「- -」である。よって、卦の形、☲ができている。そして、「離々」と畳語となっている。仁賢紀の「母にも兄(せ)、吾にも兄」(仁賢紀六年九月)の頓智とは、「秋葱(あきき)の転(いや)双(ふた)〈双は重なり〉納(ごもり)、思惟(おも)ふべし」と解されていた(注5)。秋のネギに、2つの軸が1つになって茎を形成していると譬えていた。つまり、セが「転双納」状態になっているのが、「離々」とフサナルことの根本原因なのである。秋のネギは、根本、植物学的には根と葉の間にわずかに茎があるということであるが、1本である。袖括りで結んで垂れた紐は、ぐるっと回ってもとは1本である。牝牛の乳房は、牝牛の胴体1つから出ている。亀の前脚は、亀の胴体1つから出ている。海辺のカメノテもフヂツボも、石蜐であれ石花(華)であれ、もとは石1つである。以上いろいろ考えた挙句、「離々」をフサナルと「読」むことは、とても深いよみ方であると源順によって感動的に裏付けられたのである。

(注)
(注1)拙稿「「かがなべて」考」参照。
(注2)拙稿「剣大刀(つるぎたち)について」参照。
(注3)「尨蹄子」は、古辞書に、セエ(本草和名)、セイ(名義抄)とする例がある。それについて、日本国語大辞典に、「京都方言では一音節語について、短呼と長呼との関係は特定の環境では動揺していたと考えられ、一字で表記されていても実際には長呼される場合があった可能性がある。」(1124頁)とある。「蚊」も、カア(華厳音義私記・最勝王経音義)と呼んでいたとする例もある。時代別国語大辞典に、「現在の関西方言と同じく、一音節語をながく発音する傾向があったことを示すといわれている。」(170頁)とある。要するに、今日的な表記では、セー、カーと記せばよい音ではないか。上述のセ(尨蹄子=石華&石蜐・背・瀬)の洒落は、いずれにせよ成り立つと考える。一音では聞き取りにくいから、今でもセイクラベ(背比べ)、セエガタカイネ(背が高いね)などという。また、名義抄に、「龜 セナカ」ともある。
(注4)平安時代、飛香舎を藤壺と呼ぶことに関して、いかなる知恵が潜んでいるのか、筆者にはわからない。
(注5)拙稿「仁賢紀「母にも兄、吾にも兄」について」参照。

(引用・参考文献)
朝倉1990. 朝倉治彦校注『人倫訓蒙図彙』平凡社(東洋文庫)、1990年。
池波2000. 池波正太郎「女掏摸(めんびき)お富」『鬼平犯科帳2』文芸春秋(文春文庫)、2000年。
楠瀬1941. 楠瀬正澄『掏摸の行方』人文閣、昭和16年
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第一巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
杉本1999. 杉本つとむ「『和名類聚抄』の一考察」『杉本つとむ著作選集6―辞書・事典の研究Ⅰ―』八坂書房、1999年。
『戦時農園講義録(第三輯)』 東京都経済局農務課監輯『戦時農園講義録(第三輯)』東京都宣伝協力会、昭和十九年五月。
築島2015. 『築島裕著作集第二巻』岩波書店、平成27年。
中村1983. 中村宗彦『九条本文選古訓集』風間書房、1983年。
西宮1990. 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成2年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部『日本国語大辞典 第二版 第七巻』小学館、2001年。
『和刻本文選 第一巻』 長澤規矩也編『和刻本文選 第一巻』汲古書院、昭和49年。
『和刻本文選 第二巻』 長澤規矩也編『和刻本文選 第二巻』汲古書院、昭和50年。

※本稿は、2015年4月稿を2020年8月に整理し、2021年1月に追記したものである。

和名抄の「文選読」について 総論

2015年03月15日 | 和名類聚抄
 和名抄は、承平年間(930年代)に源順によって撰された。その和名抄の引書として、文選は数多く用いられている。そのうち、「文選」、「文選○○」、「文選云」、「文選○○云」以外に、「文選読」、ないし、「文選」に「読」字が絡んでくる例が7例ある。(下文の一覧表の通し番号に従う。)

24.軒檻 漢書注云軒〈唐言反〉檻上板也檻〈音監文選檻讀師説於保之万〉殿上欄也唐韻云欄〈音蘭漢語抄云欄檻〉階陛木勾欄亦〈如本〉
28.玫瑰 唐韻云玫瑰〈枚廻二音今案雲母同見干文選讀翡翠火齊處〉火齊珠也
39.寒 文選云寒鶬烝麑〈師説寒讀古与之毛乃此間云迩古与春〉
41.属鏤 廣雅云属鏤〈力朱反文選讀豆流岐〉劔也
42.叉 六韜云叉〈初牙反文選叉簇讀比之今案簇即鏃字也〉両岐䥫柄長六尺
54.冠 野王案溪鳥勅鳥頭上有毛冠〈冠讀佐賀文選羽毛射雉賦冠雙立謂之毛角耳〉鳥冠也尓雅注云木兎似鴟而毛冠〈今案此間名同上但獨立謂之毛冠雙立謂之毛角耳〉
70.大角豆 同經曰大角豆一名白角豆〈佐々介〉色如牙角故以名之其一殻含数十粒離々結房〈離々讀布佐奈流見文選〉

 上記の和名抄の例と、いわゆる文選読みとは関係があるのであろうか。今日、いわゆる文選読みとは、漢文訓読において独特の読み方をする場合の術語として用いられている。詩経の冒頭、「関々雎鳩」を、クワンクワントヤハラギナケルショキュウノミサゴハなどと読む読み方である。ルー大柴氏の、アクティブに活動的なピープルの人々、といった言い方である。文選読みはまた、「かたちよみ」や「両点に読む」といった言い方がされたこともあり、また、漠然とした名称であった。そこで、柏谷1997.はきちんと「定義」し、「日本漢語[(Chinese Loan Words in Japanese)]の音と訓を、助詞などの媒介で、一続きに読む漢文訓読法」(660~661頁)と概念規定した。簡潔である。築島1963.に、「文選読は、或る程度難解な語(多くは二字の熟語)を、時によつて文選読に訓むことがある、といふことになるやうである。……[平安時代の文選読]のすべての用例から帰納すると、次のやうな範疇が立てられる。
(一)、字音語-ト-和語(属性概念を表はす語)例、浩汗(カウカン)ト(オギロナリ)
(二)、字音語-ノ-和語(実体概念を表はす語)例、犲狼(サイラウ)ノ(オホカミ)
……例で「-ト」「-ノ」は何れも下の語へ懸つて、夫々連用修飾語・連体修飾語となるのである。訓点本に表はれた類は、すべてこの類」(279頁、字体の旧字体は新字体に改めた。以下同じ。)であるとされている。
 この文選読みが何故に行われるようになったかという点については、博士による講義に始まるとする説(伊勢貞丈、山田1935.など)と、僧侶による仏典の訓点に始まるとする説(築島裕)がある。どちらが先かを問うことにあまり意味を見出すことはできない。少し長くなるが、佐藤1987.に明解な説明があるので引用する。

