作・鈴木海花
挿絵・中山泰
国境の町のむこう、
<ナメナメクジの森>を越えると
そこには、
ちょっと風変わりな生きものたちの暮らす国がある。
*はじめてお読みの方は、「その8」にあるバニャーニャ・ミニガイドを
ご覧ください。
バニャーニャ物語 その20 「ぼく、誰だっけ?」つづき
翌朝、目をさましたヒュウくんは、「ん?ここはどこだろう?」といっしゅん頭のなかがグルグルしましたが、すぐに、そうだ!きのうはホテルに泊まったんだった、と思い出すことができました。
朝陽の差し込む食堂に降りていくと、ぱりっとした白いクロスのかかったテーブルに、ココアのカップが湯気をたて、そのそばにバターがたっぷりしみこんだきつね色のトーストと、生野菜をたっぷり添えたオムレツのお皿が載っていました。
「おう、おはよう、よく眠れたかい?」
厨房から出てきたコルネがいいました。
「おはよう。なんだか夢をみたような気がするけど忘れちゃった。でもよく眠れました」
「そりゃ何よりだ。朝ごはんがちょうどできたところさ」
コルネがテーブルの上をさしていいました。
ヒュウくんのおなかが「ぐぅっ」と鳴りました。
「ヒュウくん、おっはよー!」
ココアを2杯おかわりして、朝ごはんがすんだところへ、カイサがやってきました。
バニャーニャに来たばかりのヒュウくんが、たきぎ集めに行くのに、きょうはカイサが道案内をしてくれることになっているのです。
「まず、ジロの店の川向うにある雑木林にいってみようか」
ヒュウくんはオレンジ色のリュックを背負うと、コルネから渡されたタキギをいれる袋をもってカイサといっしょに出発しました。
きょうはいいお天気。
道端には、カラスのエンドウやタンポポ、オドリコソウやタチツボスミレなどなど、春の草花がいっぱいです。
「あ、テントウムシの幼虫がいるよ、どんなテントウムシになるのかなあ」
カイサが、カラスノエンドウの花でアリマキをムシャムシャ食べている小さな虫を見ていいました。
「それがテントウムシになるなんて、ぼくちっとも知らなかった」
ヒュウくんが目を丸くしていいました。
「みてみて!もうバニャーニャハナムグリが出てきてるよ」
こんどはヒメジョオンの花に頭をつっこんで花粉を食べている虫を指さしてカイサがうれしそうな声をあげました。
「ピンク色にピカピカ光っているね。こんな虫はじめてみたよ」
「シンカがいうには、この虫はバニャーニャにしかいない珍しい虫なんだってさ。これに会うと、春だーって気がするんだ」
カイサの声がうきうきしています。
ヒュウくんもなんだかうきうきしてきました。
ふたりは道草しながら、春風のなかをぶらぶら歩いていきました。
すると、ヒュウくんがいきなり立ち止まって、いいました。
「あれ、この木、なんだろう?見たことないなあ」。
「それはポポタキスだよ。ポポタキスもバニャーニャにしかない木なんだって。美味しい実がなるんだよ」
カイサがポポタキスの実をひとつとって、ヒュウくんにわたしながらいいました。
「あれ、あっちの木の下で、実がぽんぽん跳ねてる!」
カイサのまねをして、ポポタキスの実をチュウチュウ吸いながら、ヒュウくんが目を丸くしていいました。
「ポポタキスの実はね、熟して地面に落ちると、しばらくああやって元気にはねまわるんだ」
「これ……おいしい!」
ヒュウくんはそういうと、やにわに背中のリュックを下ろして、なかからスケッチブックとクレヨンを取り出し、草の上に座って、一心にポポタキスの木の絵を描きはじめました。
「わあ、ヒュウくんって、絵が上手なんだねえ」
できあがった絵を見て、カイサがいいました。スケッチブックの上に、まるでポポタキスの木が生えたみたいに、それは活き活きと描かれていましたから。
「あ、思い出した!こうやって木の絵を描くために、いつもスケッチブックとクレヨンを持っていたんだった」
ヒュウくんがにっこりしていいました。
ふたりはポポタキスの実をいくつかポケットにいれると、またあっちこっちで足を止めて道草しながら、ジロの店のそばにある雑木林を目指しました。
雑木林のなかには、冬のあいだに枯れた小枝が地面にいっぱい落ちていましたので、コルネに渡された袋はたちまちいっぱいになりました。
