あれもこれも

灰原中心二次創作サイトの創作人によるあれこれ日記。何かありましたら「拍手」からどうぞ。お礼は名探偵コナンの小ネタ三種類。

週刊少年サンデーについて考えてみた

2015-08-21 16:45:37 | 日常
 各メディアで話題になった様にサンデーの新編集長が本誌に異例の宣言を出した、ということでサンデー本誌について色々と思いつることを書いてみたいと思います。

 結論から言うと今回の宣言は私はとても好意的にとらえています。少なくともちょっとはまともになるのかな、と。
 今回の編集長は少なくともサンデーの現状を冷静に分析した上で、今後の方向性のビジョンと責任の所在を明らかにしている分、もう少しサンデー本誌やコナン公式を希望的観測を持って見守りたいと思っています。

 とはいえ、せっかくの機会ですので、サンデー本誌とコナンの現状についてこれまで考えていたことなどを私なりにまとめてみたいと思います。


 決してサンデー本誌も名探偵コナンという作品及び公式に優しいことは書いていませんので読まれる方はご注意を。あと無駄に長文注意です。


 私がサンデーを買い始めてからもう20年以上が経ちました。その間ずっと毎週水曜日はサンデーを買う生活を続けています。そんな中、確かにここ数年サンデー本誌を買う事が辛くなっていました。正直なところ、読む漫画が無いし一週間飛ばしたところでさほど困らないというのが理由です。
 
 このblogを始めてコナンの感想を書くようになったのも、サンデー本誌をずっと買っていたからです。ですからコナンのためにサンデーを買うわけじゃなくて「毎週買うなら感想でも書くかな」という軽い気持ちからでした。ところが実は最近はそれすら苦痛な時がありました。なぜなら「感想を書くためにサンデーを買わなきゃいけない」という状況に変化していたからです。私自身は「正当な対価を出さないなら批判をする資格はない」と思っていますので、コナンの感想を書くためにはサンデーを買わなければいけません。しかしそのサンデーを買ってもそれほど面白くないし、あまりお店に置いてない上にさらに重い。ということでサンデーの購入がどんどん遅くなっていきさらに買ってもなかなか読まないという事が増えてきました。そのため最近はこのblogでの感想の更新頻度が悪かったと思います(もちろんそれ以外にもオフの生活環境などの影響もありますが)。そういう意味では最近のサンデーの部数凋落は実に納得の数字でした。

 さて、最初になぜ長々とサンデーの現状について書いたかというと、私はこのサンデーの内容の劣化と部数凋落の象徴がある意味で『名探偵コナン』という作品の現状であると思っているからです。

 「サンデーの黄金期がいつであるか?」と問われたら私は「2000年前後だ」と即答します。部数的な話ではなく、あの頃のサンデーは毎週どれかの作品がクライマックスを迎えていて、合併号になるとガッカリしたものです。また内容的にも非常に多彩でしたし、どの漫画が休載であってもそれを補って余りあるくらい他の作品が魅力的でした。ちょうどジャンプに陰りが見え始めていた時期でもあったし、『H2』『ガンバFlyHigh』『犬夜叉』『名探偵コナン』『烈火の炎』『モンキー・ターン』というアニメ化作品が切れず、でも一方で『からくりサーカス』『Major』『俺フィー』『め組の大五』など人気作であっても機が熟していない作品は安易にメディア化しないという編集部内のビジョンが確立していた安定感もあり、当時私は「そのうちサンデーはジャンプを超える!」と本気で思っていました。
 
 名探偵コナンの視点から考えると、ベル姐さん編のクライマックスが2002年ですから、そういう意味ではサンデーの全盛期と名探偵コナンの作品が最も盛り上がっていた頃はピッタリと一致します。この頃はTVシリーズとサンデーの連載も、正月に二元ミステリーを二時間スペシャルで持ってくるという前提でサンデーの連載やアニメの進行が綿密に連携が取れていました。また劇場版もちょうど2001年が『天国への~』で映画、アニメ、サンデーが連携して「黒の組織」をメインにするというビジョンがありました。

