昨日は、3.11の大震災から11年がたった日で
あちこちで、慰霊の行事がされていました。
宮城県石巻の大川小学校の児童の7割74人の生徒が
津波の犠牲になった小学校では
そこの遺族や関係者、ボランティアで、竹あかりを作っていたそうです。
当日に間に合った竹あかりです。↓
美しいですねぇ。
この地域(長面地区)で亡くなった先生や子どもたちも
高いところから笑顔で見てくれているのではないでしょうか。
このプロジェクトは、だいぶ前から大勢の方が関わって
この道のプロの方のご指導の下に出来上がったとのことでした。
↓ 竹を山から切り出し
デザインした紙を貼って、穴をあけ、中に光をともすと言う
大変な作業だったようです。
以前にも話したかと思いますが
大川小学校は、じいちゃん(カンレ夫)の母校でもあります。
地形的に、切り出しやすいと言う事で
じいちゃんの実家の竹を使って頂けたようで
今では遠方に住んでいる私達でも
なんだか、役に立てて良かった気分になっています。
なので、この情報は三男を亡くした姪からの情報でした。
姪は、ずっと悲しみに暮れながらも今は
語り部として後世に伝える使命のもとで
気持ちはだいぶ癒されてきているのではないかと思います。
姪は三男が、避難する途中で亡くなったとずっと思っていたらしいのですが
10年後の昨年夏に、本当のことを知ったそうです。
今回、河北新報に姪のことが載った記事です。↓
本人から聞けない状況の中
それは、それで、また悲しみはいかばかりかと・・・
それでも、これからは自分のために
元気に生きてほしいと願っています。
暗い話になってしまいましたが
読んでいただきありがとうございました。
そうでしたか、辛い思いをされていたんですね。お母さんを待っていた息子さん。胸が締め付けられます。姪っ子さんが前向きに生きて下さっていることが
せめてもの救いです。
従って、私は記事にしないことにしています。
当時、私は単身山口で亡き親父の介護をしており、自宅(埼玉)は家内(子供はないので)だけした。
私の書斎はゴチャゴチャ、台所では高級なガラス製グラスなど、食器棚の扉が開いてメチャメチャになりましたが、人的被害もなく幸いでした。
以来、コロナで一昨年を除き毎年東北方面に支援のための旅行に行っています。
寄付をすると、怪しい使われ方の報告が多いので、寄付のつもりで現金で沢山のお土産を買うなど多くお金を落としてくるようにしています。昨年は「あまちゃん」の久慈市まで行ってきました。
まさかこの地に大きな津波が来るとはだれもおももよらない出来事でしたね。
実家に行くと、子どもたちを連れて海水浴に行った松原もなくなってしまいました。
想い出がいっぱい、大事にしています。
我が家にしては、避けて通れない思いがありますので載せましたが、つらい思を思い出させてしまい申し訳ありません。
あの日は埼玉でしたか。
埼玉でも、食器が落ちるなどの被害があったのですね。
三陸で起きた地震が、広い範囲で影響があったこと、今でも信じられないことです。
防災について、これからも考えて行かなければなりませんね。
highdyさんいい支援をされましたね。
宮城県にはたくさんの親戚がいますのでお世話になっていることでしょう。
ありがとうございます。
11年前の東日本大震災、伝えていかなければ、忘れられていってしまう。
大川小学校の報道が頻繁にあり記憶しています。関東大震災については、親は話してくれなかったのであまりよくは知らない。
東日本大震災は、映像で見ても凄まじい出来事でした。
原発事故で、その後始末に現在も引きずっています。ロシアの核をちらつかせて、脅しでしょう。核戦争ともなれば地球・世界の環境は一変、廃墟、人類滅亡の危機と思います。
伝えていってください。津波・原発事故の大きさを。それぞれの運命を背負って生きている。私は集合住宅の二階で、大きな影響はありませんでした。私の生まれ育ちは八戸です。
巡ってくる3.11は、新たな悲しみを感じさせます。 K.M
地震、津波、それはそれは恐怖の瞬間でした。
それでも復興が一歩一歩進み心の癒しも少しづつ癒えては来ているともいますが、原発の方は、解決できない問題がいっぱいありますね。
今も、テレビでは燃料デブリ問題を取り上げていました。
デブリの処理は、なん百年もかかる話、恐ろしいことです。
そして今、ロシアの戦争、今どきとんでもない考えを持っている人がいることに不安を感じます。
個人では何もできませんが、基本は思いやり、私にできる小さな思いやりの輪を広げて行きたいです。
K.Mさん、八戸からでしたか。
ありがとうございました。