「ふう、これだけあればもういいね。お腹が空いたとおもったら、もうお昼だよ。ジロの店で、美味しいスープでも飲もうよ」
カイサがいいました。
「でもぉ・・・・・・ぼくルーン、もってないよ」
「だいじょうぶ、ほら、この木の根元にいっぱい咲いてるニオイスミレをつんでいこう。お店のテーブルの上に飾るのに、ちょうどいいから、ジロよろこぶよ」。
橋を渡ると、ジロの店が見えてきました。
あたたかくなったので、ジロの店では川岸にテーブルを並べています。お客さんは川の流れる音をききながら、スープを飲んだりパンを食べたり。
すると、ヒュウくんが川岸に沿って並んでいるヤナギの木を見ていいました。
「サリックス アルバ トリティス」
「えっ、なになに?」カイサがききました。
「サリックス アルバ トリティス……シダレヤナギの名前」
ヒュウくんはそうつぶやくと、またリュックからスケッチブックを取り出して地面に座り、やわらかい小さな黄緑色の芽をたくさん出して、ゆったりと風に枝をゆらせているヤナギの木の絵を描きはじめました。
「おおい」と声がして、ジロが手振りながらやってきました。
「ヒュウくん、元気そうでよかったよ。あれ?絵を描いてるの?うまいなあ、まるで絵の中でヤナギが枝をゆらせているみたい」
ヒュウくんの絵をみたジロが感心したようにいいました。
「あのぉ……スープ飲みたいんですけど、これで足りますか?」
絵を褒められて恥ずかしそうにしていたヒュウくんが、ニオイスミレの束を差し出してジロにいいました。
「うーん、なんていい香りなんだろう。これだけあれば、全部のテーブルに飾ることができるよ。ありがとう。お礼に好きなスープ、なんでも飲んでいいよ」。
「ジロ、きょうのスープはなに?」カイサがききました。
「春キャベツとえんどう豆とアスパラガスの緑尽くしスープと、掘りたてのタケノコと海藻に、マスのお団子が入ったスープだよ」。
「わっ、どっちも美味しそう」
「じゃあ、両方飲むといいよ」。
ジロはそういうと、いそいそと調理場に向かいました。
カイサとヒュウくんがテーブルに座ると、ヒュウくんの足元にトゲトゲしたものがころがってきてぶつかりました。
「ひゃっ!」
ヒュウくんが驚いていうと、
「それはチクチクっていうの。チクちゃん、冬眠から目がさめたんだね」
「チクチクさん、こ、こんにちは」ヒュウくんがいうと、チクチクはヒュウくんを見上げて「タタタタ、タタ」というなり転がるように、川のほうへいってしまいました。
「な、なんていったの?」
「ハエ、食べたいーって、いったの」カイサが笑いながらいいました。
「チクちゃんはハエが好物なんだ」
ふたりがゆっくりとお昼ごはんを食べ終わるころには、他のお客さんは誰もいなくなっていました。
ジロが前掛けで手をふきふき、ふたりのテーブルにやってきて、椅子に腰かけました。
「ヒュウくん、タキギは集まった?」
「カイサさんが手伝ってくれたんで、もうこんなに」
ヒュウくんが足元の袋を見せていいました。
「じゃあ、明日はぼくの手伝いしてくれない?」
「ぼくにできることなら、なんでもやります!」
ヒュウくんがいいました。
「畑の収穫を手伝ってほしいんだ。あしたはデザートにクリームがけの三月イチゴを出そうと思っているんで、イチゴを摘んで、それからインゲン豆の皮むきも手伝ってもらえると、助かるなあ。 あ、それが終わったらさ、モーデカイの<よろずや>と、アザミさんのブーランジェリーにパンを買いに行くのを手伝ってほしいんだ」
「わあ、イチゴ摘み、してみたいな。それによろずやさんやパン屋さんにも行ってみたいや。バニャーニャのいろんなところへ行ってみたくなっちゃった。だって、バニャーニャにはいろんな木があるんだもん」
ヒュウくんが顔を輝かせていいました。
「ヒュウくんって、木が大好きみたいだね。木の絵を描きだすと、なにもかも忘れちゃうみたい」カイサがいいました。
翌朝、ヒュウくんは朝ごはんがすむとすぐ、ジロのスープ屋へ向かいました。
「はやいね。でも助かるよ、お昼にはお客さんが来るからね、その前に用事をすませちゃいたいんだ」
ふたりは収穫用のカゴをもって、店の横にある畑に行きました。
「こんな真っ赤なイチゴ、見たことないよ」ヒュウくんがいいました。