 平安初期における『文選』の文選読みについての直接資料は存しないが、それを裏付けるものとしては、承平四(934)年ごろ成立の源順みなもとのしたごう撰『和名類緊妙』の文選出典語があげられる。現存する『文選』の最古の鈔本は九条家旧蔵の、康和元(1099)年の識語を有する巻十九以下、康永二(1343)年の巻十八にいたる二二巻の取り合わせ本である。一方、最も広く流布する寛文版本[足利本]も比較的古訓をよく保存していると認められる(以下、それぞれ《九》《版》と略記す)
 『和名抄』には和訓を有する文選出典語として五二語(そのほか和訓を欠くもの六語)を載せるがこのうち《九》《版》で文選読みになっている六語を対照させるとつぎの通りである。
  閭閻 師説佐度之加東(巻一・西都賦)《九》《版》ーーノサト
  列卒 師説加利古(同・同)《九》《版》ーーノカリコ
  商賈 師説阿岐比斗(同・西京賦)《九》《版》ーーノアキ人
  裨販 師説比佐岐比止(同・同)《九》《版》ーーノアキ人
  辺鄙 師説阿豆万豆(同・同)《九》ーーノアツマヒト 《版》ーーノアツマウド
  歴歯 師説波和可礼(巻十・好色賦)《九》ーートハワカレセリ 《版》ハワカレタリ
一部異同はあるが訓の大筋は一致する。西京賦を例にとれば、《九》では、
  爾乃商賈 ノアキ人百族、モヽヤカラニシテ裨販 ノヒサキヒト夫婦オトメアリヒサキ良雑苦、蚩 キヲカテテアシキヲアサムキカヽヤカスノ辺鄙アツマヒトヲ
と訓ぜられている。この読法よりすれば「辺鄙」を意訳したアヅマヅのごとき特殊訓が音読と分かれて別に行われていたとは信ぜられず、音訓複読の形で「辺鄙ノアヅマヅ」と訓じていたと解するのが自然である。さらに師説尊重の文選訓の伝統よりすれば、すでに平安初期よりこの読法が成立していた蓋然性が高い。『和名抄』の文選読みはこの「ノ」と「ト」の部分を除いて移記したものであろう。
 さらに十二世紀前半頃成立の、書陵部本『類聚名義抄』(法部残闕一帖・出典を注記する)では文選読みの語三八語が収録され、そのうち『文選』出典語三三語、『遊仙窟』出典語二語、『白氏文集』出典語二語である。これを改定増補した観智院本『類緊名義抄』(出典記載省略、風間書房刊による)では文選読みの〔注2[略]〕全語数一二四語、そのうち『文選』出典と推定される語九三語、『遊仙窟』九語、『白氏文集』一語、未詳・保留二一語を数える(重複を除き、未詳・保留語中には琴ノコト、笙ノフエのごとき日常語を含む)。これにより、文選読みの行われた範囲が知れ、その年代も少なくとも平安期にかなりさかのぼらせることが可能となる。
 以上、文選読みは平安初期、仏家・博士家において漢語の音・訓を同時に教授するという実用目的をもって前後して起こった。仏家では難解な語彙解釈に断片的に適用されるにとどまったが、博士家は大学寮において組織的に行われ、とくにつぎに述べる『文選』や『遊仙窟』の特殊な性格により、この両書に盛行したものと推論する。(277~279頁)

 このいわゆる文選読みが、なぜ文選に多いかについて、さらに引用する。

 それは上代からすでに『文選』が暗誦すべきものという基本的性格を持っていたことを最大の理由にあげたい。『文選』の音読に習熟すべきことはつぎの進士の考課にも規定されている。
  古記云、学生先読経文、謂経音也。次読文選爾雅音、然後講義。(『集解』巻一五・学令注)
  凡進士試時務策二条。帖所読、文選上帙七帖、爾雅三帖。(『令義解』考課令)〔注〕帖とは上に物を置いて隠した字を暗誦させること。
 次の平安期に入っても、『日本国見在書目録』に、『文選音決』『文選音義』など『文選』の音義書が記載され、音読が重視されていたことが知れる。藤原諸成もろなりが文選上帙を暗誦して学中で三傑と号されたり(934)(『文徳実録』斉衡三856年四月)、惟宗隆頼(これむねのたかより)が『文選』三〇巻および四声切韻の暗誦をもって勧学院学生の上座についたり(『古今著聞集』巻四)するような文選暗誦の逸話が語られるのもこのころである。そして同時に音読に訓読をあわせて朗誦する風潮も生じている。……
このように詩文の朗誦は面白い声調とともに、意味が了解されることを必要とする。そして一文を交互に音読したり訓読したりする読法が一歩進むと、一語ごとに音訓を複読する文選読みの読法に発展することになる。語釈の必要上生まれた文選読みにこの朗誦の目的が加わったのが、『文選』の文選読みなのであろう。芝野六助氏はすでに、この読法を用いた書物が『詩経』とか『白氏文集』とか『千字文』とか、ないしは『遊仙窟』とかいう詩的な文句のある書物にかぎられるところから、「一種面白く読ませる為ではあるまいか」と指摘している〔注3〕。この読法が古来暗誦の対象となった上帙-賦の部に集中しているのも文選読みと暗誦がつながることの傍証となる。……
 要するに、もと語釈という実用性から始まった文選読みはその音調と意義の同時受容態のゆえに、音調を重んじ、内容をも味わおうとする朗誦の要求にもこたえることができた。ゆえに当時、暗誦から朗誦への発展途上にあった『文選』にまず本格的に適用され、ついで『遊仙窟』や『白氏文集』(新楽府)の一部に及んでいったものである。
 ……この文選読みは荘重雄渾な音調と簡潔平明な訳を取り合わせた独特の読法で読者をつぎつぎに展開する魅力に満ちた『文選』的世界に踏み入らせる。……難解な語句の多さにもかかわらず、……文選読みによってやすやすと理解され読み進められる。もし全部音読であればほとんど理解不能であるし、訓読に徹すれば原文の朗々たる音調が失われて……賦の魅力は半減する。万物を敷陳し百品を列叙する一篇の韻文の「文明史」ともいうべき『文選』の賦を享受するのに……文選読みはきわめて効果的で、その名の通り『文選』にこそふさわしいすぐれた読法であった。
 〔注〕
 3 芝野六助氏は続いて、文選読みは「文選でも賦に限り、意味の至極面白い高潮に達した処へばかり此の法を用いる」ことを述べている(「文選の訓点とその他について」=『国学院雑誌』25ノ4)(279~283、294頁)

