バニャーニャ物語

 日々虫目で歩く鈴木海花がときどき遊びに行く、風変わりな生きものの国バニャーニャのものがたり。

バニャーニャ物語 その13 「一なる香油」

2012-02-15 20:32:58 | ものがたり





作・鈴木海花
挿絵・中山泰
 


国境の町のむこう、
<ナメナメクジの森>を越えると
そこには、
ちょっと風変わりな生きものたちの暮らす国がある


*はじめてお読みの方は、「その7」にあるバニャーニャ・ミニガイドを
 ご覧ください。
 







 きのう降った雨がすっかりあがり、ホテル ジャマイカ・インの前庭で、
水滴を宿したエニシダの黄色い花房が、きらきらと輝いている午後でした。

 ジャマイカ・インの厨房は、そんなに大きくはありません。
でも主人のコルネが腕によりをかけて
お客さんたちの食事をつくるお気に入りの場所です。
厨房の壁には、
かつて七つの海を渡る帆船の船長だったころ
世界のあちこちで集めたスパイスのビンやら
料理の合間にちょびっとコルネが楽しむ上等なラム酒、
磨き上げた銅のフライパンや鍋などが並んでいます。

 ナナ・ウリエ・フォン・シュヴァンクマイエルと
そのお供シャルルの滞在もきょうで5日目。
他の宿泊客が出立してしまうと、
さっきから厨房にこもって、
コルネはなにかやっているようです。

 やがて「いっちょ、あがりーっと」という声がして、
スイングドアをひじで開けたコルネが
食堂のテーブルで体をもじもじさせているシャルルの前に、
大きな白いお皿をおきました。
お皿の上には、6種類のキノコが
生のまま並べられています。




 ラ・トゥール・ドーヴェルニュ国王のひとり娘ナナ・ウリエ・フォン・シュヴァンクマイエルのお供の旅で、
ナメナメクジの森でナメナメクジになめられてしまったシャルルは、
コルネの手当てのおかげで、きょうになって、
ひどいかゆみと悪夢はだいぶおさまってきましたが、
まだ全快とはいかないようです。
体じゅう、かきむしったカサブタだらけ。
かゆくて、たえず体をもじもじさせています。

 でも、目の前に置かれたお皿を一目見たシャルルは
とつぜん、かゆみを忘れてしまったかのように、
体をしゃきっとさせ、目を輝かせました。
「こ、これは!」
そういうと、お皿に顔を近づけて、しげしげとキノコを眺めました。
 
  キノコ料理が大好きなコルネは、
シャルルが無類の美食家で特にキノコ料理には目がなく、
国では「キノコ狂いのシャルル」と異名をとっている、
というのをきいて、すっかり意気投合。
きょうも、ナナが出かけてしまったのをいいことに、
朝とったばかりの春キノコをシャルルにふるまうことにしたのです。

「えー、左から順番に、
シイの老木に生えるバニャーニャアミガサ、
お次はミズナラの木に生える紫色のムラサキフウセンタケで、
ぬめぬめしている水色のがヌメリササタケといいまして、
黄色いのはカラマツ林に生えていたキイロナギナタダケ、
そのとなりが傷つけるとピンクの汁がでてくるハイイロカラチチタケ、
それにササクレヒトヨタケです。
きのう降った雨で、今朝は春キノコがにょきにょき出てきて、
採りきれないほどでしたよ」

 コルネはお皿の上のキノコのひとつひとつについて説明すると、
「いましばらく、お待ちを」というなり、また厨房に消えました。
そしてほどなくまたスイングドアが開いて、
こんどは、それぞれに料理されたキノコを載せたお皿が
シャルルの前に置かれました。
「目で見たあとは、味わわなくっちゃね」

 シャルルはもうすっかりかゆみを忘れたように、
目をつぶると、目の前で湯気をたてている、
きのこ料理の香りを胸いっぱい吸いこんでから
さっそくひとつを口に運びました。

「なんと!こんなすばらしい香りと歯触りのアミガサダケは初めてだ」
「そうでしょ、そうでしょ。バニャーニャだけに生えるこの赤いアミガサだけは、
他では味わえませんからね。
でもこの旨さをわかってくれるお客さんは、そうはいませんけどねぇ」
コルネが心からうれしそうにいいました。