「バニャーニャの三月イチゴは、粒は小さいけど、なかまで真っ赤でルビーみたいなんだよ、ひとつ食べてみて」
ジロが、摘んだばかりの三月イチゴをヒュウくんの口に入れてくれました。
「おいしい!甘くて酸っぱくて、味が濃いや」
「あとでモーデカイの<よろずや>で、クリームを買って、これにかければ、みんなの大好きなデザートのできあがりだよ」
それをきいたヒュウくんののどがゴクリ、と鳴りました。
カゴいっぱいにイチゴを摘んだ後は、ポタージュスープにするインゲンマメのサヤをむいて、
「よしっ、これですっかり準備できたぞ。それじゃあ、こんどはいっしょにアザミさんとモーデカイの店の買い物、手伝ってね」ジロがいいました。
ふたりはカゴをさげて、アザミさんがやっているパン屋さん「ブーランジェリー・アザミ」に向かいます。
アザミさんの店が見えてくると、ヒュウくんは、とつぜん立ち止まりました。
「あれ、どうしたの?」ジロがきくと、ヒュウくんは、アザミさんの店の脇にある大きなクスノキを指さしていいました。
「シナモア・カムフォーラ!」
そして、いきなり駆け出したので、ジロはびっくり。
クスノキは一年中、つやつやした葉をつけていますが、春の葉は特にみずみずしくやわらかそうで、たくさんの葉っぱが風にゆっくりとゆれるようすは、いろんな緑色が混ざった体をした大きな生きもののようです。
ヒュウくんは、クスノキの根元に腰をおろすと、リュックからスケッチブックを取り出して、クスノキを見上げながら絵を描きはじめました。
一枚のページいっぱいに、大きなクスノキの絵ができあがると、ふたりはアザミさんの店にはいっていきました。
お店のなかには、焼きたてのパンの香ばしい香りが満ちています。
「あら、あなたがもしかして……ヒュウくん?」
アザミさんがいいました。
「カイサからウワサはきいているわ」
「はじめまして、ヒュウです」
「きょうはね、ぼくの手伝いをしてくれているんだ」
ジロがにこにこしていいました。
「きょうはふたりだからいつもよりたくさん持てるから棒パンを10本ください。あ、それに発酵バターも2ビン。ハチミツはまだ採れないのかな?」
冬のはじめの大嵐で、アザミさんが丹精してきた裏庭のミツバチの巣が吹き飛ばされてしまったのです。
「ええ、もうちょっとだけ待ってね。少しずつハチがもどってきているから、もうすぐまたミツが採れるようになると思うわ」
「あ、思い出した!ぼく、ハチミツ大好きだったんだ」
ふたりの話をきいていたヒュウくんがとつぜんいいました。
「まあ、よかった、少しずつ忘れていたことを思い出しているのね。それじゃあ、ちょっと待ってね」
アザミさんはそういうと、店の奥へ入って行きました。
「はい、これヒュウくんにプレゼント。嵐の前に採れた最後のハチミツなの。樹木蜜っていってね、樹に住んでいるちっちゃな虫の出す蜜を、ミツバチが集めてきたものなのよ」
アザミさんはそういうと、ヒュウくんにひとビンの、こっくりした色のハチミツのはいったビンを渡しました。
「わあー、ありがとうございます!」
ヒュウくんはハチミツのビンをだいじそうに背中のリュックにしまいました。
ジロとヒュウくんは5本ずつ棒パンをもって、次はモーデカイの<よろずや>に向かいました。
「やあ、きみがココア好きなヒュウくんだね」
モーデカイが、お店のひさしから、顔をのぞかせていいました。
「あれから、みんなが欲しがるものだから、きのう国境の街で、缶入りのココアをたくさん仕入れてきたところだよ」
「じゃあ、さっそくひと缶もらおうかな」ジロがいいました。
ジロがあれこれ買い物をしている間、ヒュウくんは地面に座り込んで、店の横に立っている木の絵を描き始めました。
「あのう……モーデカイさん、この木、なんていう名前か教えてもらえますか?」
「ああ、その木はたしかタイサンボクっていうんだったかな。もうすぐ大きな白い、いい匂いのする花をつけるんだよ」
「タイサンボク……学名はなんていうのかなあ?」
ヒュウくんはリュックから小さな植物図鑑をとりだして、調べはじめました。
「これには出てないなあ」
「うーん、じゃあね、あめふり図書館へ行けばもっと大きな図鑑があるかもしれないよ」
「あめふり図書館?バニャーニャに図書館があるんですか?!」
「うん、いつもシンカがいて、調べ物の手伝いをしてくれるよ」