 築島1963.にも、「概して見ると、……[文選読をする]漢語には難解な語句が多い。尤も「難解」と言つても主観的な言ひ方であるが、一般にはあまり用ゐない語と言つた程度の意味である。」(278頁)とする。その点では意見が一致しているが、築島1963.は、「文選読に於ては、字音語に重点があつて、和語は従の位置に在る」とし、「字音は漢語の真横に附いてゐるのに、和語は下の隅の方にせせこましく、しかも字音に続けてその下に書続けてあるのが常である。……このやうに、字音語を大きく和語を小さく記すといふことから当時の加点者の意識が在つては、和語は附けたりで、字音語の方が主であったと推測されるのである。」(280~281頁)とする。これに対し、渡辺2013.は、院政期に加点されたと推定される文選の書陵部本では、字音注がほぼ加点されていない状況から考えて、逆に、字音語への意識の方が弱かったのではないかとする。また、文選を文選読みする際の助詞「ト」について、九条本では右注に「ト」がカナ書きされ、書陵部本、足利本ではヲコト点で表記されているとする。筆者は翻るに、助詞のトを記すとは、助詞などの媒介によって字音と字訓とを続けて読むことを“異常”に意識しているのではないかと考える。
 なお、松本2007.では、「かたちよみ」とも呼ばれた文選読みは、文選集注の注に見られる「「ーー皃也」とした如き注を用いた時に行われた訓読法であると理解される。」(56頁)といった見解が示されている。柏谷1997.では、「「両点よみ」といふ名称も、江戸時代には行はれた。/かたちよみ・・・・・とは両点よみ・・・・の事歟(『一話一言』太田南畝 寛延二(一七四九)年没)/「両点よみ」の「点」は、平安時代の漢文訓読の際に付けたヲコト点に由来するもので、江戸時代の頃は漢籍の読み方を意味する。文選読は、字音よみと訓よみと両方の訓み方をするので、「両点よみ」と名づけられたものである。」(658頁)としている。筆者は、「ーー皃也」から「かたちよみ」という語が生れたという指摘や、「かたちよみ」と「両点よみ」を同一視する見方にためらいを感じる。
 松本2007.は自ら、文選集注の注に「ーー皃也」とない個所にも文選読みが行われる個所があるという。敷衍したものであると考えている。確かに「皃」から「かたち」なる語が導かれた公算は高いものの、「両点」という語と考え合わせたとき、疑問が浮かぶ。伊勢貞丈・舳艪訓の「経伝訓点」に次のようにある。

 経伝ノ訓点ニ道春点ト云テ版行本ニアリ。是林家ノ元祖道春[羅山]ノ付ラレシ訓点也。……訓点モ昔ノ明経博士記伝博士等ノ家ニ伝ヘシ所ヲ受テ道春ニモ授ラレシナルベシ。……詩経文選千字文其外音ト訓ヲ一度ニ並ヘテ両点ニ読ム事モ昔大学寮ニテ諸生ニ教授セシ時ノ読法ナルベシ。是音訓ヲ一度ニ覚エサセンガ為也(国文学研究資料館・新日本籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100065103/viewer/5~6)

 「かたちよみ」と「両点よみ」を同一視していたなら、そういった意識が強かったという結論もないではない。しかし、「両点」という語には、文選読みのほかに、漢語の音読みで2通りにする際にも用いられ(例えば、「番語」をハギョ・バンゴの2通りに読む)、また、早引節用集などで、表出漢字の左右に音と訓をわけて記すこともいう。漢文、漢語の本に書き込まれた点のこととは、ひょっとすると、ルビや返り点などをすべて含めて指しているのではないか。割注の文字は本文の半分の大きさで小さいが、まだ字である。しかし、字の左右につけられたルビなどは、目を近づけて見なければよく見えない。小さすぎるから遠目には「点」といえる。また、本文の漢字文(白文)を顔の骨格とみなすと、その左右や字間に、句点や返り点、ヲコト点、ルビなどをべたべたつけることは、顔に肉付けすることであると捉えられる。そうやってはじめて、文章の顔貌が浮びあがることになる。これは、「かたち」と呼ぶにふさわしい、と考えたのではなかろうか。
 以上から、文選読みについての全体像が見えてきた。最も肝心なことは、平安・鎌倉・室町時代に、いわゆる文選読みは「文選読」とは称されていなかったらしい点である。冒頭に掲げた課題、和名抄のなかの「文選読」ないし、「文選」に「読」字が絡んでくることと、いわゆる文選読みとは無関係であるとわかる。
 和名抄にある、文選やその注ほか、引書についての研究は多い。ただ、引用に際しての源順の文字使いについては、各氏、混乱があるとするとの見解に留まっている。ここでは、和名抄における引書研究のうち、「文選読」、ないし、「文選」に「読」字が絡んでくる場合の、源順の語の用法について検討する。まず、以下に、京本系とされる十巻本和名抄(『倭名類聚抄京本・世俗字類抄二巻本』=京本、『古写本和名類聚抄集成第二部 十巻本系古写本の影印対照』=真福寺本・伊勢十巻本・松井本・前田本、『国立歴史民俗博物館蔵貴重典籍叢書 文学篇第二十二巻』=高松宮本)によって、「文選」、「読(讀)」の出てくる項目について列挙する。パソコン字体に直した校勘もあり、原典を確かめられたい。まず、「文選」字のあるものをあげる。

