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漢の武帝が男鹿を訪れ、五匹の鬼を毎日のように働かせていたが、正月十五日だけは鬼たちが解き放たれて里を荒らしまわったという伝説があり、これを起源だとする説もある。(2)

2024-04-09 03:20:38 | 森羅万象

 

 

『宇宙連合の飛来』 

喜多要光  大陸書房  昭和50年/1975

 

 

 

聖書の”御使い”は宇宙人

・イエス・キリストが誕生した時は宇宙人のブレインがキリストを補佐し援助し、その誕生を演出するためにも、巨大な宇宙船にてキリスト誕生の知らせをしている。「ベツレヘムの星」が、それである。 

 

・「太陽系には、12個の遊星があるがごとく、わが太陽系の周りにも12組の太陽系がある」このように宇宙人は言う。宇宙連合に加入して地球を救助するためにやって来ているのは、わが太陽系の12この星々のみではなく、いろいろの太陽系からやってきているのだ。たとえば、サガファリス太陽系、トレソトン太陽系、第22太陽系、サファニアン太陽系などである。コノサファニアン太陽系の人々を筆頭にして各々の太陽系の人達は多数の円盤と人員を投入しているのである。「サファニアン太陽系から200機、トレソトン太陽系から500機の円盤編隊が来ています。第二の月”フォウサー”の近くには1万4000機もいます」

こうして、宇宙の同胞は、この地球が一日も早く宇宙連合の仲間入りをするように働きかけてくださっているのである。

 

<地球文明と宇宙人

シリウス星人の地球入学

地球独特の生物の進化がすすんでいる頃、神の子と呼ばれる霊魂の大群が地球に移住して来て、ある形の肉体に宿った物が人類である。人間が他の哺乳動物と根本的に違うのは、そのためである。類人達の一種が大気圏外からやって来た霊に利用されて、人間の原形となったことは、間違いない。

 

・人間はシリウス太陽系から集中された念波により、修養のため、苦しむ囚人として地球に送られて来た。人間の精神は神によって創られた聖なるものであるけれども、その肉体の重さという物理的な制約をうける。

 

・神の子達は、類人猿を妻としたのだ。そして、その子孫が洪水前の人類、すなわち先史原始人である。だからこそ、その肉体的な特徴は類人猿的、精神的な特徴はシリウス太陽系内の遊星から来た移住人達と同様なものとなったのだ。

 

そして、シリウス星人は、思念を通じて物を創造する力を持っていたので、肉体を自分たちの思う通りに少しずつ変化させていき、長い年月の間に獣的な面が多くなって数々の怪物を作りだした。

 

ギリシア神話に出てくる蛇の髪を持つゴルゴン、半獣(ライオン)半鳥(ワシ)のグリフィン、半人半鳥のケンタウルス、蝶の羽根を持つ人間といってもほとんど獣と異なるところがなくなってしまった。この忌まわしいものを一掃するため、地球上に大変災を送る計画がたてられ、ついに大洪水が彼らに襲いかかり、純粋な肉体を持つものだけが、残されたのであった。

 

 

 

『鹿と日本人』   野生との共生1000年の知恵

田中淳夫  築地書館   2018/7/2

 

 

 

<シカが獣害の主役になるまで>

シカの増え方は“シカ算”

・これまでナラシカの現在と歴史的な経緯を記してきたが、あらためて振り返ると、ナラシカは宗教的な理由で保護される一方で、常に人との間に揉め事を引き起こしていた。その大きな理由はシカの食害であることは言うまでもない。ナラシカを保護すればするほど数が増え、その一部が農地を荒らす。

 

・1頭のメスが2年目から毎年子を産むというのは何を意味するか。20年生きる場合、単純計算では18頭の子どもを産むことになる。産んだ子どものうち半分がメスと仮定すると9頭が2年目から子どもを産む。親シカ、祖母シカも生み続ける。シカは、自分の子、孫、曾孫、玄孫………が同世代の子どもを産むのである。1頭の寿命が尽きるまでに子孫は何頭になるか計算していただきたい。いわば複利計算だ。もちろんすべてのシカが2歳から毎年出産するわけではないが、繁殖力は決して小さくない。

