あれもこれも

灰原中心二次創作サイトの創作人によるあれこれ日記。何かありましたら「拍手」からどうぞ。お礼は名探偵コナンの小ネタ三種類。

コナンの「正義」の話をしよう

2010-10-15 22:36:28 | コナン(考察系)
 今週のサンデーについて新蘭派の皆さんの感想を見る限り、とりあえず「これまでの十数年を振り返ると好きだというセリフで十分」という雰囲気で新蘭派の方がたもそれなりにフラストレーションがたまっていたということが良くわかりました。文句ばっかり言ってちょっと悪かったかなと反省してみたり。
 あと「名探偵コナンは推理ものでなく、主人公のキャラクター付けに『探偵』という要素が入っているだけだ」という意見もあり、これは拝見して目から鱗が落ちた気分です。あまりの納得に思わずうなったご意見でした。

 さて、実は『名探偵コナン』という作品にたびたび出てくる「正義」という言葉について、以前から考えていたことがあります。この作品にとって「正義」とは犯人の犯した罪を絶対的な悪として正当化しないためのキーワードであり、例え罪を犯す時であっても人間として捨ててはいけない価値観、という意味で使われています。
 前者の例としては31巻の蘭と哀ちゃんが初めてきちんと対面した海辺の事件。後者の例としては68巻の小林×白鳥ができあがった質屋さん事件が挙げられます。

 罪を正当化しないためのキーワードとしての「正義」は確かに子供向けの作品として、また犯人に立ち向かうヒーローとしては大切なスタンスです。ただ、この名探偵コナンという作品において「正義」のこの概念には大きな問題点が二つあります。
 一つは黒の組織に所属していた宮野姉妹をどう考えるかです。客観的にみて宮野姉妹はそれぞれに大きな罪を犯しています。
 明美さんについては既に亡くなっているので、作者としては終わったこととして処理をしているのかもしれませんが、しかし彼女はその深みがキャラとしての魅力であり愛されてきた理由の一つですし、今後赤井と明美さんについてや哀ちゃんと明美さんについていつまでもついてくる問題となるはずです(とはいえ、もしかしたら作者的にはなかったことになっているかもしれませんけどね)
 また哀ちゃんは結果として「APTX4869」という毒薬を作っていたことは間違いありませんし、組織に所属しコードネームを所持していたいことも事実です。それについてコナンは「毒薬を作っていた」と確かに糾明していたわけですし。
 これまでのコナンの「正義」ではどれだけの理由があったとしても、彼女たちが罪を犯した理由として正当化はしないでしょう。となるとこの「正義」の概念を貫き通す限り、最終回で哀ちゃんもしくは志保ちゃんは死をもって罪を償うか、逮捕されるということになります。このあたりをどういう理屈で説得して丸く収めるのかが最終回の見所だと思っています。
 もう一つの問題点はコナンにとっては犯人を逮捕するかつ事件を解決するための犯罪行為はぎゃくに「正義」として正当化されるという点です。電動機付きスケボーや麻酔銃は小道具やお約束の範囲内として許容できるとしても、例えば時計塔でキッドと対決した時に新一の発砲は明らかに犯罪行為ですし、不法侵入や盗聴については全く罪の意識もなくやってますし、時には推理とは全く関係の場面でも彼は平気です。大事の前の小事ということなのかもしれませんが、こうなると彼の「正義」には全く説得力がなくなります。主人公の特別性をアドバンテージというのであれば、自分の「正義」感で勝手に断罪するのではなく事件について語らせるべきでしょう。逆にキッドに人気があるのは彼は自分の価値観で行動して勝手な「正義」を持ち出さないというところも大きいと思います。