ジロがいいました。
「行ってみたいなあ」ヒュウくんがいいました。
「じゃあ、ついでにこの本、返してきてくれないかな」
モーデカイが棚の後ろから一冊の本を取り出していいました。
「あ、ぼくも借りっぱなしの本があるんだった。いっしょに返してもらえると助かるし、お使いをしてくれたら、そのお礼でホテル代が払えるし。それじゃあ、店に帰ってお昼を食べたら、図書館までの地図を書いてあげるね」
ジロがいいました。
翌朝、ヒュウくんは、モーデカイとジロから預かった本をもって、あめふり図書館目指して出かけました。
「バニャーニャって、ほんとにタンコブみたな形をしているなあ」
ジロが書いてくれた地図を見ながら、ヒュウくんは思いました。
いつものように、道草をしながら歩いていくと、古めかしいお屋敷のような建物が見えてきました。
「あ、あれが図書館かな」。
でもまずヒュウくんの目にはいったのは、建物をおおうように枝を広げているシラカシの木でした。
あたりの地面にはチョッキリが切り落としたのでしょうか、きれいな緑色のドングリのついた小枝がいくつか落ちています。
「クエルクス ミルシナエフォリア」
ヒュウくんはそうつぶやくと、リュックからスケッチブックを取り出し、地面に座りこんで、シラカシの絵を描きはじめました。
絵ができあがると、ぱんぱんと、おしりについた枯葉を払ってから図書館の重い扉をあけました。
そこは背の高い本棚が立ち並ぶ、大きな図書館でした。
見たところ、館内には誰も見当たりません。
ヒュウくんは、おずおずと本棚を見上げながら歩き回りました。
「うわっ、びっくりした!ヒュウくんじゃないか」
オーロッパ文学の棚の後ろから、シンカが急に姿をあらわしたので、ヒュウくんもびっくり。
「ええと、ええと、ぼく調べたいことがあってきたんです」
「へえ、調べたいことって、なに?手伝おうか」。
「あの、モーデカイさんの<よろずや>のそばに立ってるタイサンボクっていう木の学名が知りたくて」。
「タイサンボクねえ……あ、植物図鑑の棚は、こっちだよ」。
「たぶんこの図鑑に載っているんじゃないかな?」
シンカが、棚の上のほうにある、分厚い植物図鑑をひっぱりだして、読書机の上に広げました。
「あっ、あったあった、マグノリア グランディフローラ、だって」。
シンカがページを指していいました。
「マグノリア グランディフローラ……そうかぁっ、タイサンボクはモクレン科の木なんだ!だからマグノリアで、大きな花を咲かすからグランディフローラなんだ」
「ヒュウくん、すごいなあ、ラテン語がわかるなんてさ」。
「ううん、ぼくラテン語なんて知らないよ。でも学名だとその木について、いろんなことがわかるから面白いなって」。
「あ、そうだ、忘れてた、これジロとモーデカイから図書館に返して欲しいって頼まれてたんだった」
ヒュウくんはリュックから2冊の本を出して、シンカに渡しました。
「どっちも返却期間をかなり過ぎてるぞ、しょうがないなあ。ヒュウくんありがとう」。
シンカは2冊の本をもって、返却ノートに記入するために、受付カウンターのほうへ行きました。
「ここ、りっぱな図書館だなあ。ぼく、バニャーニャに来る前にも、大きな図書館によく行ってたこと、思い出した!」
「へえ、またひとつ思い出せてよかったねえ」
「あ、そうだ、ヒュウくん、みんなの手伝いをしているんだよね」
「うん、ジャマイカインに泊まるルーンがいるんです」
「それじゃあ、明日はぼくの手伝いしてよ」
シンカはそういうと、カウンターの下から、真新しい一冊の本を取り出しました。真っ黒な表紙に金色の押し文字で、『名探偵ココスの冒険シリーズ 南海の死闘の巻』と書いてあります。
「石舞台に住んでいるバショーがリクエスした本がきょう届いたんだ。きっとバショーは早く読みたくてうずうずしていると思うから、きみが明日届けてくれたら、きっとすごく喜ぶと思うんだけど」。
「わあ、明日の手伝いが見つかって、よかった。でもぉ……石舞台って、どこにあるのか、ぼくわかんないや」。
「大丈夫、丘のふもとから見上げれば、頂上にあるブナの大木がよく見えるから、そこを目指して行けば迷いっこないよ。バショーはそのブナの樹に住んでいるんだ」。