 「うーん、秋のキノコももちろんすばらしいが、
春キノコにはそのぉ、新緑の森の精のかぐわしい息づかいのような
独特のアロマがあるのですねぇ。
いやあ、どれも初めて口にするものばかりで、
じつに美味でござりまする」
ひとつ、またひとつとキノコを味わうにつれ、
シャルルのカサブタだらけの顔が喜びに満ちていきます。





 ジャマイカ・インでふたりがキノコ談義でもりあがっている同じころ、
ジロのスープ屋では、
店の前の川沿いのヤナギ並木にそって並べられたテーブルで、
カイサとナナがちょっと遅いお昼ごはんを食べ終わったところでした。
隣のテーブルには、モーデカイやフェイ、シンカもいます。

 きょうのジロのおすすめ―マボロシハマグリと海藻のスープを食べ終わると、
ナナはテーブルにひじをついて、ため息をつきました。
「ああ、きょうもこんなところでむなしく時間が過ぎていくのは、たまらないわ。
わたしにはやるべきことがあるというのに」

「ナナさん、そのやるべきことって、なんなのか、
よかったら話してみてはくれませんか?
もしかしたら、なにか役にたてることがあるかもしれないし」
樹液のシロップをたっぷりかけた
ふんわり焼きたてのパンケーキをテーブルに置きながら、
ジロがちょっと遠慮がちにいいました。

「そうね、どうせシャルルのあのばかばかしいかゆみが治るまで
ここで足止めだし、あなたたちが役にたつとはとうてい思えないけれど・・・・
話してみてもいいわ」
 それをきくと、隣のテーブルのモーデカイたちも
ナナのまわりに集まってきました。
なにしろ、みんなずっとナナの探検の目的がなんなのか、
興味津々だったものですから。



 ナナは集まってきたみんなの前で、
腰にさげた皮の袋から
小さなガラスのビンを取り出しました。
ビンは丸くて平べったくて、表面には細かい複雑な模様が彫られています。
ナナがフタをとると
そこから、いままでかいだことのない
不思議な匂いが漂いだしました。



 「これが私の国の繁栄の源、『一なる香油』よ。
またの名を<幸福の記憶>とも呼ばれている、貴重な香油なのよ」
ナナは誇らしげにそういうと、
芳香のなかでうっとりと目をとじているみんなの顔を、
ぐるっとみまわしました・・・・・・ジロの心には、毛糸の舟で憧れの冒険の旅に出た、
あの春まだ浅い朝のことが、鮮やかによみがえってきました。

 カイサはずっと見たいと思っていたカメノコテントウムシを見つけた瞬間を、
シンカは「あめふり図書館」で博物学大百科に読みふけっている幸せな時間を
思い出しました。

 モーデカイの心には、何日もかかってついに気に入った揺り椅子が完成したときの
あのうれしさが、そしてフェイは、ひとりで冒険の旅に出てしまった仲良しのジロが帰ってきたときの、
飛び上がるほどうれしかった気持ちを思い出しました。

 「『一なる香油』が、<幸福な記憶>と呼ばれる理由が
みんな、よくわかったようね。
この、世界にふたつとない不思議な力をもった香油をつくりだすことで、
私の国は繁栄を築いてきたわ。
香油の調合法は秘密にされていて、
選りすぐりの調香師たちが
数知れない花や香草の香りを取り出す特別な技を駆使して
つくりつづけてきたのよ」
そこまで一気にいったナナはちょっと肩を落として
こうつづけました。

 「でも、その調合の最後に加えるものとして、
リュウゼンコウというものが欠かせないのよ。
リュウゼンコウは、花や香草の芳香を、
香油のなかに永遠に失われることのない記憶としてつなぎとめるために、
なくてはならないものなのよ」

 「ああ、それでこのあいだ店にきたとき、
リュウゼンコウを知らないか、って、いってたのか」
フェイがいいました。
「話のこしを折らないでちょうだい!」
ナナに、にらみつけられて、
フェイは首をすくめました。

 「どこまで話したかしら・・・」
「リュウゼンコウのところまでだよ」カイサがいいました。
「そうだったわ。国には代々伝えられた
リュウゼンコウの大きな塊があったのだけれど
長年使いつづけるうち小さくなり、ついに数年前に
最後のひとかけを使い尽くしてしまったのよ。
リュウゼンコウがなくては、『一なる香油』はつくれないし、
香油なしでは、我が国はどんどん衰退してしまうわ」
 