1.陽烏 歴天記云日中有三足烏赤色〈今案文選謂之陽烏日本紀謂之頭八咫烏也田氏私記云夜太加良湏〉
2.飆  文選詩云廻飆巻高樹〈飆音焱也此間云豆无之加世〉兼名苑注者暴風従下而上也
3.海神 文選海賦云海童於是宴語〈海童則海神也〉日本紀私記云海神〈和名和多豆𫟈〉
4.樹神 内典云樹神〈和名古多万〉文選蕪城賦云木魅山鬼〈魅見下文今案木魅樹神也〉
5.泊湘 唐韻云泊湘〈白相二音文選師説佐々良奈𫟈〉浅水皃也
6.潟 文選海賦云海濱廣潟〈思積反与昔同師説加太〉
7.童〈侲子附〉 礼記注云〈徒紅反和名和良波〉未冠之稱也文選東京賦注云侲子〈侲音之偲反師説和良波閇〉童男童女也
8.獵師〈列卒附〉 内典云譬如群鹿怖畏獵師〈和名加利比止〉文選云列卒滿山〈列卒師説加利古〉
9.挾抄 唐令云挾抄〈和名加知度利〉文選呉都賦云㰏工檝師〈㰏字檝字舟具〉
10.商賈 文選西京賦云商賈〈賈音古師説阿歧比斗〉裨販百族〈師説裨販比佐歧土百族毛々夜加良〉
11.邊鄙 文選云蚩胘邊鄙〈師説辺鄙阿豆万蚩胘阿佐无歧加々夜加湏〉世説注云東野之鄙語也〈今案俗用東人二字其義近矣〉
12.蕩子 文選詩云蕩子行不帰〈漢語抄云蕩子太波礼乎〉
13.母兄 文選注云母兄同母兄也
14.䁾 文選風賦云得為䁾〈亡結反師説多々良女〉
15.齞脣 説文云齞〈牛善反文選云齞脣師説阿以久知〉口張齒見也
16.歴齒 文選好色賦云歴齒〈師説波和賀礼〉
17.射乏〈司旍附〉 文選東京賦注云乏〈今案即乏乏也但射乏夜布世歧〉以革為之護執旍者之禦矢也旍〈此間云末止万宇之〉執旍文司射中當擧之
18.射翳 文選射雉賦注云射翳〈於計反隱也障也師説末布之〉所隱以射者也
19.拍浮 文選注云拍浮〈拍打也俗云於布湏是也〉
20.檐 唐韻云檐〈余廉反字亦作簷能歧〉屋檐也
21.棉梠 文選云鏤檻文㮰〈音琵一音篦師説文㮰賀佐礼留乃歧湏介〉楊氏漢語抄云棉梠〈綿呂二音和上同上〉一云萑梠
22.璫 文選云裁金璧以飾璫〈音當師説古之利又耳璫見服玩具〉劉良曰言以金璧飾椽端也
23.栭 尓雅注云梁上謂之栭〈音而文選師説多々利加太〉欂櫨也説文云欂櫨〈薄盧二音〉柱上枅也
24.軒檻 漢書注云軒〈唐言反〉檻上板也檻〈音監文選檻讀師説於保之万〉殿上欄也唐韻云欄〈音蘭漢語抄云欄檻〉階陛木勾欄亦〈如本〉
25.閭閻 説文云閭閻〈廬塩二音文選師説佐度乃加東〉里中之門也
26.帆柱 文選注云槳〈即兩反保波之良〉帆柱也又云帆檣〈諸墻反〉以長木為之所以柱帆也
27.帆綱 文選注云長梢〈所交反師説保豆奈〉今之帆綱也
28.玫瑰 唐韻云玫瑰〈枚廻二音今案雲母同見干文選讀翡翠火齊處〉火齊珠也
29.烏帽〈帽子附〉 兼名苑云帽一名頭衣〈帽音耄烏帽子俗訛烏為焉今案烏焉或通見文選注玉篇等〉唐式云庶人帽子皆寛大露面不得有掩蔽
30.櫟鬢㕞 文選云勁㕞理鬢〈李善曰通俗文所以理鬢謂之㕞也音雪〉釋名云纛〈音盗〉導也所以導櫟鬢髪也或櫟鬢〈櫟音暦加𫟈加歧〉
31.袷衣 文選秋興賦云御袷衣〈袷音古洽反袷衣阿波世乃歧奴〉李善曰袷衣無絮也
32.布衣袴 文選云振布衣〈此間云獦衣加利歧奴謂衣則袴可知之〉世説云着青布袴也
33.襞襀 周礼注云祭服朝服襞襀無數〈辟積二音訓比多米見文選〉
34.酒蟣 文選注云浮蟣〈師説云佐加歧佐々〉酒蟣在上汎々然如萍者也
35.酒膏 同注云醪敷〈佐加阿布良〉酒膏也
36.糫餅 文選云膏糫粔籹〈糫音還粔粉見下文〉楊氏漢語抄云糫餅〈形如藤葛者也万加利〉
37.粔籹 文選注云粔籹〈巨女二音於古之古女〉以蜜和米煎作也
38.茹 文選傳玄詩云厨人進藿如有酒不盈坏〈茹音人恕反由天毛乃藿音霍葵藿也〉