ブナの大木がある、ときいたヒュウくんの目が輝きました。
「おっきなブナの樹があるの?!ぼく、行きたい!配達まかせてください」
翌朝、ヒュウくんは、コルネに丘のふもとまで連れて行ってもらいました。
シンカがいったように、見上げるとよく晴れた青空を背景に、こんもりとしたブナの巨木が見えました。
「さあて、と。ここからはひとりで行けるかな」。
コルネが水筒をわたしながらいいました。きょうは気温が上がって、暑いくらいです。コルネは冷たくしたココアを水筒に用意してくれたのです。
「コルネさん、ありがとう。行ってきます」。
ヒュウくんはうれしそうに水筒を受け取ると、元気に丘を登りはじめました。
丘全体が、甘い春の香りに包まれて浮かれているかのように、道の両側には、びっしりと草花が生えています。
ときどき足を止めて深呼吸したり、水筒の冷たいココアを飲んだりしながら、ヒュウくんはブナの樹を目指しました。
ついに丘の頂上に着くと、「ファガス・シルヴァティカ」
ヒュウくんは、目印にしてきたブナの古い大木を見上げてつぶやきました。
そこは、なんとも不思議な場所でした。
なるほど、これが石舞台かぁ、とヒュウくんは、半円形になった石のイスや、舞台を見下ろして思いました。
それにしても、なんて美しい海でしょう!
はるかにつづく石灰石の崖に映える薄緑から濃い青色とさまざまに色の混じった海の美しさに、ヒュウくんはしばし見とれていました。
「ほい、なんとおったまげた!ヒュウくんじゃないか」
その声とともに、濃い緑色の葉がみっしりと生い茂ったブナの枝のなかから、バショーが転げ落ちてきました。
「バショーさん、だいじょうぶ?」
ヒュウくんがかけよっていいました。
「アイタタ。なに、いつものことじゃよ。ちょっと居眠りしておったんじゃ。なんせ春風が気持ちいいからのう。よくひとりで迷わずにここまで登って来られたものじゃわい」
「このブナの樹を目印にきたので、ぜんぜん道に迷わなかったよ」
「ぼくシンカに頼まれて、図書館に入った本を届けにきたんです、これ」
ヒュウくんはシンカから預かった黒い表紙の本を差出しました。
「おお、それは!首を長くして待っとったんじゃ。ありがとう」。
バショーは『名探偵ココスの冒険シリーズ 南海の死闘の巻』を受け取ると、だいじそうに、胸の羽毛のなかにしまいました。
「あのぉ、バショーさんは、このブナの樹に住んでいるんですか?」
「そうじゃよ、もうずうっと昔から、ここに住んどるんじゃ」。
「樹に住むなんて、うらやましいなあ」
ヒュウくんはうらやましそうにそういうと、リュックからスケッチブックを取り出して、ブナの樹の絵を描き始めました。
「ほう、いままでこのブナの樹を絵に描こうとしたものは、ひとりもおらんかった。きっと樹も喜んでいるに違いないわい」。
できあがった絵を見ながら、バショーが感心していいました。
「どれどれ、どのページも樹の絵ばかりじゃわい。あんたは樹が好きなんじゃな」
「うん、ぼく……樹が大好きなのを思い出したよ!それからココアとハチミツが大好きなのも、思い出した」
「そうじゃそうじゃ、だれもがそれぞれの「好きなこと」でできあがっているんじゃ。だから自分が好きなことを思いだせば、自分のことがわかるというものじゃ」。
バショーが目を細めながらいいました。
「ところで、そんなに樹が好きなんだったら、バニャーニャのモミノキ林に行かにゃならんて」。
「モミノキ林?」。ヒュウくんの目が輝きました。
「明日はわしが、モミノキ林に案内しよう」
「わーい!」と飛び上がってから、ヒュウくんはちょっと顔をくもらせていいました。
「でも、ぼく明日もジャマイカインに泊まるために、なにか手伝いをしないといけないんだけど……」
「それなら、なーんの心配もないワイ。今ごろのモミノキ林には、コルネの大好物がわんさと出ているじゃろうから、それをカゴいっぱい採って行けば、1週間でも2週間でもジャマイカインに泊まれるさ。それじゃあ明日、丘のふもとで待っとるからな」
バ ショーはそういうと、ブナの梢に座って、さっそく『名探偵ココスの冒険』を読みだしました。
翌朝、ヒュウくんが丘のふもとで待っていると、バタバタとバショーが風を切って翼を鳴らしながら飛んできました。