 実際の観察では、年間増加率は15~20%に達し、4~5年で個体数が倍増する計算になる。いわば「シカ算」が存在する。

 

<シカは飼育しやすい性格?>

食性は、植物なら何でも食べる。草も樹木も食べる。草も丈の高いものから地面にへばりついたシバまであまり選ばない。ササであろうと平気だ。餌の確保にそれほど苦労はしないだろう。牧草を育てるという手もあるし、干し草や草のペレットも可能となると、飼育時にはあまり困らないはずだ。もっとも「何でも食べる」食欲が獣害となるわけだが………。

 

現在、日本には1ヵ所だけ長崎に1000頭規模でシカを飼育し、鹿茸と肉と皮革を商品化するシカ牧場があるが、例外的な経営の成功例と言えるだろう。

 

・まず有用と言っても役割として小さかったのかもしれない。農耕に使うならウシのほうが力が強く、人が乗ったり荷物を運ばせたりするならウマ」だ。肉はあまり求めなかったし、シカから取れる肉の量は少ない。皮革も牛皮が一般的で、鹿革の需要は狩りで獲る分で十分需要に対応できた。毛が短いので防寒用には向かないだろう。またニホンジカは外国産のシカに比べると小さめで皮革も小さくなる。

 

昔から大変だった獣害

獣害の主役は、少し前までイノシシだったのだが、近年はシカに交代したようだ。推定生息数もシカのほうが多くなった(シカの生息数はイノシシの約3倍以上とされる)。

 農林業被害額は膨れ上がっており、ピークは2010年の239憶円である。肝心の農林作物を荒らす動物は、イノシシやサル、カラスなどの鳥類もいるものの、もっとも多いのがシカで、ざっと全体の3分の1を占める。

 もっとも実態はそんなものではない、という声も強い。そもそも被害額の算定は、それを農協や自治体などに届け出ないと顕在化しない。それにシカは、農家の作物だけでなく家庭菜園や個人宅の庭木や花壇の草木も食べる。それらの多くは泣き寝入りになるだろう。また植えた苗を食べられたり樹皮を剥がれたりする林業被害もすぐに気づけず表に出づらい。本当の被害額は約5倍、1000億円を超すのではないかという声もある。なお天然林の植生に与えるインパクトも被害額として計算しづらいが、結構深刻である。

 

・広く農村集落に野生動物が出没して被害を出すようになったのは30~40年前からである。

 しかし時代をさらにさかのぼり、江戸時代の様子をうかがうと今以上に獣害が苛烈をきわめていた事実が浮かび上がる。

 

・武井弘一琉球大学准教授の『鉄砲を手放さなかった百姓たち』(朝日選書)によると、江戸時代は武士より農民のほうが多くの鉄砲を持っていたそうだが、その理由は獣害対策であった多くの古文書から実例を挙げているが、田畑の6割を荒らされたとか、年貢の支払いができなくなったから大幅に減免してもらった記録もあるという。だから、藩や代官に鉄砲の使用を願い出て駆除に当たっていたのである。

 

考えてみれば中世から江戸時代でも、ナラシカの食害は大問題だった。奈良近郊の農家はナラシカが田畑を荒らすことに苦しんでいたが、駆除ができなかったからである。追い払っても、その過程でナラシカを傷つけたら人のほうが罰せられた時代もあった。奈良も、古くから獣害被害に苦しんできたのである。

 だから明治になって、四条県令がナラシカを駆除対象にした際に喜んだ農民も少なくなかった。

 

・シカの分布の変遷を調べると、縄文時代には東北でも多くのシカがいたようだ。貝塚からシカの骨が大量に発見されている。ところが江戸時代の後期に入ると、急に減り始める。その背景に、大規模なシカ狩りを実施した記録が各地ある。1722年に男鹿半島で秋田藩上げての狩りを実施して2万7100頭のシカを獲ったとされる。これも獣害対策の一環だろう。その後も狩りは続き、シカは男鹿半島では絶滅したらしい(近年、再び出没している)。同じくイノシシも獣害対策として東北各地で大規模な駆除を実施した記録がある。

