拉致 北朝鮮 

人生楽なら苦はないさ(MUYOxpPRF.)

備忘録 よど号ハイジャック事件(1)

2006年07月31日 | よど号
「よど号」ハイジャック事件より抜粋
【 赤軍派の登場 】
1969年(昭和44年)5月、赤軍派はトロツキズムを基盤とした共産主義者同盟(第2次ブント)の中の関西を中心とする武闘路線派から生まれた。
それまでの大学闘争、街頭闘争の総括を経て、早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起する必要があると結成した。

11月5日、首相官邸や警視庁を襲撃するために、鉄パイプ爆弾による軍事訓練をしようとハイキングを装い、
山梨県塩山市の大菩薩(だいぼさつ)峠にある「福ちゃん荘」に集結するが、かねて密かに内偵捜査を進めていた警察により、
爆発物取締法違反、凶器準備集合罪の容疑で53人(うち高校生9人)が逮捕された。

(翌年)3月15日、「日本のレーニン」と言われた赤軍派最高幹部の塩見孝也(たかや)議長(京大)が破壊活動防止法違反(予備・陰謀)容疑で逮捕された。
塩見が所持していた手帳に<H・J>の文字があったが、公安警察はそれが「ハイジャック計画」を意味するとまでは読みとれなかった。
そのときまでに逮捕された者は222人にのぼり、赤軍派は壊滅状態に陥っていた。

【 ハイジャック 】
世界革命戦線構築の具現として、3月31日~4月3日、日航機「よど号」ハイジャックによる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)入りを敢行する。

「フェニックス作戦」と名づけられたこのハイジャックは、日本で初めて起こったハイジャック事件であった。

ハイジャックを行った赤軍派の9人のメンバーは、
リーダーの田宮高麿(たかまろ/当時27歳/大阪市立大)、サブ・リーダー格の小西隆裕(当時25歳/東大)、
田中義三(よしみ/当時21歳/明冶大)、安部公博(当時22歳/関西大)、吉田金太郎(当時20歳/元工員)、
岡本武(当時24歳/京大)、若林盛亮(もりあき/当時23歳/同志社大)、赤木志郎(当時22歳/大阪市立大)、
柴田泰弘(当時16歳/神戸市内の高校)であった。

メンバーのうちの1人である岡本武には弟の岡本公三がおり、1972年(昭和47年)5月30日に奥平剛士と安田安之とともに、
イスラエル・テルアビブ空港を襲って、26人の死者を出すという事件を起こしている。

「私たちは共産主義者同盟『赤軍派』です。・・・・・・(中略)・・・・・・私たちは北鮮(北朝鮮)に行き、そこにおいて労働者、国家、人民との強い連帯を持ち、そこにおいて軍事訓練等々を行い、
今年の秋、再度、いかに国境の壁が厚かろうと再度、日本海を渡って日本に上陸し、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしています。
我々はそうした目的のもとに今日のハイジャックを敢行しました。・・・・・・」

新左翼は各セクト共に「反帝・反スタ(反帝国主義・反スターリン主義)」を掲げているが、
北朝鮮の金日成首相(当時)もスターリニストであると認識しているにもかかわらず、赤軍派は北朝鮮への亡命を選択した。
彼らの機関誌を読んでみると

<まず打倒せねばなければならないのは、米国、日本、西ドイツの先進帝国主義国家

であり、その打倒のためには、それぞれの国において、武装した労働者階級が蜂起しなければならない。それぞれの労働者を蜂起せしめるためには、
当該資本主義国を取りまく「労働者国家」の支援がなくてはならない。アメリカに対してはキューバ、西ドイツに対してはアルバニア、日本においては北朝鮮が、それぞれ「労働者国家」としての革命の“根拠地”となる>とある。

赤軍派メンバーは決行に当たって犯行声明文を残している。リーダーの田宮の文章は次のようなものだった。
<われわれは明日、羽田を発(た)たんとしている。われわれは如何(いか)なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきたことを知らない。
・・・・・・最後に確認しよう。われわれは “明日のジョー” である>

ちなみに、矢吹丈のモデルはプロボクサーから後にコメディアンになったたこ八郎である

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