皆無斎残日録

徒然なるままに、日々のよしなし事を・・・・・

父の椿

2010年02月21日 17時21分26秒 | 随想

少し怪しいのですが、父は今でいうと農学部に相当する学校を出て、20代半ばの頃、満州で日本のビール工場に勤務していたことがあるようです。一、二度「あの頃のロシア人労働者は」とか「あの頃の中国人労働者は」とか言ったのを聞いた記憶があります。戦雲が怪しくなって心配した母親に呼び戻され、小学校の教員としてその後を送りました。この地で戦争末期、近隣の人と近くの河川敷で食べ物を作っていて、その日も作物の世話をしていたそうですが、「OO先生!危ない!危ない!!」という声に後ろを振り返り上空を見ると、戦闘機が降下してきていたそうです。驚いて橋脚の根元に隠れたすぐその後、機銃掃射の銃弾が地面を叩いたそうです。しばらくしてから辺りを捜して銃弾か薬莢かを見つけ「ああ大きいなぁ、日本は負けるのかも知れないなぁ」と思ったそうです

教員を定年退職後、暫くしてパーキンソン氏病を発病し、その後10年ほど闘病を余儀なくされました。当初は家で家族の者が皆で世話をしていたのですが、共倒れになりそうなので入院をさせました。毎日家族の誰かは病院訪れていたので、結構看護の人などには可愛がられて、その点は救われる思いでした。盆正月などには許可を得て、家に連れて帰って数日を過ごして又戻るという年月でした

その日の昼間は亡くなるなどとは予想も出来なかったくらいでしたが、まるで運命的でもあるかのように、それ迄一度も終夜付き添った事の無かった私が付き添いました。翌朝明けやらぬ時刻に、ゼーゼーという末後の息の音を聞きながら最後を看取りました。親不孝であった私に唯一の救いを天が与えてくれた様な気がします

そんな父は、何故か椿の木を多く育てていました。買ってきたもの、貰ってきたもの、山などで見つけて来たもの、それらを接ぎ木したものなど。一つの木に異なる花が咲いてるのは接ぎ木のせいでしょうか。椿は縁起の悪い木と言われますが、また潔良さをあらわす木ともいわれます。そのせいでしょうか、昔は武士の家によく植えられていたようです。写真は父を思い出させるそんな椿の木の何本かです。


思い出と言えば、冬の時期、私が牡丹を見て「父ちゃん、これ枯れとるんと違うか?」と言ったのを、父が「ものを知らんなぁ、この時期この牡丹はこんなに枯れたように見えるんよ」といった事が思い出されます。

下の椿は父が「この椿はええ椿や」と気に入っていました


帰り来し父がむくろの小さければ真白き敷布広々と見ゆ



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