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『独去独来』『全ての人は秋の木枯らしの吹く寂しい荒野を一人で旅する旅人である』(お釈迦様)

念仏には三通りあるとはどんなことか

2021年02月09日 | 仏教・親鸞聖人

 念仏には三通りあるとはどんなことか

問 『念仏成仏これ真宗』とか『ただ念仏して』と有りますが、念仏称える事で助かるのが浄土真宗ではないのでしょうか。

答 普通念仏と言いますのは、南無阿弥陀仏と称える事ですが、親鸞聖人は称え心の違いによって、念仏には三通りあると教えられて居ます。それはちょうど、涙を流していることは同じでも、悲し涙と嬉し涙とは、心に雲泥の差が有りますように、同じく南無阿弥陀仏と口で称えている人でも、その称え心は大変異なるのです。

親鸞聖人は、その称え心を大別して三通りあると教えられて居ます。ですから、念仏と一口で言っても三つの違いがあるのです。一つには万行随一の念仏、二つに万行超過の念仏、三つには自然法爾の念仏と教えられて居ます。しかもこれは、決して親鸞の独断ではなく釈尊の教えだと仰っています。万行随一の念仏は【観無量寿経】に説かれている念仏であり、万行超過の念仏は【阿弥陀経】に説かれる念仏である。自然法爾の念仏は【大無量寿経】に説かれている念仏であると教えられて居ます。その上で、親鸞聖人の言われる念仏は【大無量寿経】に説かれる、自然法爾の念仏であると教導されています。

ではこの三つにどんな心の相違があるのでしょうか。まず万行随一の念仏は、いろいろの善と並べて念仏は尊い事だから、称えればよいだろうと思って称える念仏をいうのです。親に孝行しているし他人に親切もしている。念仏も称えているから不幸にはならないだろう。死んでも悪い所へは行かないだろうと思って南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えている念仏をいいます。次に万行超過の念仏と言いますのは、南無阿弥陀仏には大功徳がおさまっているのだから、親孝行や親切などの諸善とはけた違いに功徳があると信じて一心に称えている念仏を言うのです。これら万行随一の念仏や万行超過の念仏は、いづれも念仏を称えた功徳によって助かろうとしているのですから、自力の念仏と言われています。

そしてこのような自力の念仏では、助からないと蓮如上人は『口にただ称名念仏ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。それはおおきに覚束なき次第なり』と【御文章】に、何か所も教えられて居ます。三番目の自然法爾の念仏とは、助けてもらおうと思って称える自力の念仏とは全く違って、弥陀の本願を信ずる一念に絶対の幸福に救われた、御恩報謝のお礼の心で南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称える念仏をいいます。【念仏成仏】と言われる念仏も、【ただ念仏して】と言われる念仏も、弥陀に救われて称える自然法爾の念仏を親鸞聖人は言われたものでありますから、よくよく心得ていなければなりません。(親鸞聖人の花びらより)      合掌           



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