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『独去独来』『全ての人は秋の木枯らしの吹く寂しい荒野を一人で旅する旅人である』(お釈迦様)

僧侶のお葬式での説法の誤りに憤慨する

2014年06月01日 | 仏教・親鸞聖人

 ご近所の主人の葬儀に出席して思う事

 盛大なお通夜が執行され浄土真宗本願寺派の若い僧侶の声量のある読経は立派でした、ただそのクライマックスのお説教で『皆さんも死んだら全ての人が極楽に行って先祖と会う事が出来ると阿弥陀経に(倶会一処)と書いてあるのはその事です』と高らかにお説教されるのを聞いて親鸞聖人や蓮如上人のお言葉とは全く違った解釈が大多数の浄土真宗の僧侶の間では常識に成っている事をつくづく感じました。

 考えてみてください、死んだら全ての人が極楽に行けると言うのでしたらなぜこんなに苦しい世界に生きていなければならないのでしょうか、自殺して一日も早く極楽に行って先祖と楽しく暮らせば良いのでは無いのでしょうか。又この世でどんな悪事をしても構わないと言う事になるのではないでしょうか。

 蓮如上人は御文(東本願寺)・御文章(西本願寺)・御書(専修寺)で『一念の信心定まらん輩(トモガラ十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと更に疑いなし』(五帖目四通)

 この文章を読んで早とちりして誰れでも彼でも死んだら極楽と思いますが、それは間違いですよ生きている今『一念の信心定まらん輩』(一念の信心定まった人)の事だよと蓮如上人はくぎを刺しておられます。

 親鸞聖人の法然上人門下の時の三大諍論でも多くの僧侶が浄土宗の本意を間違って解釈している場面がありますがこの事は現代の浄土真宗でも同じである事に私は仰天いたしました。

 人間は面倒くさいことが嫌いで安易な間違ったことの方が自分に向いているとその方向に流れるものです、(南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも死んだら極楽ですか?簡単ですね~私には信じられませんね~~)

 宗教については一生の一大事ですから少し面倒でも、しっかりと考えて判断する事が必要な事と私は感じます。

 宗教は人間が創ったものです、生きている人間の幸せに生きるための智慧であると私は考えます、親鸞聖人の浄土真宗は、もっとも合理的で道理である事を感じ、私は心酔しています。決して宗教は死んでからの物ではありません、生きている今の問題です。

 信心が定まっていない人も『全ての人が救われる』と言う事は全くの間違いです、オウム真理教を信心してサリンを撒いた人も心を入れ替えて阿弥陀仏から今生で信心を戴いた人はその時から救われるのであると言うのが浄土真宗・親鸞聖人の教えです。

 浄土真宗の教えは今生きている現在救われた人のみが死後の極楽が約束されるのだ、という事を親鸞聖人は教えてくださっているのです。

 南無阿弥陀仏と唱えるのは今救われている事への報恩感謝の言葉です、南無阿弥陀仏と唱えることに依って救われるのではありません。と私は親鸞聖人の浄土真宗を解釋しています。                               

                                                                 合掌

 

 

 


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