 さらに資料を探っていると、トキを害鳥として鉄砲で追い払った記録も出てきた。

 

原因として考えられるのは、やはり明治以降は幕府の禁制が解かれ、高性能の銃が導入されて駆除が進んだことがある。食肉としてもシカやイノシシが狙われた。江戸時代も肉食はこっそりと行われていたが、明治に入って公に奨励されるほどになっていた。そのほか骨や角なども野生鳥獣は資源として追われるようになったのである。

 加えて野生動物そのものが毛皮の供給源として乱獲された。毛皮は欧米への輸出品として大きな割合を占めていたうえ、戦時下では軍用物資だった。大陸へ日本軍が侵攻すると、防寒用軍服などにも毛皮は求められたからだ。1880年代には軍用の毛皮を調達する制度がつくられ毛皮市場も形成された。じつは、猟友会が結成されたのもこの時期である。国の主導で狩猟者の組織化が進められたのだった。

 

・毛皮の対象となったのは、ツキノワグマにヒグマ、オコジョ、カワウソ、カモシカ、シカ、クマ、キツネ、タヌキ、ウサギ………などである。よい毛皮の取れる動物は、軒並み狙われるようになる。さらにラッコやアザラシなど海の動物も対象になった。

 

戦後は、焼け野原になった町の復興のため、そして経済復興のために木材が求められ、伐採が加速した。そこに木材として有用なスギやヒノキを植える拡大造林政策も取られた。

 こんな状態では、野生動物も安穏と暮らすどころか生存の危機に陥っただろう。自然が荒れたから獣害も減るという皮肉な関係にある。

 

<国がシカを保護した時代>

・獣害が出ない時代とは、野生動物が激減した時代でもある。実際、シカの生息数も少ななかった。シカの生息数の長期データが見つからなかったので正確には言えないが、どうも1960-70年代がもっとも少なかったと思われる。

 

・シカも生息数が減少した時期は保護対象だった。その過程を追ってみよう。

 明治以降、北海道では1877年にエゾシカ猟の一部規制、さらに全面禁猟(90年)措置が取られた。当時エゾシカの肉を缶詰にして輸出する産業が発展していたのだが、そのためエゾシカの絶滅が心配されたのである。

 

・だから戦後の狩猟行政は変遷があるように見えて、じつは一貫してシカを保護してきたと言って過言ではない。保護策を見直したのは、21世紀に入ってからなのだ。

 

・ただシカは、ネズミのように1年に幾度も、多数の子を出産するわけではない。いきなり増加するのではなく、何年も前から人間が「近頃増えてきたな」と感じる徴候はあったはずだ。そして増える要因もそれ以前から存在していたと思われる。それらに気づいて早く手を打っていたら、事態の深刻化は防げたのではないか、と感じる。

 

<間違いだらけの獣害対策>

<シカが増えた3つの仮説>

・一般によく言われる要因は3つある。

まず①地球温暖化。次に②狩猟者の減少。そして③ニホンオオカミという天敵の絶滅。

 

・②「狩猟者の減少」だが、これを論じる前に確認しておかねばならないのは、本当に狩猟者は減ったのかどうかである。

 動物の狩猟には、まず資格がいる。そこで狩猟免許(銃猟とワナ猟に分かれる)の所持者数を見ると、1975年には51万8000人もいた。それが90年には29万人となり、2014年には19万4000人と急減している。

 

しかも有害駆除数の推移を見ると意外な点が浮かんでくる。1990年と2014年の駆除数を示すと、シカは4万2000頭から58万8000頭、イノシシが7万200頭から52万600頭へと急増している。両年の間に10万人以上も狩猟者が減ったにもかかわらず、駆除数は数倍から10倍以上になっている。狩猟者数と有害駆除数は必ずしも相関しない………というより、逆転しているのだ。