39.寒 文選云寒鶬烝麑〈師説寒讀古与之毛乃此間云迩古与春〉
40.酒槽 文選酒徳頌注云槽〈音曹佐賀布祢〉今之酒槽也
41.属鏤 廣雅云属鏤〈力朱反文選讀豆流歧〉劔也
42.叉 六韜云叉〈初牙反文選叉簇讀比之今案簇即鏃字也〉両歧䥫柄長六尺
43.韝 文選西京賦云青骹摯於韝下〈韝音溝訓太加太沼歧又見射藝具〉薩琮曰韝臂衣也
44.紲 文選西京賦云韓獹噬於紲末〈紲音思到列反訓歧都奈〉薩琮曰紲摯也
45.罘網〈統閇紭附〉 纂要云獣䋄曰罘〈音浮〉麋䋄曰罠〈武巾反〉兎網曰罝〈子耶反已上訓皆阿𫟈〉文選注紭〈戸萌反訓呼又与網同〉罘之䌉也
46.媒鳥 文選射雉賦注云少養雉子至長狎人能招引野雉者謂之媒〈師説乎度利〉
47.纚 文選注云纚〈所買反師説佐天〉䋄如箕形狹後廣前者也
48.杙〈椓字附〉 文選云椓嶻嶭而為杙〈餘織反訓久比椓音琢訓久比宇都今案俗以杭為杙非也杭音元木名也見唐韻〉
49.粉 文選好色賦云着粉則大白〈粉之路歧毛能〉
50.黒齒 文選注云黒齒國在東海中其土俗以草染齒故曰黒齒〈俗云波久路女今婦人有黒齒具故取之〉
51.黄櫨 文選注櫨〈落胡反波迩之〉今之黄櫨木也
52.羽族部第十五〈文選注云羽族謂鳥也〉
53.鷦鷯 文選鷦鷯賦云鷦鷯〈焦遼二音佐々歧〉小鳥也生於蒿萊之間長於藩籬之下
54.冠 野王案溪鳥勅鳥頭上有毛冠〈冠讀佐賀文選羽毛射雉賦冠雙立謂之毛角耳〉鳥冠也尓雅注云木兎似鴟而毛冠〈今案此間名同上但獨立謂之毛冠雙立謂之毛角耳〉
55.觜〈喙附〉 説文云觜〈音斯久知波之〉鳥喙也喙〈音衛久知佐歧良文選飢鷹礪之曰也〉鳥口也
56.䙰褷 文選海賦云鳥雛䙰褷〈離徒二音師説布久介〉
57.淋滲 同賦云鸖子淋滲〈林深二音師説都々介〉李善曰䙰褷淋滲皆毛羽始生皃也
58.鞦 文選射雉賦云青鞦〈音秋師説乎布佐〉李善曰鞦夾尾之間也
59.膆 文選射雉賦云膆〈音素師説毛乃波𫟈〉鳥受食處也
60.飛翥 唐韻云翥〈音恕字亦作䬡文選射雉賦云軒々波布流俗云波都々〉飛擧也
61.嚇 唐韻云鳴〈音名奈古〉鳥啼也囀〈音轉作閇都流〉鳥吟也文選蕪城賦云寒鴟嚇雛〈嚇音呼挌反師説賀々奈久〉
62.㕞毛 四声字苑云㕞〈所劣反文選云㕞比歧久路比湏漢語抄云阿布良比歧〉鳥理毛也
63.毛群部第十六〈文選注云毛群謂獣〉
64.水豹 文選西京賦搤水豹〈阿左良之〉
65.猱㹶 文選注云猱㹶〈上乃交反下音庭漢語抄云麻多〉猨属也
66.鼱鼩 文選注云鼱鼩〈精劬二音漢語抄云能良祢〉小鼠也
67.水牛 文選上林賦云沈牛〈今案又一名潜牛也見南越志〉即水牛也能沈没於水中者也唐韻云牨〈水牛也音同〉
68.鬣 唐韻云鬐〈音耆今案鬐鬣俗云宇奈加𫟈又魚宇奈加𫟈見魚體知之〉馬頂上長毛也文選云軍馬弭髦而仰秣〈髦音毛訓師説多智賀𫟈〉鬣之稱也
69.鰭 文選注云鰭〈音耆波太俗云比礼〉魚背上鬣也唐韻云鬣〈音獦又見馬體〉鬚鰭也
70.大角豆 同經曰大角豆一名白角豆〈佐々介〉色如牙角故以名之其一殻含数十粒離々結房〈離々讀布佐奈流見文選〉
71.藻 毛詩注云藻〈音早毛云毛波〉水中菜也文選云海苔之彙〈海苔即海藻也〉崔禹食經云沈者曰藻浮者曰蘋〈音頻今案蘋又大萍名也〉
72.鹿角菜 崔禹食經云鹿茸〈都乃万太〉状似水松者也文選江賦云鹿角菜〈楊氏抄云和名同上〉
73.蒟蒻 文選蜀都賦注云蒟蒻〈䀠弱二音古迩夜久〉其根肥白以灰汁煮則凝成以苦酒淹食之蜀人珍焉
74.栗刺〈罅發附〉 神異經云此方有栗徑三尺二寸刺長一尺〈刺伊賀〉文選蜀都賦云榛栗罅發〈上音呼亞反師説恵米利〉李善注曰栗皮坼罅而發也
75.紫萄 本草云紫萄〈衣比加豆良〉文選蜀都賦云蒲萄乱潰〈萄音陶漢語抄云蒲萄衣比加豆良乃𫟈〉

