神奈川工科大学/災害支援関連ブログ

2011年4月開始の「東日本大震災被災者支援ブログ」を名称変更し、さらに広い支援活動に関する実践、教育、研究を掲載します

ディスカッション:再考・震災と障害者の暮らし、再度のお知らせ

2011-10-31 18:14:16 | お知らせ
今週末の学園祭、お天気がなんとか持ちそうで、うれしいです。

学園祭の第一日目の夜には、厚木市の花火大会がありますし、また、二日目は、若者に人気のSDN48のコンサートが第二体育館で行われるという、にぎやかな二日間になります。
その中で、E3号館には多くの障害ある方々、ご家族、関係者が集まって「震災」をめぐる話し合いがあります。
コンサートとは時間がかぶりませんので、ぜひ、こちらにも足を運んでください。

http://www.kait.jp/news/316.html

現在、予定されている参加者のご所属は、
神奈川県障害者自立生活支援センター、神奈川県聴覚障害者総合福祉センター、厚木市自閉症児者親の会、FLC(障害者が自立して地域で生きる会)、脳外傷友の会、その他、多くの方々が参加される予定です。
非常時の自助すべきこと、公的な支援のあり方、その他をディスカッションしていきます。

お時間がありましたら、ご参加ください。
よろしくお願い致します。

ロボット・メカトロニクス学科 小川研究室

 
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学園祭にて「ディスカッション: 震災と障害者の暮らし」開催

2011-10-17 11:50:20 | イベント

ディスカッション:再考・震災と障害者の暮らし
-東日本大震災を踏まえて徹底討論-

日時 : 2011年11月6日(日) 13:30~16:00 (学園祭会期中)
場所 : 神奈川工科大学 ロボット・プロジェクト棟 (E3号館) 1階
主催 : ロボット・メカトロニクス学科 スポーツ・健康生活科学コース 小川研究室

私たちは、3.11を契機に日々の生活の過ごし方そのものの見直しを迫られ、また、行政の防災・被災に対応する支援システムの構築を真剣に考えるようになりました。本ディスカッションでは、障害当事者の視点から討論を行うことにしました。
これは、2008年に行った同テーマ「震災と障害者の暮らし」をさらに深めるもので、これからの暮らしに反映できるような議論にしていきたいと考えています。

◆問題提起 「障がい者制度改革と震災への障害者対応」
       DPI(障害者インターナショナル)日本会議 崔 栄繁 (さい たかのり) 氏
◆パネラー (ステージを作らず、円形配置によるディスカッションを予定しています)
  肢体不自由 聴覚障害 視覚障害 精神障害 内部障害 発達障害
  知的障害 高次脳機能障害 難病 などをもつ方々 障害児者の家族 
  その他、震災時に困難を伴う方々、在日外国人の方、そして関係する方々

◇コーディネーター 神奈川工科大学 教員   小川喜道 

◆情報保障:手話通訳・パソコン要約筆記・点字資料

◆ 参加費無料 当日、直接お越しください。
なお、なんらかの配慮を必要とする場合は事前にご連絡をいただければ幸いです。

◇ 交通アクセス
・厚木バスセンター1, 2番線から「神奈川工科大学」行きに乗車
・北口バスターミナル1番線から「青年の家」行き、「神奈川工科大学経由・鳶尾団地」行きで「神奈川工科大学前」下車  (学園祭の臨時便も出る予定。大学HP参照)
                                                         
連絡先 :神奈川工科大学  スポーツ・健康生活科学コース(人間福祉・健康科学コース) 小川 FAX 046-291-3262  

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南三陸町でのボランティア報告 その7

2011-10-14 10:04:07 | ボランティア
(下島君のボランティア報告、これが最終回です。)

(中略)
 その工務店の社長は、今後も支援してくれる人たちに感謝の意を示し続ける、それが自分のできることだという。
 みな、てんでばらばらに、異なる理想を語る。けれど、どの人もみな復興へ向かうポジティブな気持ちに溢れていた。話を聞きながら、私は宮沢賢治の童話をぼんやりと思い出していた。
 僕たちは決して銀河鉄道の乗客ではない。なぜなら彼らは生き残り、これからも生きていこうと前向きになっている。だから、ここはイーハートーブのポラーノの広場なのかもしれないと、そう思った。私たちはポラーノの広場を見つけたのだ。水ではなく、お酒を飲んではいるけれど。
 日が沈み、板張りの宴会場でジャズの演奏がはじまった。最初の曲はサマータイム。吹き抜けの天井にベースの音が反響する。
 好き勝手に過ごしていた大人も子供も、一斉に宴会場に集まってきた。被災者も、ボランティアも、みな同じ音楽に耳を傾け、拍手をする。

 まさしきねがいに いさかうとも
 銀河のかなたに  ともにわらい
 なべてのなやみを たきぎともしつつ
 はえある世界を  ともにつくらん
  (宮沢賢治『ポラーノの広場』より)