ふたりは連れだって、バニャーニャの東にあるモミノキ林に向かいました。
林に近づくにつれ、道にはモミの折れた枝が重なるように落ちていて、そのうえを踏んで歩くと、針葉樹のすっきりした香りが立ちのぼってきました。
「ああ、いい匂いだなあ。ぼくこの匂い大好きなの、思い出したよ、針葉樹の香りだ」
立ち止まって、深く息を吸いこんだヒュウくんがいいました。
空を目指してまっすぐに伸びている丈高いモミノキが、たくさん立ち並んで、あたりは薄暗くひっそりとしています。
「アビエス アルバ」。
ヒュウくんはつぶやくと、いつものように、座りこんで、スケッチブックを広げました。
林のなかは、ひっそりとして、ときおりカッコウの鳴く声がきこえるだけです。
「さあてと、絵が描けたら、こんどはコルネの大好物を採るとしよう。ほれ、そこにも、あそこにも、たっくさん出てるワイ」
バショーが翼で差した方を見ると、湿った木の根元にニョキニョキと出ていたのは、皺のよった筆先のような形をしたキノコでした。
「アミガサダケじゃよ、春のアミガサだけはコルネの大好物でな」
カゴはじきにアミガサダケでいっぱいになりました。
「ほう、今年は豊作じゃワイ。でもちょっとくたびれたな。ヒュウくん、帰りにちょっとジロのところへ寄って、お茶にしようかい」。
バショーが、腰のあたりをトントンとたたきながらいいました。
バショーとヒュウくんがジロの店へ行くと、川辺のテーブルでフェイ、モーデカイ、カイサ、シンカが顔をそろえて、お茶を飲んでいました。
「ヒュウくん、ずいぶんいろんなことを思い出したんだってね!よかったねえ」
カイサがいいました。
「うん、ぼくね……ぼく木が、特に針葉樹が大好きだってこと、きょうモミノキ林にいって思い出したんだ」
ヒュウくんはうれしそうに、みんなに木の絵でいっぱいになったスケッチブックを見せました。
「ヒュウくんが描くと、どの木もみんな違ってて、活き活きしている感じだなあ」
モーデカイがいいました。
「あの、ぼくお願いがあるんだけど……」
ヒュウくんがとつぜん、フェイに向かっていいました。
「えっ?なに?ぼくにお願いって」
「ぼくがはじめてバニャーニャに来た時の場所に、もう一度いってみたいんだけど」
「ええっ、あそこぉ……あそこはさ、ぼくだけの秘密の釣り場なんだぜ」
「あら、あたしも行ってみたいな、フェイの釣りの邪魔なんてしないからさ」
カイサがいいました。
「じゃあ、明日みんなでそこへピクニックに行こうよ」
ヒュウくんのために、ココアを淹れてきたジロがいいました。
「いいねえ、明日は図書館がお休みだし、ぼくも行くよ」
シンカがいいました。
「それじゃあ、おれも明日は店を閉めて行こうかな」。
<よろずや>の店を開いてからまだ一日も休んでいないモーデカイがいいました。
「腰の調子がよかったら、わしも行くワイ」
バショーがいいました。
「しょうがないなあ、じゃあ、ぼくのとっておきの場所に、みんなを案内するかな」
フェイがしかたなさそうにいいました。
そんなわけで、春たけなわの一日、みんなは連れだって川の上流へ、ピクニックに出かけました。
水底の石や水草が透けて見える澄んだ川に沿って、上流への道なき道を登って行くと、お昼頃にはまわりを木々に囲まれたちょっと開けた場所に着きました。
「ここがぼくの秘密の場所だよ。もう秘密じゃなくなっちゃったけどさ。ヒュウくんを見つけたのは、あの木の根元だよ」
フェイが差した方をみたヒュウくんが、「あっ!!!」というなり、川のなかの石を伝って、木の方へダッシュしたので、みんなはあわてて後を追いました。
「……」。
ヒュウくんは、言葉もなく一本の木を見上げていました。
それは、地面からまっすぐに立ち上がっている木でした。
「ピセア マリアナ」。
ヒュウくんが小さな声でつぶやくようにいいました。
「最初に来た時は、気がつかなかった。ぼくの夢見た木はここにあったんだ」。
ヒュウくんは、そういうと、両手を広げて、木の幹を抱きしめました。
「へえ、この木、そんなにすごい木なの?」フェイがいい、集まってきたみんなは木を取り囲んで見上げました。
「まるで天まで昇っていけそうな、まっすぐな木だなあ」
ジロがいいました。
「ねえ、上の方の枝に、ちっちゃな紫色の松ぼっくりの赤ちゃんみたいなのがあるよ」