 ところが今のサンデーは後述しますがサンデーの雑誌としてのビジョンはもはやありませんし、メディア展開や企画についての行き当たりばったり感は否めません。そして名探偵コナンという作品においてもこのあたりは全く同じで今や映画もアニメもサンデー本誌もそれぞれが点でバラバラの方向を向いていいるといわざるを得ません。そしてどちらも急激に求心力が衰えていることも言うまでもありません。

 その「転換点がいつか」というと2002年に就任した三上編集長から始まった低年齢化路線だと思います。実際これが加速されていくのは2005年の林編集長時代ですが、ここからの10年間のサンデーは本当にひどかったです。安定していた中堅作家をどんどんと他紙に放出していくわけですが、ここで放出された中堅作家が他紙でどうなったかというと山田貴敏の『ドクターコトー』、河合克敏の『とめはね!』、村枝賢一の『仮面ライダーSPIRITS』、猪熊しのぶの『都立水商!』、そしてもちろん久米田浩二『さよなら絶望先生』と確かに少年誌向けじゃない作品もありますが、それでもサンデーを去ってからの活躍を考えると、どれほど絶対に切ってはいけない作品を切ってきたのかというのは明らかです。雑誌というのは看板を貼るメイン作家の作品を目当て購入する層だけではありません。それだけならば単行本購入をしていればいいからです。そうではなくて雑誌の部数を伸ばすためのメインターゲット購買層の大多数は「目当ての作品も含めて一冊の雑誌を楽しむ」ために買うのですから、中堅作家を切ったサンデーが面白くなくなるのは自明のことです(他にもケンイチの本誌移行や『キャット・ルーキー』打切りも含めたサンデースーパーの改悪等もありますが、これは今回は割愛します)

 当然、名探偵コナンもこの低年齢化路線の波をまともに受けていきます。キール編の終了が2005年前後ですが、これ以後作品からハードボイルド要素が極端に減っていきます。例えば以前あったようなジンの兄貴のシェリーへの変態ポエムや、ベル姐さんとの大人の関係の示唆、さらに悪の組織としての冷酷非情な描写などコナン作品の中での「大人な描写」は消えてきます。代わりに多用されるようになるのが「ガンダムネタ」と「恋愛ネタ」であり、やたらと作品内でカップルを作り始めるのもこの頃からです。また映画も1999年の『世紀末~』の公開に合せてまじ快の「ブラック・スター」を連載ができていた状況が2007年の「ダーク・ナイト」の頃になると映画とは全く関係がない連載になってしまっています。しかし一方でコナンができない「大人な描写」をまじ快サイドで描く方向にシフトしていくのもこの辺りでした。
 つまりこの低年齢化路線の中で、サンデーは「雑誌としてのビジョン」を持たなくなり、かつ作品や雑誌全体を総括するということを全く行わなくなりました。その結果、その場での場当たり的対応が目立つようになりまた一つの作品や雑誌、企画に対する責任が曖昧になっていたのでしょう。

 ではなぜ「低年齢化路線」によってこのような状況が起きたのでしょうか?
 それはそもそも低年齢路線は編集長によって「自分の子どもに読ませたい雑誌をめざす」という目標設定が行われたからです。この目標設定は一見尤もに見えますが、しかしその実、商業ベースでものを作るという視点では全く間違っています。
 なぜならそもそも小学館にはすでに「コロコロコミック」という低年齢対象の雑誌があるわけですから、低年齢対象の作品が読みたい人はそちらを読んでいます。ですから当然、サンデーの主要購買層は「低年齢作品を望んでいない人」です。読者の誰もが望んでいない方向に舵を切っても、現状の購買層には不満がでる事は自明のことです。
 そしてこの路線を提唱する時点で、そこには最初から「読者」の視点がありません。今のサンデーを楽しく読んでいる読者に対して「あなた達が楽しんでいるサンデーは本来の姿ではない」と言っているのと同じ事です。これでは面白い雑誌ができるはずがありません。
 
