皆無斎残日録

徒然なるままに、日々のよしなし事を・・・・・

自由と平等と人権

2021年11月11日 12時35分49秒 | 思想・哲学

自由と平等と人権を免罪符にして、より新たな抑圧がうまれて、我々は重苦しく口を噤まされる。
宗教の自由、言論の自由、そして人権と平等という名のもとに、必ずしも彼らは多数ではないのに、それらを声高に叫ぶことによって、勢力を誇示し、衆を頼んで、言葉狩りをし、恫喝し、我々を抑圧するのである。そしてそれは自己満足と利権を得んがためなのである。

私は、「差別はあってしかるべき、不平等はあってしかるべき」というより、「しかるべき」という言葉が誤解を招くとすれば、「仕方がなく認め受け入れるべき」と思う者である。

賢愚美醜貧富、生まれながらに不平等・不公平・不条理なのがこの世なのだ。これは宿命だ。しかし賢美富に生まれたとしても幸福な人生を送れる保証はない。
また、愚醜貧に生まれたとしても不幸せな人生しか送れないとは限らない。それゆえこの世は奥深く興味深いのである。
ただこの世は運不運がある。そして幸不幸はそれに左右されること大である。しかしそれを以って己の生の礎とせず、「世間が悪い」「他人が悪い」と他に責任を転嫁しても問題の解決にはならない。
「運命は切り開くものだ」と考えるべきであり、「運命だから仕方ない」と諦めるべきものではないのである。

世間は残酷なものだ。人より能力が劣っていたり、貧しかったり、障碍を持っていたり、難病を背負っていたりすれば、否応なく、愚弄され軽んじられるか、憐れまれ、情けを乞うか助けを求めねばならなくなる。
それを突破する唯一の方法は、人に哀れみや情けを乞うたりすることではなく、自己の運命そのものと闘うことである。その姿勢に心ある人は胸を打たれ、世が動くのである。
障害があったり貧しくあったりすればするほど明るく努力をせねばならぬ。甘えたり、拗ねたり、捻くれたり、僻目で世間を見て皮肉っぽく嫌味っぽくなったりすればするほど余計に嫌がられるのだ。
差別されようが、軽んじられようが、憐れまれようが、「なにくそ」と思い自らを奮い立たせて、そして見返す闘いをする以外にないのだ。

差別される側の味方や仲間の振りをして、自由と平等と人権という旗印を掲げて、「その言葉は差別語である」と言って使わせなくしようとする言葉狩りをし、「差別だ、差別だ」と声高に非難し叫ぶことによって、勢力を誇示し、衆を頼んで、言葉狩りをし、我々を恫喝し、抑圧して、「差別」を利権化する者たちによって、「差別」は深くヘドロのように人の心に沈殿してゆくのだ。
そういった差別を己の利権にしようと活動する人間を、差別されているとする側の内から排除することだ。そうすることによってのみ本当に差別がなくなるのだ。
正義ぶった主張をする者は、義務を忘れて己の権利のみを、規律を忘れて己の自由のみを主張するのである。

強盗が逮捕された時、警察官にけがをさせられたとして、強盗犯がその事を訴えてそれを聞き入れた裁判官さえあると聞く。何たる世間知らずというか甘ちゃんお坊ちゃまというか、理解に苦しむ。開いた口が塞がらぬとはこのことだ。
そのうち「逮捕されていただけませんか」と犯罪者に伺いでも立ててから逮捕せよというようになるのか、「人殺し様」と犯罪者にも敬語をつけねば訴えられる時代になるのか。
少女の売春を援助交際などと甘ったるい言葉で真実を覆い隠すような表現が、さも正しい事であるかのように、いかにメディアに瀰漫していることか。
凶悪殺人犯が出版社を名誉棄損などで訴えたという事を、それがまるで正当な権利でもあるが如く書いているメディアの記事を見かける。
義務を守らぬ者には権利はない。規律を守らぬ者に自由はない。冷たく残酷な言葉も又使わねばならぬ。

今一度言う、人はこの世で生まれながらに不平等・不公平・不条理である。ともすれば、この定理の如き真実を人は忘れがちになるのである。
ある種の人間は何もかも同じにすればいい、できると考える。愚である。この世は同じ単一環境の中でのクローン人間の集まりの如くにはならないし、なれない。皆同じになってどうなる。
それでは自分という独自の一個の人間として生まれる意味も価値もないではないか。




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