カイサがいいました。
「一枝、ほしいなあ……でも、あんな上のほうじゃ届かないや」
ヒュウくんがいいました。
「それじゃあ、ワシがちょいと採ってこよう」
くたびれてモーデカイの肩にとまっていたバショーが、飛び立ちました。
「ほれ、これでいいかな。なんとも美しい木じゃワイ」
「わあ、バショーさん、ありがとう!」
ヒュウくんはそういうと、リュックから紙コップを取り出し、ひと握りの土をいれてから、川の水を注いで湿らせ、そこにバショーから渡された小枝を挿しました。
「そうか、リュックのなかの紙コップは、こういうときのためだったんだね」
シンカがいいました。
「うん、思い出したよ。ぼく気に入った木があるとね、木に一枝もらって、自分の庭に……あ、また思い出した!ぼくの庭」
「ふうん、ヒュウくんは自分の庭に好きな木を植えているんだ」
シンカがいいました。
「この木は、クロトウヒっていうんだけど、もうずぅぅっと見たくて見たくて、それで、おかあ……あっ!思い出した」
ヒュウくんがそう叫んだときでした。
クロトウヒの木の前に立っているヒュウくんのまわりに、水滴のようなキラキラ輝くものがあらわれました。
「あっ、このキラキラ、ヒュウくんを見つけた時にも見たよ!」
フェイが叫びました。
みんなが驚いてみている間に、ヒュウくんの姿はしだに薄くなり、やがてキラキラした霧のような粒に包まれて、見えなくなりました。
しばらくの間、みんなは声もなく、ヒュウくんが消えたあたりを見つめていました。
「急に来て、急にいなくなっちゃったなあ、アイツ」
フェイはまだ自分の見たことが信じられないようです。
「なんだかとっても大事なことを思い出したみたいだったね」
モーデカイも目をシロクロさせています。
「夢にまで見たクロトウヒに会えて、いっぺんにいろんなこと思い出したんじゃない?」
カイサがいいました。
「記憶をとりもどすことで、自分の居場所にもどっていったんじゃろう」。
バショーが首をふりふりいいました。
その夜、カイサはホーローのミルクパンでていねいにココアを淹れました。
それを大好きな葉っぱ模様のカップに注ぐと、部屋の真ん中にある草テーブルの前に座り、舌をヤケドしないように、ゆっくりと飲みはじめました。
「ヒュウくんも、いまごろどこかで、きっとココアを飲んでるんだろうな。これからはココアを飲むたびに、ヒュウくんのこと、思い出しそうだ」と、つぶやきながら。
*********************************
10月5日より31日まで、原宿「絵本の読める喫茶店 シーモアグラス」さんでの『紙で読む、見る バニャーニャ物語展』にたくさんの方においでいただき、ありがとうございました。
この催しを機に、わたしたちも、今までモニターで見ていたこの物語を紙の上に表現することができました。
中村さま、三浦さん、花田さま、中崎さま、宇佐美さん、南谷さま、なかむらさま、木内さま、マツヤマさま、とづかさま、おざきさま、宇都宮さま、山崎さま、熊澤さま、平岡さま、新井さん、ゆうきさま、平本さま、SAITAさま、SHINさま、杉江さん、照井さま、宮崎さま、スドウさま、石橋さま、そして、ボデガが好きと書いてくださったチカさま……感想を寄せてくださったみなさまに、心よりお礼申し上げます。
さて、『バニャーニャ物語 その20』は、「ぼく、誰だっけ?」というタイトルで、この節目の回のお話として、また登場人物やバニャーニャのあちこちなどをおさらいする意味もこめて、この物語の熱烈な愛読者 親友のユウヒ(→ヒュウ)くんに、バニャーニャに来て、木をテーマに観光を楽しんでもらうことにしました。
ユウヒくんのことは、前にもいちどちょっと触れたことがありますが、
小学校4年生の植物が大好きな男の子です。
彼のおかあさんによると、植物好きなユウヒくんと虫好きの私は、行動形式やものの見方がとても似ているそうです。
漢字がまだ全部読めないユウヒくんのために、何度も何度も、おかあさんやお父さんが声に出して読んでくださっているそうです。(お父さんはボデガの声音が得意とか)
植物―特に木が大好きというユウヒくんは、どこに行っても木が目印。
バニャーニャに生えている木は、みんな知っているそうです。