 さてこの場合の「読者」とは誰か?実はこれがコナン、そしてサンデーの現状に対する最も大きなテーマだと思っています。私は「読者」とは間違いなく「単行本やサンデーを購入し読んでいる全ての人」だと思います。そして雑誌編集者と作者は一番にこの人たちに責任を持つべきだとも思います(だから「私の話をきけ」っていう意味じゃないですよ、念のため)
 例えば「組織の謎」や「今後の展開」を最初に知る権利があるのは「サンデーの読者」であるべきだです。しかし現在、作者は某ゲームやら雑誌のインタビューなので、今後の展開や物語の根幹に関わることを頻繁に漏らしていますが、私は作家としてこれほど無責任な行為は無いと思っています。作品を楽しみにしている読者のためにすべては「原作」で明らかにするべきだし、それは「原作の読者」が毎週ドキドキしながら楽しみにするべきことです。そしてそれこそが「雑誌の読者」である醍醐味です。
 ところがこういった雑誌の読者をないがしろにする行為を、本来のまともな雑誌編集者であれば真っ先にストップをかけるものであるはずが、これまでのサンデー編集者はこれをして来ませんでした。なぜならば彼らにとって「雑誌の読者」という視点が皆無だったからです。
 このような現状のサンデーとコナン公式にあっては、この「読者」の視点がない編集方針では読者が望む作品、読者の考える作品になるはずがありません。ですからコナンにおいては例えば「キャラの改変」「引き伸ばしと思えるような展開」などが起きることもそれほど不思議なことではないのだろうと思っていました(もちろんそれを許すことは別として)。そういう意味では名探偵コナンはサンデーの編集方針を如実に反映する作品だったと思います。そしてそれは奇しくもサンデーの部数減少と同じペースで発刊部数が落ちていることからも明らかです(ちなみに「コナンはサンデーの看板だから」という声をよく聞きますが、純粋な小学館の売り上げへの貢献度でいえば『Major』の方が遥かに上です)
 
 長らくサンデーの現状について書いてきましたが、このように低年齢化路線から10年以上たってサンデーの凋落が誰の目にも顕在化するようになり始めたここ数年、サンデー編集部は様々な紙面改革を行ってきました。しかし「読者」の視点がないそれらは全く有効な手段ではありませんでした。またある意味では現在のサンデーの象徴ともいえる名探偵コナンという看板作品を活かそうと、コナン展やコナンカフェなど色んな企画を行っていましたが、そのいずれもが内容の中途半端さがいなめませんでした。それは同様に「読者(この場合は「ファン」と言い換えても良いかもしれませんが)」の視点が無かったからです。

 そしてその結果起きたのは、今のサンデーにおいて「結局あの『低年齢化路線』は何だったのか?」という様な状況です。それはサンデー編集者が雑誌の凋落が始まった本当の原因を直視し、現状を総括することなく無責任体制の中の行き当たりばったり対応のなれの果てであるといえます。
 そして同様に「あの伏線は何だったのか?」が連発しているコナンの現状の原因もそこにあるといえます。


 そんな中で今回の宣言を見ますと、編集長が示している方向はずばり「2000年前後のサンデー黄金期への回帰」です。信心を発掘して育てる、そして中堅作家を大事にする、ということは今までのようにあるコンテンツを場当たり的に使いまわしてその場を乗り切る、ということではなく、雑誌の根幹そのものを強くして雑誌そのものの魅力を強くしようという事です。
 また「編集長の責任」を強調している点もこれまでの担当編集がビジョンなく好き勝手していた無責任体質の一掃という事でしょう。
 これらに加えてさらにサンデースーパーへのテコ入れを明言していることを考えると、今回の宣言は明らかに低年齢化路線とその後の混乱に対する総括です。そういう意味ではサンデーはようやくこの10年のどん底の時代に対してケジメをつけることができたのだしょう。
 
 そういう意味で今後、編集部が「サンデー黄金期への回帰」をめざす中で、名探偵コナンという作品もかつての黄金期を取り戻して言ってもらいたいと思います。

 編集部にはサンデーがかつての輝きを取り戻す力をまだ持っているように、名探偵コナンという作品にはまだその力があるコンテンツであると信じていただきたいものです。


 









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