「それでナナさんが、リュウゼンコウを探す旅にでたわけですね」
ジロが、すっかり冷めてしまったテーブルの上のパンケーキを見下ろしながらいいました。
「そのとおりよ。わたしがこんなところでぐずぐずしてはいられない理由が、
これでわかったでしょ」

「リュウゼンコウのことは、ずっと前に本で読んだことがあったなあ。
たしかクジラが体から出す排出物だと書いてあったと思うけど」
シンカがいいました。
「は、排泄物ですって!失礼なっ。
わたしの国の存亡を左右する貴重なものが魚の排出物だなんて、
もう一度いったら許さないわよ!」

「ナナちゃん、その探しているリュウゼンコウって
どんな大きさや形のものなの?」
興奮気味のナナの気持ちを落ち着かせるように
カイサがききました。

「リュウゼンコウは厳重に保管されていて、
ごく一部の者しか目にしたことがないのよ。
私が一度だけ見たときにはもうかなり小さくなっていて、
白っぽくて、灰色っぽくて、石のカケラのような・・・・・・」
「ふーん・・・・・白っぽくて灰色っぽい小さな石のようなものを探すって、
とんでもなく難しそうだなあ」
カイサがためいき交じりにいいました。

「あなたにいわれなくったって、それはわかっていてよ。
だから私はいてもたってもいられない気持ちなんじゃないの!
でも、ただの石ころとリュウゼンコウを見分ける方法がひとつだけ、あるのよ。
銀の針の先を赤くなるまで火で熱して突き刺したとき、
それが本物のリュウゼンコウならば、
針がそのなかに入っていく、といわれているわ」
ナナがそういったときでした。

 川の向こうから、手を大きく振りながら
誰かがこちらに向かってくるのが見えました。
「あっ、シャルルさんだ。
もうかゆいの治ったのかな?」
カイサが手を振りかえしました。
「ふん、あの役たたずのオタンコナスが。
国へ帰ったらようしゃしないから」
ナナがいいました。

 橋をわたって、息を切らせながらこちらへやってきたシャルルは
顔中がまだカサブタだらけでしたが、
ジャマイカ・インにかつぎこまれたときに比べると
ずいぶん元気を取りもどしたように見えます。

「シャルルさん、具合はどう?」
カイサがいいました。
「はい、みなさまのおかげで、
またきょうはコルネさんが大好物のキ・・・・
あわわ・・・・いえ、そのぅ・・・ですね、
滋養のあるお食事を用意してくださって、
体と心に力が湧いてきたら、
かゆみも耐えやすくなりまして、
もう1,2日で完治しそうです」
「この失態は、国へ帰ったらお父さまにさっそく報告しますからね」
 ナナが、シャルルにきびしい口調でいいました。

 「ねえ、シャルルさんもこんなに元気になったし、
もうすぐふたりも国に帰っちゃうし、
明日は、みんなで貝殻島へ行かない?」
カイサがいいました。
「うん、それはいいね!
明日はぼく、店を休もうとおもってたんだ」ジロもいいました。
「あ、ぼくも砂屋を休んじゃおうかな」フェイもいいました。
「明日はお使いの仕事もないしな」とモーデカイ。
「ぼくの予報では、お天気もよさそうだよ」とシンカもいいます。

「ちょっと、勝手に決めないでちょうだい。
その、なんとか島って、いったいなんなのよ」
ナナがみんなを遮っていいました。

「ジャマイカ・インの桟橋からボートで20分くらいの所にある
海底火山の噴火でできた小さな島でね」
モーデカイがいいました。
「貝殻島って呼んでいるんだけど、
まわりの海は温泉みたいにあったかいし
バニャーニャとは違う植物や生き物がいっぱいいて、
気分転換にはもってこいだと思うな」ジロがいいました。

「いいですねえ、ナナさま、ぜひ行ってごらんになっては。
わたくしもお供いたしますです」
シャルルがいいました。
「あなた!なんだかやけにウキウキしちゃって、
私たちは物見遊山でここにいるのではないのよ!」
ナナがシャルルをにらんで、ビシっといいました。
「でもまあ、明日も特にやることもないし、
気晴らしにはなるかもしれないわ。
ただし!あさってにはどんなことがあろうと、出立しますからね」



