拉致 北朝鮮 

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備忘録 よど号ハイジャック事件(3)

2006年07月31日 | よど号
「よど号」ハイジャック事件
ハイジャックのメンバーは、当時の金日成首相の計らいで、何不自由ない共同生活を保証されることになり、政治思想である主体(チュチェ)思想の講義を受ける日が続いた。日が経つにつれ、革命戦士として、凱旋帰国する夢は破れていった。軍事訓練も帰国することも許可されなかったのだ。やがて、共同で貿易会社を設立し、平譲市内に外貨ショップを開いた。

1975年(昭和50年)5月、金日成の「よど号」ハイジャック犯メンバーにも結婚相手を見つけて、代を継いだ革命を行なっていかなければならないという「教示」に従い、1977年(昭和52年)5月5日までに全員が結婚するという方針に基づき、メンバーたちは日本女性と結婚した。結婚相手の女性には日本国内でチュチェ思想研究会などの会員で北朝鮮に渡った者が多かった。また、その結婚相手は金正日が決めたという。

メンバーとその家族に対しては相変わらず待遇は良かったし、衛星放送や新聞などで日本の事情を知ることができた。だが、そうした中、メンバーが次々と病死や逮捕などで、欠けていき、現在、北朝鮮に残っている「よど号」メンバーは4人(小西隆裕、安部公博、若林盛亮、赤木志郎)だけとなった。

1985年(昭和60年)9月4日、吉田金太郎が病死(享年35歳)ということになっているが、生存が確認できているのは1973年(昭和48年)までであることや結婚について不明なことなどから、1985年(昭和60年)以前に死亡している可能性がある。

1987年(昭和62年)11月29日の大韓航空機爆破事件が発生。乗員・乗客115人全員死亡。

1988年(昭和63年)、岡本武(享年42歳)が妻の福留貴美子とともに事故死ということになっているが、その死亡は確認されていない。

1月22日、神奈川県警外事課に、横須賀にある「Y」というスナックの経営者「佐藤」が大韓航空機爆破事件に関与しているかもしれないという密告電話が入った。その後、内偵を進めた結果、2月になって照会先の警察庁から、「佐藤恵子」こと八尾恵が1982年(昭和57年)2月にデンマークのコペンハーゲンで、当時ユーゴスラビラのザグレフにあった北朝鮮領事館副領事のキム・ユーチョルと接触していた事実や、不審な複数の日本人女性との接触、東欧、東ベルリンなどへの出入国記録などが含まれていた。

5月6日、犯行当時16歳だった柴田泰弘が密かに日本に入国したが、当日、逮捕された。柴田は八尾と北朝鮮で結婚している。

5月25日、八尾恵(当時32歳)がアパートの名義に、「佐藤恵子」という偽名が用いられたことで、神奈川県警外事課により有印私文書偽造・同行使の容疑で逮捕された。県警は北朝鮮の工作員の物証を発見できるものと思い、八尾の自室やスナック店内などを家宅捜索したが、結局なにも発見できなかった。

6月15日、八尾が住民票への登録が偽名でされていたことで、公正証書原本不実記載・同行使となり、簡易裁判所で5万円の略式起訴を受け、「スパイ容疑」については証拠不充分のまま釈放された。

1989年(平成元年)12月27日、元赤軍派議長の塩見孝也が懲役18年の刑を終えて出所した。未決勾留期間も含めて19年9ヶ月に及ぶ獄中生活だった。

1994年(平成6年)、柴田が懲役5年の実刑を受けて出所。

1995年(平成7年)11月30日、田宮高麿が心臓発作で死亡。52歳だった。

1996年(平成8年)、田中義三はタイのパタヤで偽百ドル札90枚(当時で22万5000バーツ相当)を使用した5人のタイ人と外国人に協力したとしてカンボジアで拘束され、起訴された。

1999年(平成11年)6月23日、タイのチョンブリ地裁は田中に無罪を言い渡した。

2000年(平成12年)6月28日、田中が勾留先のタイ・バンコクから日本へ移送された。実に約30年3ヶ月ぶりの帰国である。田中は52歳になっていた。

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