 では、なぜ狩猟者が減っているのに、駆除数は増えたのだろうか。

 その裏には報奨金の値上げがある。有害駆除を行うと支払われる報奨金額は自治体によって違うが、以前は1頭当たりせいぜい5000円だった。それが地域によって2万~3万円まで上がっている。これまでボランティアに近かった駆除も、頑張りがいが出たのだろう。ハンターの高齢化は進んでいるが、まだまだ猟は行なっているのだ。

 

野生動物が増えた最大の理由

・最初に掲げた3つの要因を考察すると、ことごとく否定的な見解が出るわけだが、じつはあまり指摘されてこなかった、しかし最重要なシカの増加要因がある。シカだけでなく、野生動物全般が増えた理由だ。それは………餌が増えたことだ。

 

・加えて里山は主に落葉広葉樹林に覆われているが、シカが好んで食べる草木はそれこそ山とある。照葉樹林化している里山も少なくないが、照葉樹の葉も食べられるし、ドングリを実らせる樹種も多くシカに餌を提供する。

 全体として山には野生動物の餌が豊富といえるのではないか。

 

・山に豊富な餌があり、里にも農業廃棄物がたっぷりある。人が少なくなり農地に侵入しても追い払われない。だから野生動物は、奥山と里山を行き来している可能性が高い。これこそシカを含む野生動物増加の最大要因ではないだろうか。

 環境省によると2013年のシカの推定数は約305万頭、イノシシが約98万頭(いずれも推定中央値)。イノシシは近年横ばいだが、シカはこのままだと23年には453万頭に増えると推定されている。

 

<有害駆除には向かない猟友会>

・猟友会はあくまで狩猟愛好者の会であり、有害駆除の主戦力には向いていない。有害駆除のプロ集団をつくるべきだとする声も強いが、利害関係が交錯してなかなか進まないのが実情だ。

 

獣害対策は「防護」と「予防」にあり

・じつは駆除より先に考えるべきは「防護」だ。具体的には被害を被るものに防護柵を張ることになる。これは農作物や樹木を単体でガードするものと、農地や林地を囲むもの、そして集落など地域全体に野生動物が入れないように囲むもの、そして集落など地域全体に野生動物が入れないように囲む防護柵の3つの段階がある。これらしっかり設置しておけば、確実に内側の農作物は守れるはずである。

 しかし、いずれも設置の仕方を誤ると効果が出ない。たとえば防護柵の場合は地際をしっかり押さえておかないと、シカやイノシシは簡単に持ち上げてくぐってしまう。

 

ジビエ(野生鳥獣肉)が獣害対策にならない理由

・ジビエの最前線を追うと、シカ肉が人気を呼べば獣害の元であるシカの駆除も進む、というほど単純ではないことが浮かび上がる。ジビエの普及は有害駆除とまったく別の次元であり、連動していないのだ。それどころかジビエを得るための狩猟が獣害対策と相反することも有り得るだろう。

 もし、獣害対策としての狩猟とジビエの普及を両立させようと思えば、現在の有害駆除体制を根本から組み直さないと難しい。専門的に駆除を担当する組織と効率的な解体処理施設、そしてジビエの販売先と綿密な連携を組む必要がある。

 ともあれ補助金目あての有害駆除と流行に乗るだけのジビエを抱き合わせても、決してうまくいかないだろう。

 

2016年の処理数は、約1800頭にのぼった。ニホンジカ専門の処理施設としては日本最大級だという。これほどの数を扱うようになったということは、ジビエブームに乗って急成長か……。

「全然、利益は出ません。一時は廃業を考えたくらいです」

 意外や柳川瀬社長の口調は重かった。ようやく話を聞いたジビエ事情からは、この世界の抱える根本的な問題が浮き彫りになる。

まず会社の設立には補助金を使わなかったという。その代わり引き取るシカは選ぶ。質のよい肉を提供することで事業化をめざした。銃猟で仕留めた獲物は、頭か首を撃ち抜いた個体でなければ使えない。銃弾が肉はもちろん内臓に当たったものは商品にならない。とくに胃腸部分に当たると、大腸菌が体内に飛び散るため食用にできなくなる。

 

