皆無斎残日録

徒然なるままに、日々のよしなし事を・・・・・

歴史とレシピ

2021年11月20日 15時41分52秒 | 思想・哲学

何かといえば、K国C国から「日本は自国の歴史に対する反省がない・・・」「正しい歴史認識をしなくてはならない・・・」云々と嘴を入れられ、彼らに都合の良い虚偽捏造の歴史を押し付けられようとし、そして日本は謝り、金を出す。

隣家の者に「お前の家の料理はけしからん。レシピが間違っているから直せ」と言われて気に病んでびくつくやつがどこにいる。
辛かろうが、甘かろうが、酸っぱかろうが、どんな味であれ、旨くても不味くても、それがその家の味だ。他家にとやかく言われる筋合いのものではない。大きなお世話である。それなら、こちらから「お前の家の料理こそけしからん。レシピをあらためよ」といえば向こうが改めるとでもいうのか! ましてや家々の味を話し合いで協議して決めるなどというバカなことを考えてどうする。こっちが正しいそっちは間違っていると言い争いになるか、気弱なほうが、ゴリ押しに負けるかだ
他家の料理のレシピにあれこれ口をはさむのは僭越の極みである。その家の料理の味はその家にまかせ、我が家は我が家なりの言い伝えを守りつつ味の向上を研究すればいいことだ。それを他人の家と話し合いで決めてなんとする。

歴史認識も又同じである。
歴史の中の人間の言動には、その時代背景がある。現代の我々にも又その時代背景がある。そしてそれは異なるのだ。歴史上の出来事と人間を、現在の人間の目で善悪の評価をすることほど愚劣なことはない。結果から逆算していって原因を探し、結果に見合うような話の筋書きを創るための原因にしてしまうのだ。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」というが、自己の経験を得意げに語り、自己の狭い了見からしか物事を見ない人間は、経験から何も学んでいないのだ。




恐怖は知らぬ間に

2021年11月15日 06時50分26秒 | 思想・哲学

恐怖も具体的に目の前に現れれば、人はもう立ち向かうか逃げるかしかないので恐れている暇がない。すなわち恐ろしい云々言っている場合ではなくなり、覚悟して何かする以外にない。一種吹っ切れる。
目に見えぬ間は如何ともしがたく、あれこれ想像し憶測して不安に惑う。だが目に見えれば恐怖は具体的になって対峙する存在でしかなくなり、人をして戦うべき存在にしてしまうだけなのである。
もっとも戦うか戦わぬかは本人の意思だ。

だから、具体的にせず、曖昧にして、人の心に不気味さを植えつけ、恐怖を生み出し、禁忌を作り出すのだ。禁忌こそが無言で人を従わせる最良の手段なのである。
テレビ局にとっては、天皇制、同和問題、大手芸能プロ、右翼運動、市民運動、在日朝鮮人、暴力組織、宗教団体、スポンサー、古株の現役人気芸能人、これらは禁忌の大手なのであろう。
天皇制は左翼にとって禁忌であったが、マスコミの中にまるで運動家を昔の忍者の草のように埋め込むことによって崩しつつある。
同和問題は、かっては解放運動と言っていたが、今はという言葉を表に出すことさえ許されない、自主的に使わないように仕向ける。そして同和対策は事業として利権となり、同和問題を批判的に話題にすると、踏絵の様な行動を強制されるようになっている。
大手芸能プロは人気タレントを抱え、それを脅しの種に自分たちに不都合なニュースは表面に出ぬよう圧殺しようとする。
市民運動もまた、市民運動やNPOという看板を掲げて左翼や右翼が活動し、正義と人権という看板を立てに有無を言わさぬ行動をとる。
暴力組織、宗教団体もまた、背後にいる多くの組織構成員の数を力に、威圧を加えるのである。
右翼の街宣もまた、本当の右翼を貶め、一般人に右翼とは恐ろしいものだという恐怖を与える為の、ある種の人たちの手段の一つになっている。

考えてみれば、利が絡んだ欲なのであり、テレビを見ることは、出来レースで洗脳を受けることなのだろう。



自由と平等と人権

2021年11月11日 12時35分49秒 | 思想・哲学

自由と平等と人権を免罪符にして、より新たな抑圧がうまれて、我々は重苦しく口を噤まされる。
宗教の自由、言論の自由、そして人権と平等という名のもとに、必ずしも彼らは多数ではないのに、それらを声高に叫ぶことによって、勢力を誇示し、衆を頼んで、言葉狩りをし、恫喝し、我々を抑圧するのである。そしてそれは自己満足と利権を得んがためなのである。

