H23年8月23日のこと
被災地の石巻の親戚(兄姉)のところへ行って来ました。
こうして穏やかに流れる北上川を見ていると
あの津波の惨事は嘘のようですが
まだまだ復興はされていないところばかりです。
瓦屋根の家は津波で流されないで残っているものの
家の中の物はすべて流されてそのまま無残に残っていました。
↓ 壊れた堤防も作り直されてはいましたがこの先に・・・
すっかり有名になってしまった大川小学校があります。
行方不明の子ども達の手がかりの
どんな小さなものでも見つかることを信じて
↓ がれきや土の撤去作業に神経を遣っている様子が伺えました。
重機の奥のほうに見える茶色の建物が大川小学校です。
夫の母校である小学校ですが
ここから海まで数キロ、街が開けておりました。
子ども達を連れて何度海水浴に行ったことか・・・
娘の安産祈願、出産報告と安全祈願を
亡き義母と一緒にお参りしたお寺さんも
この奥のほうにありましたが
今では、だれもが住めない海と地域になってしまいました。
悲しいことです・・・これを書いていてもまた涙があふれそうです。
↓ 少し視線をずらすと
震災前は、穏やかな田園風景だったところ
5ヵ月半経った今は、草が生えて一見緑になっていますが
ここは、ずいぶん遺体が見つかったところでもあったそうです。
ただ、この辺りは車もたくさん流されていたところでしたが
車やがれきだけは、何とか片付けがしてありました。
しかし、稲作はまだまだ無理のようです。
一方、海抜0メートルになった渡波地区も
とりあえず道路兼堤防を作り、土嚢での防波堤は出来て
満潮時の浸水はなくなったとのことです。
いつ漁が出来るのか?
ずうっとここに住めるのか?
不安はいっぱいのようです。
一時元気なった義姉も
今回はとても元気なくなっていました。
気がかりです。
街の復興はもとより、心身ともに復興するのは
まだまだ時間がかかるようです。
こう言う体験を風化せずにこれからも
援助の手を出来る範囲でさしのべていきたいと思います。
でも、兄姉たちは古い人間ですので
その度に、気を遣ってくれるのが心に残ります。
互いに思いやることは
お互いに気を遣い大変なことかもしれませんが
続けていかなければならないこと
そんなことも感じながら、兄姉宅訪問の日でした。
間接的な援助も考えていきたいですね。
間接的な援助と言えば
今回は高速道路が平日にもかかわらず混雑していました。
経済効果などの援助も考えてのことかもしれませんね。
それに、あれだけのトラックの往来は、復興に向けて
活気がでてきたとも思えました。
こうして車が多くなると、交通事故が怖いと思っていましたら
その帰り道、案の定交通事故の為の渋滞にあいました。
交通事故も気をつけたいですね。
何となく失礼な様な感覚があります。が、何かできる事は・・・という気持ちだけが芽生えます。ここは平常生活ができているだけについ忘れてしまいがちなのでまた機会がありましたら被災地の様子など教えてください。お疲れ様でした。[E:dash]
きょうは、原発の勉強会にって来たのですが、大震災、原発問題は、だれもが始めてのことで、これと言った解決法が見つからず大変なことですよね。
コメントだって、悩んじゃいますよね。
それなのに、ありがとうございます。
石巻は夫の親戚のほとんどが住んでいるところですので今後もず~っと、励まされたり励ましたりのよい関係のお付き合いにしたいです。