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『独去独来』『全ての人は秋の木枯らしの吹く寂しい荒野を一人で旅する旅人である』(お釈迦様)

親鸞聖人と絶対の幸福

2021年01月29日 | 仏教・親鸞聖人

 親鸞聖人と絶対の幸福

問 親鸞聖人は、人生の目的は絶対の幸福だと言われますが、絶対の幸福とはどんな幸福を言うのでしょうか

答 仏教では、幸福と言われるものを二つに分けます、相対の幸福と言わるべきものと、絶対の幸福といわれるものです。相対の幸福と言いますのは一時的な喜びや満足を言い、続かない、やがては必ず、悲しみや苦しみに転化する幸福を言うのです。例えば、好きな人と結婚できた喜びとか、望んでいたマイホームが新築できた満足とか、日々、私達が求めている生甲斐や喜びと言われるものです。この様な喜びや満足は、決して長続きするものでは在りません。やがて必ず滅び去る幸福です。これらの幸福は、今日在って、明日なき無常の幸福です。常に壊れはしないかと言う不安が付きまとっていますから、真の幸福とはいえないのです。

たとえ大過なく続いたとしても、死に直面すれば、総崩れになる事必定です。しかも私達は、死の運命から逃れることは出来ませんから、この様な幸福で、心からの満足が得られるはずがないのです。死の前に立たされた時、金や名誉や地位や財産が、なんの喜びになり満足を与えてくれるでしょう。例え求まったとしても、真の満足も安心も得られない、これ等の幸福を求めて、今日もあくせく苦しみ悶えているのです。

親鸞聖人は、これは、真実の幸福、絶対の幸福があるという事も、その絶対の幸福は阿弥陀仏の本願によって、誰もが成れることを知らないからであると教えられて居ます。そして、この絶対の幸福こそ人生の目的で有ると、90年の生涯、弥陀の救い一つを教えていかれたのが親鸞聖人でした。

では絶対の幸福とは何でしょう。親鸞聖人は絶対の幸福を【無碍の一道】と仰っています。そしてその世界を、こう教えて居られます。

【弥陀に救われ念仏するものは、一切が障りにならぬ幸福者である。なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神々も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げる事が出来なくなるからだ、犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である】(嘆異抄七章)

【阿弥陀仏の作られた、大悲の願船に乗ってみる人生は、千波万波きらめく明るい広い海ではないか。順風に帆を上げる航海のように、なんと生きるとは素晴らしい物か。】(教行信証行巻)

【弥陀の本願に救われてからは、もう迷い人ではないのである。欲や怒り、ねたみそねみの煩悩は少しも変わらないけれども、心は極楽で遊んでいるようだ。】(帖外和讃)

と仰っているのも、絶対の幸福になった一大宣言であります。そんな絶対の幸福なんてあるものかと言う人は、まだ阿弥陀仏の救いの素晴らしさを知らないだけなのだと親鸞聖人は教えられて居ます。(親鸞聖人の花びらより)                END

 



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