<下島君は詳細で長文の原稿を書いてくださっていましたが、ここに紹介したのはその一部です。短いボランティア活動の中でも、さまざまな出会い、それを通して考えさせられたことがあったこと、それを皆さんに伝えたいと思いました。>
KAIT支援ブログ管理者

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南三陸町でのボランティア報告 その6

2011-10-13 10:52:24 | ボランティア
(下島君の報告、続きです。お読みください。)

(中略)
・・・明るい口調で、自らの被災体験を語ってくれた。
 その日、大きな揺れのあと、津波が来ると聞かされた男は商売道具や愛犬を、水に浸からぬよう自宅二階に移していた。
 ところが、余震で隣家が倒壊し、壁を突き破ってきた柱に挟まれ、身動きが取れなくなった。そこを巨大な津波が襲った。
 死を覚悟した、波にもまれ、気がつくと、一四メートルを超える波の頂上から顔を出して、町が呑まれていく様を目撃したという。その光景は、さながら映画を見ているようだった。その後、近くに浮かんでいた強化発泡スチロールの畳に乗り、ガレキが渦巻く中を流されて、自宅から一キロ以上離れた気仙沼線の築堤に取り付き、一命を取り留めたという。
「でも、家族はみな無事でしたしね。身体もぼろぼろになりましたが、トオルさんとこの豚肉食べてたら、すっかりこの通りです。今はここの下にある小屋に居候させてもらってます。物も運び込んで、まるで自分の城ですよ」
 おどけるように巨体を揺らして笑う。僕らも声を上げて笑った。笑うしかなかった。
 そうこうしているうちに、会場には、あちこちから人が集まってきた。病院の医師、小学校の先生、工務店の社長。異なる職種の人々が一堂に会する。
「病院の建物は見ましたか?」
 志津川病院の医師が話しかけてきた。
「しっかり建ってるように見えるでしょう? あれ、四階まで波がきて、中は何も残ってませんからね」
 志津川病院には五階建ての新館と四階建ての旧館があった。誰も四階まで津波が上がってくるとは思っていなかった。その結果、新館に避難した人たちは助かったが、旧館に逃げた人たちは皆流されてしまった。
 津波警報が狼少年と化していたと、医師は指摘する。
「私も、そんな津波が来るなんて、信じてませんでしたから。避難訓練で避難を先導していた立場だったから、面倒くさいと思いつつ、避難したんですよ。それが、あんなことに」
 その顔には、疲労と後悔が深く滲んでいた。
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南三陸町でのボランティア報告 その5

2011-10-12 19:55:41 | ボランティア

(下島君の報告、続きです。お読みください。)

 海は満潮をむかえ、強い風と相まって、高波を引き起こしていた。壊れた防波堤のかわりにと、道の脇には土嚢が積まれていたが、波はそこに当たって砕け、道の片側をしぶきで濡らしていた。ボランティアセンターに戻り、今日のボランティアを終えた旨を伝える。お疲れ様でした、と一声掛けられ報告は終わった。
 日は落ちてきたが、まだ沈んではいない。志津川に沿って、廃墟の町を進む。
 親の知り合いが、地元の農家を間借りしてチャリティーコンサートを開くというので、それを聴きに行くことになっていた。わずかに残った気仙沼線の盛り土を超え、林に引っかかった車を横目に進むと、小さな赤い橋がみえた。国道から離れ、橋を渡る。海から遠く離れた山間の田畑まで、津波は押し寄せ、瓦礫だけを残していった。しかし、波を被らなかった場所は、今年も田植えがされ、青い稲の葉を風になびかせていた。
 地図にない、曲がりくねった道をゆく。森を抜け、坂をのぼると、木製の郵便ポストが立っていた。柵の中をのんびりと歩き回る豚たち。その中に、会場はあった。小さな女の子がシャボン玉を飛ばしていた。テーブルの上にはパンとレタスとハムが並び、大人達はビールやワインを片手に歓談している。
 下界が現実だとしたら、この風景は形而上の世界とでも言い表せばよいのか。そう呆然としていると、チョビ髭の家主がお酒を勧めてきた。
「飲みましょう。飲まなければならない。そうでしょう?」
 家主さんは豚飼いであり、写真家でもあった。山の上で豚を飼い、生計を立てていた。彼の写真の中には、のどかな志津川の町がたたずんでいた。
「下の光景を見ましたか? ひどいものでしょう。文明に対する警告だと、私は思いますね」
「なぜ、津波が何度も押し寄せている町の防災庁舎を、あんな平地に造ったのか、分かりますか? 効率がいいからですよ。人々が高台に住もうとしないのだってそうだ。こんなひどい被害が出たのは、人災ですよ。我々が効率を追い求め続けた結果。そうじゃありませんか」
 その演説の横で笑っている大柄な男性は床屋だったと自己紹介した。私の隣で先ほどから、工具で金属加工をしている若者は、金属パイプを加工して笛を造って売り歩き、その売り上げを被災地に寄付しているという。
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