(アザミさんのパン屋さんが出てくると、
「あ、あのクスノキがあるパン屋さんだ」、という風に)
それに、植物の名前を、和名だけでなく学名で覚えていいるのもすごい。
ユウヒくんの頭の中では、植物の種類がきれに分類されていて、
それには学名が便利なのだそうです。
バオバブを見に南アフリカへいったり、マングローブを見にボルネオに行ったり・・・・・
現実世界でも木を見にあちこち旅しているユウヒくんですが、今一番見たいと願っているのは、
クロトウヒという針葉樹なのだそうです。
なので、バニャーニャではクロトウヒを見てもらうことにしました。
ユウヒくんのことを知ってもらうのに、一番いいのは、彼の書いた物語をちょっと読んでもらうことではないかと思い、了解を得て、ユウヒくん作・『旅する葉』という元気いっぱいの物語を下記にご紹介したいと思います。
<旅をする葉>
登場人物
モミー:はぶね(葉船)をコントロールする
カシー:物知りで力持ち
エダー:少し怖がり
「旅立ちの日(森の中を通って)」
冬、落葉樹が落葉しました。
モミー、カシー、エダーは、葉ぶねを用意しました。「つなをはずすぞー!」カシーは言いました。「葉ふねの様子を確認するよ」とモミーはカシーに言いました。モミー、カシー、エダーは、旅をするのです。
船は、風で進みます。風の弱いときはゆっくり、風の強いときは早く進みます。3人は、風が中くらいの道を選びます。その方が、順調に進むからです。モミジやエンジュの木が、手を振って見送ってくれました。
「ビュウ!」、船が風で動き出しました。
「ゴオ!」、空に舞い上がり、森の中へと向かいました。
「うまくいったね!」エダーが、ニコニコしながら言いました。
風は中くらいの強さで森の中をかけぬけ、船もそれと同じ早さに走りました。ここから20km行くと海です。風は船を運び、南に向かっては走ります。
森の中は、うっそうと木が茂り、ウルシなどが自生しています。船のセンサーで、出発地からもう12kmも来ているとわかります。カシーたちは、わくわくしながら、海へ向かいます。
あと7kmのところに着くと、クロマツの林になりました。海岸の近くの木は、クロマツだからです。3人は、クロマツの木の上で休憩することにしました。カシーは船の縄を一本のマツの木の下にかけ、モミーは船のセンサーを切りました。クロマツの葉のにおいがします。葉はとがっているので、枝で休憩しました。
「やあ、クローくん」と、カシーはあいさつしました。「やあ、カシー」クロマツのクローくんもあいさつしました。
「休憩してもいい?」エダーが聞くと、「お泊まりもいいよ」とクローくんは答えました。
「じゃあ、えんりょなく、泊まらせてもらうよ」カシーはうれしそうに言いました。「夜になると、ここら辺は、とっても月がきれいなんだよ」クローくんは言いました。
今はお昼の12時。お昼ご飯の時間です。「ぼくの家、クロー住宅のクロマツには、シェフがいるんだ」クローくんが案内してくれました。
メニューは、植物の食べ物です。ポトー液、樹皮ふりかけごはん、カポックポップコーン、太陽の光のジュース、タマゴオムライスなのです。どれもとてもおいしそうです。「クローくん、いいな~」とエダーはよだれをたらしながら言いました。
「でも、君たちもいいな。。」クローくんはつぶやきました。「ぼくたちは、常緑樹だから、葉船は用意されていないんだ。だから、旅もむずかしくて」
「それなら、ぼくたちの仲間に入りなよ!」モミーは言いました。
「ホント?!入るよ!」クローくんはうれしそうに言いました。
新しい仲間が加わりながら、ごはんも来ました。みんな、おなかいっぱい食べました。
その夜4人は、きれいな星空を見ました。
(おわり)
なんとも元気なこの物語を読むと、いつも疲れがふっとびます。
「お泊りもいいよ」ってクローくんがいうところとかがかわいくて。
それにカポックポップコーンとか、樹皮ふりかけごはんとか、ポトー液とか、タマゴオムライスとか、
想像するだけで楽しい食べ物がいっぱい出てきます。
私もユウヒくんに刺激を受けながら、『バニャーニャ物語』を書き続けていきたい、という思いを新たにしています。
これからも、ぜひバニャーニャに遊びに来てください。