・「まずシカは売り物になる肉が少ない。体重で見ると、だいたい肉、内臓、骨と皮で3分の1ずつの割合。その肉もおいしくて売り物になるのは背ロースとモモ肉ぐらい、肉質が良いのはさらに少なくなる。ほかの部位の肉は臭くて人の口には合いません。計測したところ、販売できるのは全体の15%程度でした。だから肉の注文が増えても十分に供給できないのです」

 背ロース肉は100グラム当たり卸値700円前後で取引されるが、これ以上値を上げるのは難しいという。

 

<人と動物が共生するということ>

・そう考えると、街中にシカが闊歩する奈良の町は、「野生動物との共生」の場として優れものだ。課題は山積みだが、苦労しつつ解決を模索している。ナラシカも、結構したたかだ。人を利用するが、人に依存しない。共生とは「みんな仲良く」ではなく、「みんなスキなく」。適度の緊張を保ちつつ棲み分ける生き方だと考えさせられるのである。

 

 

(2020/10/9)

 

 

 

『来訪神事典』

平辰彦 新紀元社  2020/8/1

 

 

 

ユネスコ無形文化遺産となった来訪神

来訪神とは

・世界の様々な国で仮面・仮装の来訪神の出現する祭りがある。来訪神は「おとずれ神」とも呼ばれ、時を定めて人々を訪れ、幸いを与えて災厄を祓う神である。

 

・来訪神とは「異界からこの世へ定期的に現われる神」と定義されている。

 

こうした「異界」から訪れると信じられている来訪神は「異人」とほぼ同意語として用いられている。遠方から訪れるその姿は可視化され、その姿は祭りにおいて仮面・仮装で出現する。

 

「異人」と「マレビト」

・文化人類学者の岡正雄は『異人その他』で「異人」を「自分の属する社会以外の者」で「畏敬と侮蔑との混合した心態をもって、これを表現」したものと述べている。岡は「異人」の特色として次のような項目をあげている。

(1)「異人」は季節を定めて来訪する。

(2)「異人」は畏敬されつつ歓待される。

(3)「異人」はその表徴する音を立てる。

(4)「異人」は訓戒を与える。

(5)「異人」は冬至に関係している。

 

 これらの「異人」の特色は来訪神にも共通して認められる。民俗学者で国文学者の折口信夫は、こうした「異人」を「マレビト」と命名した。「マレビト」は、季節の境目に蓑笠を身につけ、鬼の面などをかぶった「人神的来訪神」を指す。この「マレビト」の信仰は祭りや民俗儀礼などに際し、「常世」から「稀に来る人(稀人)」に神の姿を認め、神は人々を祝福するという観念である。折口は「マレビト」の故郷である「異界」を「常世」と考え、そこは常闇の死者の国と考えていたが、後に「常世」は海の彼方にあると考えるようになり、「マレビト」とは海の彼方より訪れる「人神的来訪神」であると論じている。「マレビト」は、本来、年に1度きりの訪れで集落のすべての人々の前に現れ、1年の行事を果たしてしたが、後世には「マレビト」は集落内の各家を訪れ巡るようになった。

 

・男鹿に「ナマハゲ」行事にみられるように、定められた時期に仮面・仮装で各家を訪れることと家人への「予祝儀礼」は来訪神行事に共通した重要な要素であると考えられる。

 

ユネスコ無形文化遺産登録

・2018年11月29日、10件の来訪神行事がユネスコ無形文化遺産保護条約の代表一覧表に「来訪神:仮面・仮装の神々」として記載された。

①  甑島(こしきじま)のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)

②  男鹿のナマハゲ(秋田県男鹿市)

③  能登のアマメハギ(石川県輪島市・能登町)

④  宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島市)

⑤  遊佐(ゆざ)の小正月行事(アマハゲ)(山形県遊佐町)

⑥  米川の水かぶり(宮城県登米市)

⑦  見島のカセドリ(佐賀県佐賀市)

⑧  吉浜のスネカ(岩手県大船渡市)

⑨  薩摩硫黄島のメンドン(鹿児島県三島村)