 翌日はシンカがいったとおりのいいお天気でした。
ジャマイカ・インの前にある桟橋は
貝殻島へ行こうと集まってきたみんなでにぎわっていました。
きょうはお客さんがいないから、とコルネまでがいっしょに行くといい出しました。
「シャルルさん、貝殻島にはもしかして珍しい「アレ」があるかもしれませんぜ」
コルネがシャルルに耳打ちすると、シャルルは目を輝かせて
しーっと唇に指をあてました。

 何回かにわけてボートに乗り、全員が貝殻島につくと、
シャルルとコルネは、さっそく「アレ」をもとめて、
島のまんなかにある林のなかに入っていきました。

 シンカは去年タツノオトシゴを見つけてから、
ずっとその様子を見守っているので海のなかへ入っていきましたし、
モーデカイは、腰をかがめて浜辺に打ちあがっている海藻を拾いはじめました。
今夜のサラダにいれようかな、と思って。

 カイサは、砂浜にはえているハマボウフウの花にいる
サルガネハムシを見つけるのに没頭していますし、
フェイはなにか錬金術に使える生き物はいないかな、と
タイドプールのなかを熱心にのぞきこんでいます。

 ジロは、いっしょに連れてきたチクチクが
ママンゴーの木の下で、落ちている実に集まるハエをおいしそうに食べているのを
にこにこしながらながめています。

 こんなふうに、みんなが思い思いに好きなことをはじめたのですが、
ナナだけは、したいことが見つからず、
所在無げに海辺を歩きまわってときどき貝殻などを拾っては、
海に向かって投げていました。
やがて退屈したナナは、海辺に打ちあがった石の上に腰かけて、
おだやかにくりかえし寄せる春の海の波を、
ぼんやりと見つめていました。



 やがて島のまんなかあたりに生えていた
名前のわからない木の根元で珍しいキノコを見つけたシャルルが、
コルネといっしょに意気揚揚と、林のなかからできました。
キノコをもっていると、またナナに叱られそうなので
いそいでポケットにしまいながら、
海を見ているナナの後姿を見たシャルルの心のなかに、
とつぜん、ハッ!とひらめくものがありました。

「ナナさまぁー、ナナさまぁー」
シャルルは手を振りまわし、大声で叫びながら
ナナのほうに駆け寄りました。

「いったい、どうしたっていうのよ。
ひとが休んでいるというのに、
うるさい人ね」
カサブタだらけの顔を真っ赤にして、
息を切らせているシャルルを振り向いて、
ナナが眉をつりあげていいました。
 
「ナ、ナナさま、こ、こ、この石は、もしかして・・・・・」
「なんですって!」
ナナはそういうと腰かけていた大きな石から立ち上がり、
指先で石の表面に触りながら、しげしげと石を見ました。

「シャルル、あれを、早く!!!」
「ははっ、ただいま」
シャルルはそういうと、腰の物入れから
銀色に光る太い針とマッチをとりだし、
火で針先を赤くなるまで焼きました。
そして、震える指先で、
針先を石に突きたてました。



 すると―
石が針を受け入れるかのように、
ずずっと、なかに入っていき、
うっすらとケムリがたちはじめました。
シャルルが慎重に針を引き抜くと、
そこにはなにかねっとりしたものがまとわりついています。
ナナが祈るような面持ちで、
針先を鼻に近づけ、いいました。
「間違いないわ、調香師からきいたとおりよ、
シャルル、これはリュウゼンコウだわ!」

 「うう、ナナさま・・・・・・」
シャルルは砂にひざをついて、
感極まってうめくようにいいました。
「おおーい、みんなぁ、ナナさんとシャルルさんが
リュウゼンコウをみつけたぞー」
コルネが海岸のあちこちにちらばっていたみんなを大声で呼びました。

 みんなは、かわるがわるリュウゼンコウにさわってみました。
「ずいぶん長い間、海をただよってきたんじゃないかな。
干からびたエボシガイとか藻とかがこびりついてるし」
シンカがいいました。

 「リュウゼンコウは色が白いほど高品質だって、調香師がいっていたわ」
バニャーニャにきて以来、はじめて笑顔を見せたナナがいいました。
「これ、真っ白だもん、きっと最高級品だね」
カイサもそんなナナをみて、うれしそうにいいました。

 「これだけ大きなリュウゼンコウがあれば、
我が国はこれからもずっと
『一なる香油』をつくりつづけることができるでありましょう」
そういうシャルルの顔のカサブタの上を、
ひとすじの涙がつたって落ちました。

