●高樹氏が地図上で家の場所を指差したとき、曲がり角ひとつ間違えておられることに、我々はすぐに気づいた。
●新子の家の外観は、防府市文化財保護課(現・文化財課)が保存する膨大な考古学的発掘調査の現場記録写真の中から発見された。
新子の家のたたずまいについては、原作『マイマイ新子』以外にも、高樹文学である『光抱く友よ』『燃える塔』など、さらに『高樹のぶ子BOOK』や週刊文春「家の履歴書」のページなども参考にして、総合的にイメージを作っていきました。
原作者・高樹のぶ子さんにはじめてお目にかかったのは、芥川賞審査のために上京して来られた2007年1月29日。
手持ちの中では一番倍率が高かった昭和49年周防国府発掘調査報告書(古本屋に注文した中の一冊です)の添付地図を携えて、帝国ホテルを訪れました。高樹さんは地図上、学校からの帰り道を指でたどり、
「お大姉さんがここで、竹やぶがあって、ここを曲がったここ」
と、家の場所を教えて下さいました。
でも、実は、もうひとつ先の曲がり角で曲がらなくてはならないはずなのです。 我々がすぐにそれに気づくことが出来たのは、近所の養鶏農家、溜池などとの位置関係がすでに頭に入っていたからでした。
麦が育つのを待っておこなった3月9日からの第二次ロケハンで、その場所に行ってみましたが、家の南側に広がるはずの麦畑は住宅地に変わっていました。往時の様子が掴みにくい感じです。
そのあと、防府市教育委員会・文化財保護課を訪問中にふと気がつきました。麦畑が住宅地となる前に考古学の発掘調査が行われたはず。第○○次調査というその調査次数もわかっていました。記録写真が残ってないでしょうか。
「これですか?」
と、捜し出していただいた写真には、広い発掘現場の背景に高樹さんの生家が紛れもなく写っていました。
この写真はあとで高樹さんにプレゼントさせていただきました。
ということで、このときの成果を元に描かれたのが、この美術監督・上原伸一さんによる美術ボードです。庭木と生垣はまだ描かれていません。