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『独去独来』『全ての人は秋の木枯らしの吹く寂しい荒野を一人で旅する旅人である』(お釈迦様)

仏教について三年前に書いた記事再掲

2015年11月20日 | 仏教・親鸞聖人

 絶対の幸せになる為の方法(仏教について)

 最近私の宗教についての記事の読者がありませんので過去に私が書いた記事を再掲いたしますので読んで下さい

仏教の根幹・因果の道理         2012/9/23

 道理とは何時でも何処でも間違いの無い事、悠久の過去から永遠の未来に至るまで変わらぬ真理を言います。

善因善果(良い種をまけばよい結果が現れる)悪因悪果(悪い種をまけば悪い報いが現れる)自因自果(善も悪も、皆自分の種まきによって果報が現れる)と説かれています。

良い事をすれば喜ばしい結果が、悪い事をすれば嫌な報いが来る、良いのも悪いのも自分に現れる運命は全て、過去(信心を得るまで、生まれてくる前の事ではありません)の自己の行いによる物だと教えられています。自分以外の者が良い行いをしても、それは自分には全く関係の無い事であります、自因他果・他因自果と言う事は絶対にないことであります。

ここでとは私たちの行為を言い、行為には三つあると仏教では教えられています、これを業と言われます、身業・口業・意業と言います、口や身体は心の命ずるままに動いているのであり、心の行いが最も重い物だと説かれています

 行為の果報は必ず自身に現れますから、行為は目に見えない力となって残り、応じた結果となって現れると仏教では説かれています。

                                   2012年9月23日

 人間の姿は煩悩の塊である   

尊は(大無量寿経)で次の様に教えられています、心常念悪・口常言悪・身常行悪・曾無一善(心・常に悪を思い、口・常に悪を言い、体は悪を行うより出来ない、一つの良い事も出来ないのが人間であると教えられています)

親鸞聖人は(正信偈)で一生増悪と教えられています。真実の自己の姿は煩悩の塊であり一つの良い事の出来ない自分の姿が見えてくるのだと教えられています。

善導大師は一人一日の内に八億四千の思いあり、念々になすところ、これ皆三途の業なりと教えられています(一人一日の内に心がコロコロと八億四千遍も変わる、盆の上の卵のようにコロコロと変わり心で思って行う事は全てが地獄に行く為の行いであると教えられています)倫理や道徳で言う善は仏法では(法の鏡に照らすと)雑毒の善であります、他人のため他人のためと言う事は偽善であります、どんなに良いと思うことをしてもそこには何か自分の名誉欲や金銭欲等々の毒の混じった善しか出来ないのが人間であります。

                                  2012年9月24日 

もろもろの悪をなす事無かれ、謹んで善を修めよ・・(鳥窠禅師・チョウカゼンジ)

  白楽天が高名な鳥窠禅師に『仏教とはどんなことを教えているのか、一言でお聞きしたい』と頭を下げた。  鳥窠禅師は即座に『もろもろの悪をなす事無かれ、謹んで善を修めよと教えるのが仏教である』と答えた、白楽天いささかあきれて『そんな事くらい三歳の子供でも知っている』と冷笑すると、鳥窠すかさず『三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し』と大喝しています。

  仏教は人間を最高の幸せにする生きる目的の教えであると言われますが言葉で説明する事が非常に難しい物であり誤解の多い中で、鳥窠禅師のこの言葉は仏教そのものが凝縮されているようで私はこの言葉に感銘を受けました。 2012年9月25日                                                                  

国府の草庵で年景の要請での親鸞聖人・法話

 親鸞聖人は瞑目して晶名しておもむろに温顔をほころばされてから法話をはじめられた。
仏の智慧と人間の智慧と申す事あり、学者は賢い、百姓は無知と言うは人間の智慧の高下である、さりながら、大人と赤ん坊の智慧と違うように、人間と仏とは智慧の桁が違うのです。夏の虫がぐるぐる火の回りを回って離れぬように、人間は如何に知恵を絞っても六道を輪廻するだけです、仏が大慈、大悲の助け船を出して下さったのです。ただこれに乗れ、手足をバタンバタンさせるな。邪魔になるばかりだと仏は仰る。水におぼれかけている赤ん坊を親が助けるには、ぐっとつかんで引き上げるまでで誰が赤ん坊に泳げと注文する者がいるでしょうか。
 他力の往生はまずその通りです。
 ただ弥陀から信心を戴き報恩感謝のみ名を呼べば、大慈、大悲の弥陀が全てをはからって下さるのです。
 百姓は無知だ、土民は愚かだと言うは、凡夫の小さな差別眼と申すもの、断じて御仏の広大無辺な絶対の御度量ではないのです。かく申す私などの、20年間の比叡山での学問修行も極楽参りの為には、荷厄介となるだけで、私はさらりと捨てて身軽になってしまったのです、御仏の眼力によって、南無阿弥陀仏と申して極楽へ連れて行ってもらうだけの事です、各々方これだけの事です、なんと優しい事ではありませんか、先師法然上人は北嶺第一の博学とうたわれた方だったが、一文無知の尼入道と同列になって念仏申された、仏教についてこれより奥深い事を知っている人が居るとするならばその人は仏は憐みたまわぬとさえ申されたぞ、それならお前の力でやって見よと突き放されたら大変だ。
 各々方わかりましたか、今日、ただ今より、弥陀より信心を戴いて、報恩感謝の念仏申さん方は、この親鸞と寸分違わぬ正定聚の一人となられるのです。
ああ、まことに天を仰ぎ、地に附して讃嘆感泣すべきは他力易行の念仏の教えです
 親鸞聖人はこう話を結んで、声高く南無阿弥陀仏と晶名された。


*正定聚:生きている今仏に助けられた、仏格の一つ手前の位で死ねば仏に成ることが約束された状態
* 他力:仏教では阿弥陀仏の力のみを他力と言います。2013/1/23

                                              END

 

 

 



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