 以上を見たとき、和名抄による文選の引用に、他の引書との相違を特段に見出すことはできない。次に、「文選読」ないし「文選」に「読」字が絡む例を含めて、和名抄における「読(讀)」の字を総覧する。上の列挙同様、伝本により遺漏もあろう点は留意されたい。

76.杣 功程式云甲賀田上杣〈杣讀曽万所出未詳但功程式者修理𥬷師山田福吉等弘仁十四年所撰上也
77.巫覡〈祝附〉 説文云巫〈音無和名加无奈歧〉祝女也文字集略云覡〈下激反〉男祝也〈祝音之育反和名波不利〉祭主讀詞也
78.眇 周易云眇能視蹇能行〈師説眇讀湏加女蹇見下文也〉
79.竸馬[標附] 本朝式云五月五日竸馬[久良閇无麻]立標[標讀師米]
80.八道行成 内典云拍毱擲石投壷牽道八道行成一切戯笑悉不觀印[作八道行成讀夜佐湏賀利]
24.軒檻 漢書注云軒〈唐言反〉檻上板也檻〈音監文選檻讀師説於保之万〉殿上欄也唐韻云欄〈音蘭漢語抄云欄檻〉階陛木勾欄亦〈如本〉
28.玫瑰 唐韻云玫瑰〈枚廻二音今案雲母同見干文選讀翡翠火齊處〉火齊珠也
81.縑 毛詩注云綃〈所交反又音消加止利〉縑也釋名云縑〈音兼〉其絲細緻數兼於絹也漢書云灌嬰販繒〈疾陵反師説上讀同今案又布帛揔名也見説文〉
82.調布 唐式云楊州庸調布[今案本朝式有庸調布讀豆歧乃沼乃又有信濃望陀等名望陀者上総国郡名也其體与他国調布別異故以所出国郡名爲名也]
83.綿絮[屯字附] 唐韻云綿[武連反和太]絮也四声字苑云絮[息盧反]似綿而𫝖悪也唐令云綿六两屯[屯聚也俗一屯讀𠃧止毛遲]
84.襷襅 続文曰諧記云織成襷[本朝式用此字云多湏歧今案所以音義未詳]日本紀私記云手繦[訓上同繦音響]本朝式云襷襅各一條[襅讀知波夜今案未詳]
85.漿 四時食制經云春宜食漿甘水〈漿音即良反豆久利𫟈豆俗云迩於毛比〉食療經云凡食熱膩物勿飲冷酢漿〈師説冷酢讀比伊湏由礼流〉
86.魚條 遊仙窟云東海鰡魚條〈魚條讀湏波夜利本朝式云楚割〉
39.寒 文選云寒鶬烝麑〈師説寒讀古与之毛乃此間云迩古与春〉
87.注連 顔氏家訓云注連章断〈師説注連之梨久倍奈波章断之度太智〉日本紀私記云端出之縄〈讀与注連同也〉
88.簡札 野王案簡〈古限反不𫟈太〉所以冩書記事者也兼名苑云辺牘〈音讀〉一名札〈音察〉簡也
41.属鏤 廣雅云属鏤〈力朱反文選讀豆流歧〉劔也
42.叉 六韜云叉〈初牙反文選叉簇讀比之今案簇即鏃字也〉両歧䥫柄長六尺
89.犬枷 内典云譬如枷犬繫之於柱終日繞柱不能得離〈涅槃經文也枷讀師説久比都奈〉
90.革 説文云革〈古核反都久利加波今案有蘓枋皮黄櫨革紫革褐革緋纈革等名纈讀由波太即是夾纈之纈字也〉獣皮去毛也
91.𦝫鼓 唐令云高麗伎一部横笛𦝫鼓各一〈𦝫鼓俗云三鼓〉本朝令云𦝫鼓師一人〈腰鼓讀久礼豆々𫟈今呉楽所用是〉
92.幔 唐韻云幔〈莫半反俗名如字本朝式班之讀万不良万久〉帷幔也
93.樏〈餉附〉 蒋魴切韻云樏〈力委反楊氏漢語抄云樏子加礼比計今案俗所謂破子是破子讀和利古〉樏子有隔之器也四声字苑云餉〈式亮反字亦作𩜋訓加礼比於久留〉以食送也
94.鷙[鴘字附] 蒋魴切韻云鷙[音四多賀]鷹鷂惣名也日本紀私記云倶知〈両字急讀屈百済俗号鷹曰倶知也〉唐韻云鴘[方免反又府蹇反俗云賀閇流波美]鷹鷂二季色也
95.喚子鳥 万葉集云喚子鳥〈其讀与布古止利〉
96.稲負鳥 同集云稲負鳥〈其讀伊奈於保勢度利〉 
54.冠 野王案溪鳥勅鳥頭上有毛冠〈冠讀佐賀文選羽毛射雉賦冠雙立謂之毛角耳〉鳥冠也尓雅注云木兎似鴟而毛冠〈今案此間名同上但獨立謂之毛冠雙立謂之毛角耳〉
97.牛〈附犢〉 四声字苑云牛〈語丘反宇之〉土畜也尓雅注云犢〈音讀古宇之〉牛子也
98.鯔 遊仙窟云東海鯔條〈鯔讀奈与之音緇條讀見飲食部〉
99.螽蟴 兼名苑云螽蟴[終斯二音]一名蚣蝑[縱黍二音]一名蠜螽[煩終二音]舂黍也[漢語抄云舂黍讀以祢豆歧古万侶]
70.大角豆 同經曰大角豆一名白角豆〈佐々介〉色如牙角故以名之其一殻含数十粒離々結房〈離々讀布佐奈流見文選〉
100.大凝菜 楊氏漢語抄云大凝菜〈古々呂布度〉本朝式云凝海藻〈古流毛波俗用心太讀与大凝菜同〉
101.楠 唐韻云楠〈音南字亦作枏本草久湏乃歧〉木名也櫲樟〈豫章二音日本紀讀同上〉木名生而七年始知矣
102.葉 陸詞曰葉[与渉反波万𦯧集黄葉紅葉讀皆並毛美知波]草木之敷於莖枝者也
103.心 周易云其於木也為堅多心[師説多心讀奈加古可知]

 音のトクとしての「読」の例は、88.「簡札」、97.「犢」の2例がある。また、77.「巫覡」に見える「祭主読詞也」は、祝詞を読みあげる意であろう。それ以外は、訓読みを記す際に用いられている。ただし、そこにはたいへんな特徴がある。和名を表すだけなら、上記したなかにも見られるように、「師説○○云」と前置きしたり、いきなり和訓を記す場合がある。なぜわざわざ「読」と断る必要があるのか。非常に違和感を覚える。
 そこで、「読」という語について考える。白川1995.の「よむ〔数(數)・詠・読(讀)〕」の項に次のようにある。

 数を数えることを原義とする。こよみは「日數かよ」の意。数えるようにして、神に祈り唱え申すことをむという。数えるにしても唱えるにしても、いずれも声を出していうことであった。「呼ぶ」とも関係のある語である。のち、しるされた文を読む意となる。……どくはもと讀に作り、𧶠しよく声。説文〔三上〕に「書を誦するなり」という。王国維おうこくいの〔史籀篇疏証しちゅうへんそしょう〕に「大史籀書」を「大史、書をむ」の意であるとする。ちゆうと読とは声義が近く、籀とは卜兆の占繇せんようの辞などをよむことをいう。〔穀梁伝こくりようでん九年〕に「書を讀みてせいの上に加ふ」とある書は、祝詞のことである。古い時代には、ものを数えるのは概ね神事に関することであり、書を読むことも、もと神事の儀礼として行なわれた。歌を詠むことが魂振たまふりのためのものであることは、〔万葉〕のいわゆる叙景歌がみな地霊を讃頌する呪歌であり、贈答歌がもと魂振りから発しているという事実によって、確かめられるのである。(794~795頁)

「巫覡」の例の示すところである。古典基礎語辞典の「よ・む【読む・詠む】」の項には、解説として次のようにある。

 一つずつ順次数えあげていくのが原義。古くは、一定の時間的間隔をもって起こる事象に多く用いた。一つ一つ漏らさずに確認・認知する意。「歌を詠む」は五音七音の形式に従って順々に声を出して一首にまとめる動作、「書を読む」は書かれている文字を順序に従って一字一字たどる動作をいう。その結果として内容や意味を理解する意にも展開した。(1304頁、この項、筒井ゆみ子)

「語釈」の④に、「書かれた文字を一字一字、発声する。一字一字唱える。経文や修法を唱誦する。音読する。あるいは記憶を暗唱する。」(1304頁)とある。中七において、字余り・字足らずの歌は、よんでいないに等しいということであろう。実にわかりやすい。
 時代別国語大辞典の「よむ【数・読】」の項でも、「①数を数える。月日を繰る。」、「②歌や経文などを声をあげて唱える。」(802頁)の2義を挙げている。記紀に「読」の用例をみると、固有名詞に用いられる「月読尊」(神代紀)・「月読命」(記上)の「読」は、月齢を読むこと、すなわち、日を数えるの意であろう。「読み度(わた)らむ」(記上)もワニを一匹、二匹、三匹と数えるものである。書かれている文字を声を出して唱えることとしては、仏教経典を読む例としては、「大乗経典」(「転読(よむ)」)・「大雲経等」・「経」(皇極紀)、「一切経」・「安宅・土側等経」(孝徳紀)、「一切経」・「金光明経」・「観世音経」(天武紀)、「金光明経」・「経」(持統紀)、祝詞を読む例としては、「天神壽詞」(持統紀)、また、儒教関連ではないかとされるものを読む例としては、「経典(ふみ)」(応神紀)がある。外交使節の文書としては、「[高麗王の]表(ふみ)」(応神紀)、「表䟽(ふみ)」(「読み解く」・「読む」・「読み釈(と)く」)(敏達紀)、「三韓表文」(「読み唱(あ)ぐ」)(皇極紀)などがある。天皇に通訳して奏上しているのであろう。(その際の「読み」方がどのようなものであったかは、本稿と深いかかわりがあるに違いないが、録音テープは残っていないので、考察の対象から外さざるを得ない。)
 「読歌(よみうた)」(允恭記)は記88・89歌謡のことをいう。