⑩  悪石島のボゼ(鹿児島県十島村)

 

日本列島の来訪神文化圏

・民俗学者・下野敏見は著作『ヤマト文化と琉球文化』の中で、日本列島の来訪神文化は大和文化圏、琉球文化圏、混合文化圏の3つの文化圏に大別することができると指摘している。

 

・登録された10件の来訪神行事は、いずれも具体的な姿で出現する来訪神だが、全国的な視点から来訪神行事をみてみると、能登半島の「アエノコト」のように具体的な姿を見せない不可視の来訪神行事もある。

 各地で実施されている来訪神行事には、このような様々なタイプがあるが、ユネスコに登録された10件の来訪神行事は、いずれも可視化された「仮面・仮装の異形の姿」をしている行事が対象とされている。

 

様々な来訪神

大和文化圏の「ナマハゲ系儀礼」

幸をもたらし、災厄を祓う異形の神

・日本の来訪神行事は、北は青森から南は琉球列島まで分布しているが、大和文化圏では、師走の大晦日の晩に来訪神が出現する。秋田県男鹿市の「ナマハゲ」は現在、大晦日の晩に集落内の家々を訪問するが、本来は小正月の民俗行事であった。民俗学者の柳田國男は「ナマハゲ」を「小正月の訪問者」と呼んでいて、「年の折り目・年越しの晩に神が来臨して、祝福を与える行事」として知られている。

 

秘密結社と「ナマハゲ系儀礼」

・民俗学者の岡正雄は、この「ナマハゲ系儀礼」に「母系的・秘密結社」の痕跡を認め、それが「メラネシアやニューギニアの母系的・タロ芋栽培民社会の秘密結社」と類似していると指摘、「神―祖霊―妖怪として村々に出現し、女や子どもを威嚇する」いわゆる「秘密結社」の「民俗化したもの」と見なしている。そしてこの文化の一分流が中国を経て日本に渡来したものと想定している。

 

男鹿の「赤神」と漢の武帝伝説

・男鹿では、古くから「ナマハゲ」は「お山」と呼ばれる本山・真山からやって来ると答える人が多い。この「お山」は、「本山」を「大峰」と称し、「真山」を「新山」とも書きならわしていることから紀州熊野山の本宮・新宮になぞらえていることがわかる。また早くから熊野修験が入り、熊野信仰の影響が認められ、平安時代から「天台密教系修験道場」であったと考えられている。

 

・この男鹿の「お山」には、漢の武帝が飛来したという伝承があり、こうした伝承が「ナマハゲ」の伝説の中にも深く浸透している。特に赤神神社に伝わる「本山縁起別伝」の鬼の伝説は「ナマハゲ」の起源が中国にあることを示唆しており、そこには、「赤神」の謂れと漢の武帝の伝承の関連性が語られている。

 

琉球文化圏の来訪神「ニライ・カナイ」

垂直型の来訪神と水平型の来訪神

・16世紀から17世紀にかけて本州から那覇に来た浄土僧の袋中良定上人(1552~1639)という人物がいる。この袋中が慶長10年(1605)に著した『琉球神道記』に記した琉球神話に、琉球文化圏の来訪神として2つのタイプが紹介されている。

 ひとつは、天からやって来る垂直型の来訪神であり、もうひとつは、海の彼方からやって来る水平型の来訪神である

 この『琉球神道記』では、「グライ・カナイ(別称ニライ・カナイ)」という神が天から、「オボツ・カグラ」という神が海からやって来ると記されているが、『琉球神道記』より後に著された『琉球国由来記』(1713)や『混効験集』(1711)では、「ニライ・カナイ(別称 ギライ・カナイ)」ははるか遠い海の彼方から、「オボツ・カグラ」は「天上」からやって来ると記されており、袋中が著した『琉球神道記』ぼ叙述は両者を取り違えていると考えられる。

 つまり、天からやって来る垂直型の来訪神が「オボツ・カグラ」であり、海からやって来る水平型の来訪神が「ニライ・カナイ(別称 ギライ・カナイ)」である

 


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