皆無斎残日録

徒然なるままに、日々のよしなし事を・・・・・

吉田松陰の言~その2

2010年03月03日 19時58分06秒 | 歴史・人物

吉田松陰の言葉で有名なものがまだあります。それは


但だ事を論ずるには、当に己の地、己の身より見を起こすべし


という言葉です


これは安政三年五月に、久坂玄瑞が吉田松陰に宛てた書簡の中で展開した即刻斬夷論に対する反論として、玄瑞を戒めたものです。


・・・・・天下為すべからざるの地なく、為すべからざるの身なし。但だ事を論ずるには、当に己の地、己の身より見を起こすべし、乃ち着実と為す。故に見将軍の地に居らば、当に将軍より起こすべし。身大名の地に居らば、当に大名より起こすべし。百姓は百姓より起こし、乞食は乞食より起こす、豈に地を離れて身を離れて、之を論ぜんや。今吾兄は医者なり、当に医者より起こすべし。寅二は囚徒なり、当に囚徒より起こすべし。必ずや利害心に断ち、死生念に忘れ、国のみ、君のみ、父のみ。家と身とを忘れ、然る後家族之に化し、朋友之に化し、郷党之に化し、上は君に孚(まこと)とせられ、下は民に信ぜらる。ここに於いてか、将軍為すべきなり、大名為すべきなり、百姓乞食も為すべきなり、乃ち医者囚徒に至るまで、為すべからざる者あるなし。是れを之れ論ぜずして、傲然天下の大計を以て言を為す、口焦げ唇爛るとも、吾れ其の裨益あるを知らざるなり。謂ふ所の議論の浮泛とはこれなり。・・・・・


「ことを論じようとするならば、自分の置かれた立場から、自分自身のことから、考え始めるべきだ。そうしてこそ、初めて他を感化し、他に信用され、物事を為し得るのである」とでも解釈すればよいのでしょうか


やがて松陰は自らの思想信念に忠実であるが故に、若さに因るとしか言い様のない稚拙な行動によって死への轍を辿り始めます。生き急ぐかのように、過激な言動をとるようになる松陰を諌め戸惑う弟子たちに、「僕は忠義をなすつもり。諸君は功業をなすつもり。」と言って行動します。その失敗からの思索は、若き晩年の草莽崛起の論へとつながっていきます。

名残の椿も次から次へと、花開いて散っていきます



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吉田松陰の言

2010年02月24日 20時00分29秒 | 歴史・人物

松下村塾門下の多くが維新前の動乱の中や、維新後の不安定な政情の中、非業の死を遂げています。伊藤博文や門下生と言えるかどうか微妙な山縣有朋を除けば、その将来を松陰に嘱望された久坂玄瑞や吉田稔麿は、時代に先駆けて戦闘の中で斃れています。又、高杉晋作も戦いの末に病を得て死んでいます。又、明治初期の顕官であった前原一誠も萩の乱を起し、捕えられて刑死しています。


松陰自身、その身は刑場の露と消えました。


松陰は多くの書き物を残していますが、その中には名言と言われるに値するものが多くあり人口に膾炙されています。とりわけ、処刑直前に江戸小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた全十六節からなる「留魂録」は「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という有名な辞世の句を巻頭に始まる名文です。中でも第八節は松陰の死生観を如実に語って、人の魂を揺さぶり、粛然とさせます。原文以下の通りです


一、今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ
人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ
未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ
吾行年三十一
事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ
然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン
何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ
乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ
同志其是ヲ考思セヨ


確かに、これを読んで涙して発奮しない門下生は有り得ないでしょう。私はこの中でも、特に


十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ


の部分に強く心打たれます。深い教養と強い精神で過酷な運命を達観し得た者のみが発し得る言葉であると考えます。宿命の中、人はいつ何時死ぬか知れません。何歳でこの世を去り逝く者であれ、それ相応の春夏秋冬があります。人生の質がその命の長短にあっては救われません。

松陰門下として、かって師の姿を見、その声を聞いた者で、生きて明治の世に顕官として絹の布団に眠った者も、暗夜一人昔日の吾を憶う時、「自分はかって松陰先生の謦咳に触れたのだ」と誇りに思える幸せに替え得るものは無かったのではないか。



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野村望東尼と高杉晋作

2010年02月18日 19時57分54秒 | 歴史・人物

幕末、長州藩の勤皇の志もあった閨秀歌人である野村望東尼という人は、高杉晋作のその短い晩年における交流でも知られています。夙に有名なのは、高杉晋作が死の床で「おもしろきこともなきよをおもしろく」と書いて力尽きたのに対し「すみなすものはこころなりけり」と継ぎ、晋作が「>おもしろいのう」と答えて目を閉じたという挿話です。事実は、死ぬ少し前の事のようですが、同士だった伊藤博文が、のちに高杉晋作の顕彰碑に寄せる一文で「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし、これ我が東行高杉君に非ずや」といったように一代の風雲児の人間風景としては、人口に膾炙されている事の方が劇的で相応しく思われます


野村望東尼は再婚相手の夫に誘われるままに歌の道に入った事が契機となって教養をつみ、更には文久年に京都で過ごす内に、次第に国を憂うる心を持つようになったようです


親子以上に年の離れた二人の間に、元より男女の感情は無かったでしょう。彼には彼女の年齢に相応しい美しさと教養、そして志士たちへの命懸けの心配りに敬慕の念があったでしょう。彼女も又彼に対し、常人にはない資質に期待と信頼を寄せていたでしょう


共に「東」という字を使った号というべきものを持っています。野村望東尼の元の名が「もと」であって、そして出家とともに「望東」にしたのであれば、音を合わせつつ、長州から見た東にある京都に憧れる気持ちを暗喩したのではないでしょうか。更には、晋作が望東尼と出会った後に「東行」と付けたとしたら、彼は彼女への敬慕の念とともにそれに倣ったのではないか。彼の場合「東」という字が彼女と同じく京都を意図したのか、それとも「関東」即ち「江戸」を意図したのか。斯く考えるのは穿ち過ぎだろうか。



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パグ犬きなこの写真日記

日記No.2……2010年3月~

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