 翌朝。

 「こんなところで、1週間も時をムダにしてしまったかと思ったけれど、
ぶじにリュウゼンコウを見つけることができて、
これで私の国も繁栄をとりもどすことができるわ」
ボートに乗りこんだナナがいいました。

「みなさま、ほんとうにお世話になりました!
バニャーニャのことは決して忘れません」
コルネが丈夫な帆布で包んでくれたリュウゼンコウをしっかり押さえながら、
シャルルがいいました。
「じゃあ、そろそろ舟を出しますぜ」
国境の街の海岸まで、ふたりを送っていくことになったコルネが
ボートのもやい綱をほどきました。

 ナナとシャルルは、帰りは半島をぐるっとまわって、
海側から国境の街へ入ることにしたのでした。
シャルルは二度とナメナメクジンの森を通るのはごめんだといいますし、
リュウゼンコウは、背負っていくには大きすぎましたから、
国境の街で乗り物をやとうことにしたのです。

 「わたし・・・わたし、いつかまた、
バニャーニャに来ようと思うのよ」
ボートが桟橋を離れはじめたとき、
とつぜん、ナナが大きな声でいいました。
「カイサ・・・・・・あなたとまたバニャーニャをあちこち、歩き回りたいのよ」
「ナナちゃん、やっとあたしの名前おぼえてくれたねー。
またきっとおいでよ、待っているよ!」

 やがて3人をのせたボートが、
半島のカーブにそって見えなくなると、
ジロは空をみあげ、目を細めてつぶやきました。
「日差しが強くなってきたなあ」。
石舞台につづく丘の木々の緑も日ごとに勢いを増し、
春から夏へ、季節が移ろうとしていました。
 

 

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 もうずいぶん前のこと。
その日、わたしはいくつものトラブルが重なって、
ひどく落ち込んでいました。
そんなわたしを友人が、
近所に住む母親が丹精しているバラが満開だから、
と誘ってくれました。

 5月の庭には、赤、ピンク、オレンジ、黄色、白と、
色とりどりのバラが、咲いていました。
お茶をごちそうになって帰ろうとすると、
友人の母親が、
1本のオレンジ色のバラを切って、
私に手渡してくれました。
なんというバラだったのか、教えてもらった名前はもう忘れてしまいましたが、
いただいたバラを鼻に近づけた私は、びっくりしました。

 近頃のバラは、その姿形の華麗さを追求する改良を加えられて
美しい姿を得た代わりに、香りを失ってしまっている種類が多いのですが、
そのバラの香りの強かったこと!
摘まれたばかりの、新鮮な全草から立ちぼる青っぽい香りと、
ぱあっと広がる花がふりまく香りが混ざった、
みずみずしくも力づよい香り。
もう一度鼻に近づけて息を深く吸うと、
それまで自分の心の上に垂れ込めていた灰色の雲のかたまりのようなものが、
さあっと晴れていくのがわかりました。

 今でこそ、アロマテラピーが普及し、
香りが心(脳)や体に強い力を及ぼすことが知られてきましたが、
そのころ、まったくそんな知識もなかったわたしは、
ただただ、自分の感じた香りの力に驚くばかりでした。

 やがて植物のエッセンスを閉じ込めた精油が売られるようになると、
アロマテラピーの本を読み漁り、
いろいろな精油を買うようになりました。
精油は本に書いてある効用にとらわれず、
そのときの自分の体調や気持ちによって、
いちばんいい香りだと感じたものを買います。


 なかでも特別大好きなのが、
インド産のジャスミンの一種「ジャスミン・サンバック」。
甘すぎず、どこかに緑の香りを宿しているところが
ふつうのジャスミンとは違うところ。
インドのジャスミンというと、
濃い闇の中で重く甘く香るイメージですが、
私はこれを嗅ぐとなぜか、
子供のころ、まだ寒い春に満開になる「おばあちゃんの水仙畑」で、
大きく息をしたときのことがよみがえってきます。

 そして、もうひとつ、気持ちが落ちこんだり、
心身ともに疲れた時に愛用しているのが、
ブルガリア産の「ローズ・オットー」。
精油屋さんの店先で、この精油の香りをかいだときのことは、
今も忘れられません。
嗅いだ瞬間に、華やかで晴れやかな、
悩みなんか吹き飛んでしまうパワーに
うわーっと包まれた感じ。
その圧倒的な芳香に、理性も吹き飛んでしまったようで、
気がついたら、値段も確かめずに「これください」と
店員さんにいっていた。
わたしにとっては宝ものともいえるこのふたつの精油をそばにおいて、
『一なる香油』の話を書きました。