私は、「差別はあってしかるべき、不平等はあってしかるべき」というより、「しかるべき」という言葉が誤解を招くとすれば、「仕方がなく認め受け入れるべき」と思う者である。

賢愚美醜貧富、生まれながらに不平等・不公平・不条理なのがこの世なのだ。これは宿命だ。しかし賢美富に生まれたとしても幸福な人生を送れる保証はない。
また、愚醜貧に生まれたとしても不幸せな人生しか送れないとは限らない。それゆえこの世は奥深く興味深いのである。
ただこの世は運不運がある。そして幸不幸はそれに左右されること大である。しかしそれを以って己の生の礎とせず、「世間が悪い」「他人が悪い」と他に責任を転嫁しても問題の解決にはならない。
「運命は切り開くものだ」と考えるべきであり、「運命だから仕方ない」と諦めるべきものではないのである。

世間は残酷なものだ。人より能力が劣っていたり、貧しかったり、障碍を持っていたり、難病を背負っていたりすれば、否応なく、愚弄され軽んじられるか、憐れまれ、情けを乞うか助けを求めねばならなくなる。
それを突破する唯一の方法は、人に哀れみや情けを乞うたりすることではなく、自己の運命そのものと闘うことである。その姿勢に心ある人は胸を打たれ、世が動くのである。
障害があったり貧しくあったりすればするほど明るく努力をせねばならぬ。甘えたり、拗ねたり、捻くれたり、僻目で世間を見て皮肉っぽく嫌味っぽくなったりすればするほど余計に嫌がられるのだ。
差別されようが、軽んじられようが、憐れまれようが、「なにくそ」と思い自らを奮い立たせて、そして見返す闘いをする以外にないのだ。

差別される側の味方や仲間の振りをして、自由と平等と人権という旗印を掲げて、「その言葉は差別語である」と言って使わせなくしようとする言葉狩りをし、「差別だ、差別だ」と声高に非難し叫ぶことによって、勢力を誇示し、衆を頼んで、言葉狩りをし、我々を恫喝し、抑圧して、「差別」を利権化する者たちによって、「差別」は深くヘドロのように人の心に沈殿してゆくのだ。
そういった差別を己の利権にしようと活動する人間を、差別されているとする側の内から排除することだ。そうすることによってのみ本当に差別がなくなるのだ。
正義ぶった主張をする者は、義務を忘れて己の権利のみを、規律を忘れて己の自由のみを主張するのである。

強盗が逮捕された時、警察官にけがをさせられたとして、強盗犯がその事を訴えてそれを聞き入れた裁判官さえあると聞く。何たる世間知らずというか甘ちゃんお坊ちゃまというか、理解に苦しむ。開いた口が塞がらぬとはこのことだ。
そのうち「逮捕されていただけませんか」と犯罪者に伺いでも立ててから逮捕せよというようになるのか、「人殺し様」と犯罪者にも敬語をつけねば訴えられる時代になるのか。
少女の売春を援助交際などと甘ったるい言葉で真実を覆い隠すような表現が、さも正しい事であるかのように、いかにメディアに瀰漫していることか。
凶悪殺人犯が出版社を名誉棄損などで訴えたという事を、それがまるで正当な権利でもあるが如く書いているメディアの記事を見かける。
義務を守らぬ者には権利はない。規律を守らぬ者に自由はない。冷たく残酷な言葉も又使わねばならぬ。

今一度言う、人はこの世で生まれながらに不平等・不公平・不条理である。ともすれば、この定理の如き真実を人は忘れがちになるのである。
ある種の人間は何もかも同じにすればいい、できると考える。愚である。この世は同じ単一環境の中でのクローン人間の集まりの如くにはならないし、なれない。皆同じになってどうなる。
それでは自分という独自の一個の人間として生まれる意味も価値もないではないか。




メディアの恐さ

2021年11月07日 07時40分37秒 | 思想・哲学
メディアというものにはその華やかさとは裏腹に不気味さを感じる。メディアは大衆に対して責任は取りません、否、責任をとる相手が特定されるものでないので取り様がない。メディアは大衆を相手にするだけに、社会的に与える影響は大きい、故に勢力となります。勢力となるとのさばります。のさばると独善的になり勝手を始めます。