 如此(かく)歌ひて、即ち共に自ら死にき。故、此の二つの歌は、読歌ぞ。(允恭記)

西郷2006.に、「あやなして歌うのではなく、読み上げるように誦した歌だろうという(『記伝』)。歌詞はまったく違うが、『琴歌譜』にも余美ヨミ歌を載せる。ただそれは、正月元日に奏される寿歌である。」(218~219頁)とある。「伊余湯(いよのゆ)」に流された「軽太子(かるのおほみこ)」が、後を追ってきた「軽大郎女(かるのおほいらつめ)(衣通王(そとほりのみこ))」を「待ち懐きて」歌っている。その歌詞は2首とも、「隠(こも)り処(く)の 泊瀬(はつせ)の……」で始まっている。愛媛の道後温泉と奈良の長谷寺は遠い。場所が合わないのに歌っている。木簡などに文字を書きつけていたものを朗読しているわけではなく、記憶を辿りながら暗唱している。軽太子は、軽大郎女に、かつて歌ったことのある恋歌を、思い出しながら歌っているのであろう。したがって、とぎれとぎれにつぶつぶと歌うことになる。逆に耳元で高らかに歌い上げられたら、女性は引いてしまうのではないか。そこで、「読歌」なる呼び方が当を得ていることになる。実際に抱擁していて、しかも、これから死を迎えようとするときに、大声を張り上げて歌い上げるのは、心中の例ではないが、ヴェルディの椿姫かプッチーニのラ・ボエームのアリアぐらいである。
 それ以外に、記紀には2例残る。各地に屯倉が置かれた記録と、歴史書教科書の検定についての記事である。

 ……肝等屯倉(かとのみやけ)音(こゑ)を取りて読め。……我鹿屯倉我鹿、此には阿柯(あか)と云ふ。……紀国の経湍屯倉(ふせのみやけ)経湍此には俯世(ふせ)と云ふ。……丹波国の蘇斯岐屯倉(そしきのみやけ)、皆音を取れ。……(安閑紀二年五月)
 帝王本紀(すめらみことのふみ)、多(さは)に古き字(みな)ども有りて、撰び集(さだ)むる人、屢(しばしば)遷り易はることを経たり。後の人習ひ読むとき、意(こころ)を以て刊(けず)り改む。伝へ写すこと既に多にして、遂に舛雑(たがひまよふこと)を致す。前後(さきのち)次(ついで)を失ひて、兄弟(あにおと)参差(かたたがひ)なり。今則ち古今(いにしへいま)を考へ覈(あなぐ)りて、其の真正(まこと)に帰す。一往(ひとたび)識(し)り難きをば、且(しばら)く一つに依りて撰びて、其の異(け)なることを註詳(しる)す。他(あたし)も皆此に效(なずら)へ。(欽明紀二年三月)

 安閑紀にある「取音読」と「皆取音」との違いは未詳とされ、一音ずつであることを断るために記されたものかと推測されている。「肝等」はカニトではなく、カトであると定めるためとのことである。私見では、と同時に、「日」の数え方、ココノカ、トオカなどのカに、乙類のトが数の十(と、トは乙類)を意味し、数を数えていることの総称を表すと洒落を言っているものかとも思われる。欽明紀の例の、「後人習読」は、いわゆる養老講書にはじまる計7回の日本書紀の講書が行われたように、そうやって伝えていくことが念頭にある。そのうえで、時代を経て講義する際にその時その時の先生の解釈が変わったり、生徒の講義ノートが捉え方によって細かく違ってみたりすることがあることに対して、どうしておいたらいいかと留意したとき、校本を作っておくのが良いだろうからそうしておくようにとの仰せのことと考えられる。「読」とは、声に出して唱えることを指している。
 同様に、令集解に次のようにある。

 釈云、読文。謂白読也。唐令読文与此異也。唐令无音博士。或云、凡読文者皆同〈在釈音。〉古記云、学生先読経文。謂経音也。次読文選・爾雅音。然後講義。其文選・爾雅音、亦任意耳。穴云、読文謂読訓亦帖耳。考課令進士條、帖所読、文選上秩七帖・爾雅三帖、謂読音帖也。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949629/256)

 この文は、養老令・学令に、「凡学生、先経文。通熟、然後講義、」とある箇所にある。「読」は仏典を読経するように、儒典を読みあげることを表している。令には、学ぶべき儒教の経典として、周易、尚書、周礼、儀礼、礼記、毛詩、春秋左氏伝・孝経、論語が挙げられている。文選は記載がない。儒教の経典ではないからである。集解でも「経」と「文選・爾雅」は分けて書いてある。延喜式には、講義日数として、「三史[史記・漢書・後漢書]・文選、各准大経。」とあるものの、紅葉山文庫本令集解学令紙背書入に見られる弘仁式逸文には、「三史・文選、各准中経」となっている。史書と併せて扱われている。扱いに困る儒教にとっての外典(?)である。
 文選の賦の部分に、いわゆる文選読みが猛烈に行われているのは、文選の賦が文学作品として読まれる範囲にとどまらず、一種の漢和辞典として機能していたことを意味したのではないか。集解にある爾雅は、儒教の経典を解読するためにある単語帳みたいなものである。文選を文選読みするとき、文芸作品としての文選の深みを味わえると言えばその通りであろうが、それはまた、漢語と和訓とを羅列していて、丸暗記すれば効率的に漢語の理解が進む便利なアンチョコである。集解にある「其文選・爾雅音、亦任意耳。」とは、それを公認した一文であるように見受けられる。
 いずれにせよ、「読」とは、基本的に、数を数え上げるように声に出して経文を唱えるような場合に使われる語であるとわかる。ただし、集解に、「唐令読文与此異也。唐令无音博士。」とある点に注意すべきであろう。中国人が中国語のテキストを中国音で読むことと、倭人が中国語のテキストを中国音で読むことは異質であって、音博士の助けを得なければならない。そして、「然後講義、」じたとき、ヤマトコトバでの講釈が行われる。外国語だからである。その講義は、先生が声をあげて説明することになる。すなわち、「読」むことに近づいてしまう。ここに、混乱が生ずる。和名抄では、「読」と「云」、また、本稿では取り扱わないが「謂」とを使い分けることで、混乱を回避しているように思われる。
 そこで、「文選云」と「文選読」の違いについて明らかにする。
 「文選云」の例をみると、21.「棉梠」の前半に次のようにあった。