 また人として最後まで守るべき価値観として「正義」をみると犯人が罪を犯す時に自分の大切なものや趣味を利用するのは悪で、蘭やコナンといった作品中で断罪する側が利用するのは善という認識があります。実際、例えば野球選手が野球を使ったり音楽家が楽器を使った時に決まり切った様に「大切なものを犯罪に使った次点でそれを語る資格がない」的なフレーズがでます。でもコナンは犯人逮捕にサッカーボールを利用しているし、蘭は空手、おっちゃんは柔道を利用しています。これが彼らには自分たちが例えばサッカーや空手を侮辱しているという発想にはなりません。
 しかし見方を変えると、新一は今でもサッカーが好きですが、部活で活動していたのはあくまでも探偵としての体力作りですし今でもその時身につけた技術で狙うのゴールではなく犯人の顔面です。これは真面目にサッカーをしている人たちにとっては全くサッカーを侮辱した話ですよね。またロンドン編におけるミネルバさんはプロとして挑むべき全英オープンの決勝で、ハーデスの顔を狙ってサーブを打ち抜いています。これもテニスのボールを武器として利用するわけで、犯人側ならばコナンに「もうテニスを愛する資格は無い」という様な説教されている場面です。
 また犯人の側から考えると自分の全てをかけて犯罪を犯すわけですから、自分が最も精通したものを使うのは当然だと思います。むしろそれだけの覚悟をもって罪を犯すくらいの覚悟ももてない犯人のどこに魅力があるのでしょうか。
 私はコナンがサッカーで犯人を逮捕することも蘭が空手で犯人に過剰防衛的な折檻をすることも、もちろんミネルバさんが自分の技術でハーデスに引導を渡すことも、どのシーンも好きです。だからこそ自分たちの行為を棚に上げた断罪をされるとどちらにも説得力が無いというのが残念でなりません。
 魅力的な犯人像と魅力的な探偵の二つが揃って初めて追いつ追われつのサスペンスになるのですから、そこに中途半端な概念の「正義」が持ち込まれていると作品の底が浅くなってしまいます。

 ここらでキャラの見直しとともに、この作品で本当に語るべき「正義」というものがあるのであれば、それは何なのかきちんと定義づけ概念付けをしていただきたいと思います。
 
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3 コメント

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Unknown (森絢女)
2010-10-16 09:03:02
何より残念だなと思うのは、作者がそう言う事を全く深く考えていないんだろうなぁと思える事ですね。
子供向け漫画なんだから仕方がないのかもしれませんが。

ある意味、ドラえもんに出てくるジャイアンやスネ夫ののび太に対するいじめと、それを解決に乗り出すドラえもん(と、その道具)の構図と大差ありませんから。
ただ、ドラえもんは映画ではその辺りしっかり描かれるんですけど、コナンは映画でもあの調子ですからねぇ。
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Unknown (サブラピッド)
2010-10-17 10:04:17
言ってしまえば、コナン、新一側からのご都合主義的な所がありますよね。

言い過ぎを承知で言うなら、犯人を捕まえるなら、手段を選ばないというか。
まあ、ある程度までですけど。

それは、推理物なら、ドラマや小説の人気シリーズでも、ままあることですが、やはり、「正義」と「法」そして、法以上に「ルール」というか「道徳」というか、そのあたりの関係づけも、キチンとしてほしいと思います。

本気で「正義」というものを考え、読者に訴える気があるのならば、ですが。
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作者が (覚蓮常)
2010-10-18 09:33:49
コメントありがとうございました。

>森絢女様
作者については、その場のノリで描いてるんだろうなあ、と思うことが最近特に多くなりました。
さっさと完結させて「外伝」として過去を振り返る形で描けば良いんですが。

映画の場合は整合性と一貫性においてますます酷くなってますね。中途半端といえばそれまでですが、アクションなのかサスペンスなのか、キャラ作品なのか、作者の自己満足なのかテーマすらわかりません。

そう言えばコナンには阿笠博士というドラえもんもきちんと用意されていましたね。確かにあの人を平気で当てにする態度はのび太的だと思います。


>さぶらぴっど様
そうです、ご都合主義です。推理においてもキャラの歪みもこのご都合主義のせいでは無いかと思っています。きっと本人に自覚はないのでしょうが。

娯楽作品ですから現実とはかけ離れたところがあるのは当然なのですが、その上で守るべき枠を作ってもらわないと読んでいる側はついて行けなくなるし、面白くないんですよね。
今のコナンは困っても相談に行きたくない探偵です。どれだけ推理力があって正義の味方っぽくても人間的に信用できない、逆ブラック・ジャックみたいな感じです(笑)
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