 そして、リュウゼンコウ。
漢字だと、龍涎香。

 横浜の磯子という海岸沿いの町に生まれたので
こどものころから遊びといえば、
海辺でカニを追いかけたり、アサリを掘ったり、
流れ着いたいろんなものを拾うことでした。
大人になってもこの「拾いグセ」は治らず、
貝殻を集めるようになりました。
そして「海辺の拾い人」の憧れといえば、リュウゼンコウです。

 いまでは、ビーチコーミングなどと呼ばれ、
貝殻だけでなく、陶片、外国のライター、流木、動物の骨や漂着した種などなど
いろいろな拾いものを楽しむ人が増えてきましたが、
金塊と同等の、あるいはそれ以上の価格で昔から取引されている、
ときには拾った人の人生を変えてしまうとまでいわれる漂着物です。

 そもそもリュウゼンコウとは?
シンカがいったように、マッコウクジラの排泄物。
深海にすむダイオウイカを食べたマッコウクジラの体内で
消化されないイカの「カラストンビ」(口の部分)が、
なにかの拍子でクジラの腸に突き刺さると、
特殊な脂肪が分泌されてカラストンビを包み込むように大きな塊を形成し、
それが肛門から排出された、つまり結石のようなもの、というのが通説。

 高価であるため、マッコウクジラを切り開いて、
直接体内から取り出すようなことも行われていたことがあるそうですが、
とりだされたばかりのリュウゼンコウはけっしてよい匂いとはいえず、
長期間海に漂い、太陽の紫外線にさらされ、
波にもまれ、酸化することでえも言われぬ香りが熟成されていくらしい。
 黒、茶色、灰色、白といろいろあって、
白いものが香料としては極上品なのだそう。

「浮かぶ金塊」の異名もあるリュウゼンコウは、
大昔から世界各地の海辺で発見されており、
なかでも琉球で見つかることが多かったようです。
大きさは小石くらいのものもあれば、
大人が抱えられないほどの大きさのものまでさまざま。
まわりは石そっくりのざらざらしたものもあるし、
ときにはプラスチックのボールのような質感のものもあるといいます。


 リュウゼンコウそのものの匂いは、
「強いフェロモン様の匂い」とか「ずっと嗅いでいたくなる匂い」とか
「麝香のような甘い土の芳香」とか、「湿った林のなかを思い出させる」
などといわれています。
クレオパトラや楊貴妃も使っていたという「香料のなかの至宝」と呼ばれるリュウゼンコウは、
香水産業のなかで、大昔からもっとも高値で取引されていたいっぽう、
薬用や料理にも使われていたそうです。

 沖縄の記録によると、石垣島のお百姓さんが見つけたものは約100キロ。
今の価格に換算すると、2億3千万円相当だったといいますから、
拾ったら人生が変わるというのもうなずけます。

 南太平洋の島に詳しい友人から、
ダイビングで有名なツアモツ諸島で見つかったことがあるときき、
貝を拾いに行ったついでに、リュウゼンコウはないかなあ、
と目を凝らしたこともありましたが
旅行者がそうやすやすと幸運に恵まれるものではなく。

 でも、でも!以前このブログで『南の島移住記』を紹介した、
ランギロア島の西村直子さんから去年、
「このあいだ村人が、リュウゼンコウを拾ったのだけれど
日本人は買わないか、と持ってきた」という話が。
リュウゼンコウは、香水会社が目の色をかえて探しているものではありますが、
普通の人が持っていても、置物にするくらいしか使用法がないと思われるので、
直子さんのご主人が「そんなもの買う人いないよ」といったら
すごくがっくりきていたそう。
拾ってもそう簡単にはお宝にはならないようです。

 一見、石のように見えるリュウゼンコウの見分け方は、
話のなかでシャルルがやったとおり、
火で焼いた針を使うそうです。

 えばりんぼうのナナと、
国の大事よりも自分の楽しみのほうが大事、という
マイペースのシャルルは案外いいコンビ。
みごとにリュウゼンコウを見つけました。
お騒がせな春の珍客が去ったあとのバニャーニャは、
またいつもののどかさを取りもどしたようです。