少し調べたいことがあって、
ウィキペディアの北原白秋を読んでいると、
「三崎」という地名が出ていた。
これは三浦半島にある地名で、
実は、私の母が一時、わずかな土地を所有していた。
話が長くなるが、
この土地は、3月15日に書いた記事「横浜の親戚の家」の親戚の家が絡んでいて、
私と母が、その家に逗留させていただいていたとき、
たまたま夕食の席で、その家の、私の祖父の従妹だったおばあさんが
「今度三浦半島の三崎という場所に土地を買う」という話をしたことから始まった話だった。
私の母は、土地を買ったりするのが好きで、
すぐにその話に飛びついて、
兄が慶応大学に入学したのを機に関東にも土地を持ちたいと思ったのだった。
それでその私達の逗留中の一日、その祖父の従妹のお婆さんと孫(息子さんの娘)と一緒に
三浦半島に出かけた。
三浦半島は横浜の親戚の家からもずいぶん遠く、長い時間電車に乗ったように記憶している。
三崎は三浦半島の先っぽにあるところで、
これから買おうとする土地は何もない辺鄙なところだった。
が、空が広くて、海があって気持ちのよいところだった。
とにもかくにも、母はその家と隣り合った三崎の土地を買った。
買ったといっても、わずかな土地である。
その後、日本全体がバブルになり、土地値は高騰した。
もうそのころは、祖父の従妹のお婆さんも亡くなっていた。
すると、ある日突然、その家の夭折した息子さんのお嫁さんだった人から手紙が届いて、
あの三崎の土地に家を建てたいから買ったときの値段で譲ってほしいと。
当時は、その土地は、かなりの値段になっていたから、母は躊躇った。
が、そのお嫁さんの言い分は、
「あれからずっと土地の管理をしてあげていたのだから買った値段で売ってください」と。
まあ確かに祖父の従妹のお婆さんにはお世話になった。
お婆さんのいたころは、そのお嫁さんは、その家で女中さんのようにこき使われていた。
祖父の従妹のお婆さんは、
自分の娘は甘やかしすぎるほど甘やかしていたのに、お嫁さんにはきつかった。
私の母が気の毒がったほどであった。
お婆さんの娘はキャリアウーマンで、生涯独身の仕事一辺倒の人であったから、
歳こそ取っていたが、世間知らずのお嬢さんであった。
それで、そのお婆さんが亡くなってからは、そのお嫁さんが実権を握っているようだった。
結局、母は、そのお嫁さんの言う通り、買ったときの値段で手放した。
兄も最初は東京に本社のある会社に就職していたから、
三浦半島の三崎のその土地に別荘が建てられたらという夢があったと思うが、
お酒の飲みすぎで身体を壊して会社を辞めたから夢は諦めざるを得なかった。
そんなこんなで、その土地はその親戚の家のものになったが、
私も、そのお婆さんに案内されて行った土地だったから、少し思い出が残っている。
電車を降りたところに「城ヶ島」と書かれたものを見たりしたから、
当時も北原白秋の「城ヶ島」の歌を頭に思い浮かべて歩いた。
ほとんどのことは忘れてしまったが、「城ヶ島」だけは記憶に残っている。
今頃、あの親戚はどうしているだろう。
あのお婆さんが溺愛していたお孫さん(夭折した長男の娘)はどうされているだろう。
三崎という地名を見ただけで、そういう昔のことが走馬灯のように浮かんでは消えた。
ウィキペディアの北原白秋を読んでいると、
「三崎」という地名が出ていた。
これは三浦半島にある地名で、
実は、私の母が一時、わずかな土地を所有していた。
話が長くなるが、
この土地は、3月15日に書いた記事「横浜の親戚の家」の親戚の家が絡んでいて、
私と母が、その家に逗留させていただいていたとき、
たまたま夕食の席で、その家の、私の祖父の従妹だったおばあさんが
「今度三浦半島の三崎という場所に土地を買う」という話をしたことから始まった話だった。
私の母は、土地を買ったりするのが好きで、
すぐにその話に飛びついて、
兄が慶応大学に入学したのを機に関東にも土地を持ちたいと思ったのだった。
それでその私達の逗留中の一日、その祖父の従妹のお婆さんと孫(息子さんの娘)と一緒に
三浦半島に出かけた。
三浦半島は横浜の親戚の家からもずいぶん遠く、長い時間電車に乗ったように記憶している。
三崎は三浦半島の先っぽにあるところで、
これから買おうとする土地は何もない辺鄙なところだった。
が、空が広くて、海があって気持ちのよいところだった。
とにもかくにも、母はその家と隣り合った三崎の土地を買った。
買ったといっても、わずかな土地である。
その後、日本全体がバブルになり、土地値は高騰した。
もうそのころは、祖父の従妹のお婆さんも亡くなっていた。
すると、ある日突然、その家の夭折した息子さんのお嫁さんだった人から手紙が届いて、
あの三崎の土地に家を建てたいから買ったときの値段で譲ってほしいと。
当時は、その土地は、かなりの値段になっていたから、母は躊躇った。
が、そのお嫁さんの言い分は、
「あれからずっと土地の管理をしてあげていたのだから買った値段で売ってください」と。
まあ確かに祖父の従妹のお婆さんにはお世話になった。
お婆さんのいたころは、そのお嫁さんは、その家で女中さんのようにこき使われていた。
祖父の従妹のお婆さんは、
自分の娘は甘やかしすぎるほど甘やかしていたのに、お嫁さんにはきつかった。
私の母が気の毒がったほどであった。
お婆さんの娘はキャリアウーマンで、生涯独身の仕事一辺倒の人であったから、
歳こそ取っていたが、世間知らずのお嬢さんであった。
それで、そのお婆さんが亡くなってからは、そのお嫁さんが実権を握っているようだった。
結局、母は、そのお嫁さんの言う通り、買ったときの値段で手放した。
兄も最初は東京に本社のある会社に就職していたから、
三浦半島の三崎のその土地に別荘が建てられたらという夢があったと思うが、
お酒の飲みすぎで身体を壊して会社を辞めたから夢は諦めざるを得なかった。
そんなこんなで、その土地はその親戚の家のものになったが、
私も、そのお婆さんに案内されて行った土地だったから、少し思い出が残っている。
電車を降りたところに「城ヶ島」と書かれたものを見たりしたから、
当時も北原白秋の「城ヶ島」の歌を頭に思い浮かべて歩いた。
ほとんどのことは忘れてしまったが、「城ヶ島」だけは記憶に残っている。
今頃、あの親戚はどうしているだろう。
あのお婆さんが溺愛していたお孫さん(夭折した長男の娘)はどうされているだろう。
三崎という地名を見ただけで、そういう昔のことが走馬灯のように浮かんでは消えた。