公共放送と言いながら、偏向したニュースやドキュメンタリーを垂れ流し、大河ドラマと称して、恣意的解釈に満ち満ちた、誤解を招く大嘘だらけのお粗末な内容の歴史ドラマを、さも史実の如く放送する某テレビ局。芸人やタレントと称するものが自分たちだけ遊んで面白がっているような番組や人気タレントを出せば良いという感じのする安直なドラマの民放。そんな放送を喜ぶのが大衆というものです。
そして、彼らは世間を動かしているのはそんな大衆の欲望だと知っています。それなら大衆の欲望に応えなければなりません。それには大衆に迎合せねばなりませんが、大衆は愚ですから、うまく騙して自分たちのいいように操らねばなりません。そうして視聴率や部数を上げれば、スポンサーに力を誇示して、広告料を吹っかける事が出来ます。

私は、真実を正しく伝えることは不可能だと思っています。我々は真実が報道されていると洗脳されているのです。報道されたことの水面下にはまるで流氷のような大きな報道されない真実があるのです。某国営放送と言われる局はウィグルやチベットにおける中国の残虐行為を報道したでしょうか。いまだに中国に媚びるがごときドキュメンタリーとドラマを制作して流し続けます。民放また然り、己が不始末は自局では放送しないかさらりと流します。

コマーシャリズムとイデオロギーに汚染されたメディアは常に自分たちに都合のいいようにしか報道しません。たまたま、真実だったとしてもそれはそのほうが彼らにとって都合がよかったからにすぎません。言葉を変え表現を変え、手を変え品を変えれば、悪逆非道も善良誠実の如くに思わせたり、善良誠実も狡猾悪徳の如くに思わせたりすることは出来ます。その点、弁護士にも通じる本質があります。
新聞の投書も、街角のインタビューも相手の都合に良いから取り上げられるだけの事です。都合悪ければ、打ち捨てられて我々には知らされません。知らされないことは存在しないことです。そして何時の間にか、メディアの都合の良い事のみ知らされ、我々は洗脳され操られてゆくのです。
その上、テレビ局に限って言えば電波は許認可です。許認可は利権を生む。利権は許認可する人間とされる人間をグルにして巨大な利益を独占させます。莫大な利益は排他を生む。排他は独善を生む。本来無料である電波を独占してのさばります。

そんなメディアや芸能界は大衆の支配を目論む勢力には格好の標的です。すでにある種のイデオロギー勢力や宗教勢力が浸透していることでしょう。
いくら眉に唾をつけ、警戒していても、知らず知らずの内に我々は、メディアの報道をそのまま真実であるかのように信じてしまいがちです。メディアに対しては、幾ら心してかかっても、し過ぎるという事は無いのです。



正義の旗印

2021年11月03日 09時38分14秒 | 思想・哲学

綺麗ごとはいくらでもいえるが、その内奥を覗えば、結局人は人の上に立ちたいのである。そのため納得させて支持を得なくてはならぬ。
政治家など、広くは大衆の支持を得なくてはならぬ。その為には大衆を操れねばならぬ。

そういう人間に対しては、彼らが正義などと言いだしたら眉に唾をして心することだ。庶民の味方だ、弱者の味方だなどと言いだしても心することだ。
非難する相手が自分より上の地位にいる場合は、正義の看板を掲げてその相手を非難するのは嫉妬なのである。本当は自分が相手のその立場に取って替わりたいだけなのである。
世俗的な成功を考えるなら、臆面なんかがあってはいけないのである。生き馬の目を抜く図太さ、人の不幸など見て見ぬふりをする冷酷さがなくてはならぬ。人を出し抜くずる賢さがなければならぬ。
道義に反するだろうかなどと思い悩んでいては遅れをとるのである。

そして話し合いで解決することなどないのです。屈伏させたか、させられたか。それだけです。
話し合いがついたと思っていることは、もとより話し合う必要のないことだったのであり、どうでもよかったのです。
だから、話し合いがつかなくて解決しなければならない時に暴力の出番が来るのです。小は拳骨から大は核兵器まで。



パグ犬きなこの写真日記

日記No.2……2010年3月~

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