 棉梠 文選云鏤檻文㮰〈音琵一音篦師説文㮰賀佐礼留乃歧湏介〉

「棉梠」は、文選では「鏤檻文㮰」と云っているもののことで、㮰の字の音は琵、あるいは篦で、師説に、文㮰はカザレルノキスケと和訓されたものである、という意味になる。ここにある「文選云」は、文選は○○と云っている、と解説される。「棉梠」=「鏤檻文㮰」(文選)ということを、源順は書いている。
 「師説」については、藏中2013.に、次のように整理されている。

 『和名抄』の引用書目、特に「師説」注記の付された書目は、律令の範疇に収まるものを多く含んでいる。『周易』『礼記』は「大学寮式」にいう「応講説書籍」であり、「学令」「医疾令」には官人・学生・医生・針生等の必修の書目が規定される。また、『文選』『爾雅』は「選叙令」に「進士取明閑時務、并読『文選』『爾雅』」とみえ、さらに、『日本紀』『日本紀私記』には日本紀講書の場が存在し、『漢書』『史記』も広く読まれた[小島1962.による]。『和名抄』の背後には律令があり、大学寮をはじめとする講筵の場、学問教育の場が存在した。平安期の漢籍・古辞書にみえる「師説」三三三条を収集された小林芳規[小林2001.第二章による]氏は、これらが字句校異・字音・訓読・釈義考証の多方面にわたる当時の学問の具体相を示しており、「師説」とは、大学寮における教官の講説・講義録を主とした教官の説のごときものであるとして、その成立を平安初期とされた。(126頁)

 つまり、「師説文㮰賀佐礼留乃歧湏介」とあるのは、先生が「文㮰」を、カザレルノキスケと和訓するものだ、と仰っていたか、講義録にそう書いてあったかするものである。源順は、自分の意見を差し挟んでいない。和名抄は、各氏によって類書的性格が強いと考えられており、「今案」といったささやかで穏やかな注記が散見されるものの、自らの独自な解説を披歴する新解さん的な辞書ではないようである。
 他方、「文選読」の場合は、24.「軒檻」の中盤に、割書される形にて次のようにある。

 檻〈音監文選檻讀師説於保之万〉

「檻」の音は監で、文選では檻を読むときに、師説によるとオホシマと和訓が付けられている、という意味になる。先生が文選を講じているときに、「檻」の字のところをオホシマと読んでいた、と記している。
 ここで「読」と断っていることと、「文選云」の例では何が違うのであろうか。いわゆる「文選読」とは、漢字音とその和訓を、ト・ノという助詞を挟んで読む、漢文のアンチョコ読みのことであった。佐藤1987.のまとめによる名義抄には、38例、ないし、124例とあるように、和名抄に「読」と断りを入れるほどに数少ないものではない。和名抄の「読」には、特別な理(ことわり)があると考えられる。それは、ヨムという語に、数を数えること、声をあげて唱えること、といった表面上の語意にとどまらない、ずっと深い意味合いを含んでいるからのように感じられる。すなわち、白川1995.に、「神に祈り唱え申すこと」という原義から展開された語義として、さらに捉え直されるべきことである。
 上述のとおり、文選の賦の扱いが、漢和辞典的であったなら、大学寮の先生が読みあげるのを聞いていて、なかに、おやっ? というほどの意訳が行われた箇所があったのであろう。カザレルノキスケなど、和訓が長すぎるという個所ではない。それらは単なる説明に過ぎない。そうではなく、檻をオバシマとはよまずにオホシマと和訓するようなところである。文選は経典として読みあげられている。お経とはお呪いの言葉である。しかし、文選はお呪いの言葉ではない。「読」というには本来当たらないはずなのに、頓智の利いたよみ方によって和訓され、呪文が解けたといった感触が味わえてしまう。まさに「読」に当たる個所なのである。なるほどと了解されてしまう訓であるということである。源順自身には思いつかない妙なる和訓であったということであろう。すなわち、筆者が記紀万葉を読む際に通底しているテーマ、なぞなぞが解けて腑に落ちたというのが、和名抄における「読」である。
 そこで、次に、冒頭に掲げた「文選」と「読」とが絡む7例について実際に見ていく。

(引用・参考文献)
柏谷1997. 柏谷嘉弘『続日本漢語の系譜』東宛社、平成9年。
藏中2013. 藏中しのぶ「『顔氏家訓』と『和名類聚抄』」『立命館文學』第630号、2013年3月。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/630.htm
『国立歴史民俗博物館蔵貴重典籍叢書 文学篇第二十二巻』 国立歴史民俗博物館館蔵史料編集会編『国立歴史民俗博物館蔵貴重典籍叢書 文学篇第二十二巻 辞書』臨川書店、1999年。
小島1962. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 上』塙書房、1962年。
『古写本和名類聚抄集成第二部 十巻本系古写本の影印対照』 馬渕和夫編著『古写本和名類聚抄集成第二部 十巻本系古写本の影印対照』勉誠出版、平成20年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
小林2001. 小林芳規『平安鎌倉時代における漢籍訓読の国語学的研究』東京大学出版会、2001年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第七巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
佐藤1987. 佐藤喜代治「文選読み」同編『漢字と日本語』明治書院、昭和62年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
築島1963. 築島裕『平安時代の漢文訓読語につきての研究』東京大学出版会、昭和38年。
松本2007. 松本光隆『平安鎌倉時代漢文訓読語史料論』汲古書院、2007年。
山田1935. 山田孝雄『漢文訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、昭和10年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273
渡辺2013. 渡辺さゆり「訓点資料としての『文選』における文選読みの表記形式について」『比較文化論叢28』札幌大学文化学部、2013年。
『倭名類聚抄京本・世俗字類抄二巻本』 東京大学国語研究室編『倭名類聚抄京本・世俗字類抄二巻本』汲古書院、昭和60年。
(つづく)

※本稿は、2015年3月稿を2021年10月に整理するとともに、十巻本和名抄の「読」字の例の遺漏を追加したものである。