:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その9

2008-05-09 19:14:03 | ★ 私の一冊

10月25日の「知床日記」で、悪の根源は何処に?という厄介なテーマに首を突っ込んでしまった野尻湖のウサギと知床のエゾ鹿は、問題の重さに恐れをなして、他のテーマに逃げを打ってしまいました。
しかし、いつまでも逃避していては、せっかくブログにきていただいている皆さんに申し訳ないと思います。
そこで、勇を鼓して前へ進むことにします。
前回、悪の根源は人間の罪と深く関わっているのではないかということを示唆したところで止まっています。(と書いてから、またさらに1週間があっという間に過ぎました。今、多忙を極めています。しかし、今日こそ一区切り書かなければ・・・)




〔ウサギ〕 もうこんな話やめようよ。誰も喜ばないよ。誰も読んでくれないんじゃない?!気が滅入っちゃうな!
〔エゾ鹿〕 重い厄介な問題だからみんな避けて通ってきたのではないかな。だからこそ、ここで突き詰めて考えるることに意味があるのではないの?もう少しがんばってみようよ。
〔ウサギ〕 ではお聞きしますが、罪はどこから?罪って何?どんな悪いことしても、ばれて恥をかくことにならなければ、また運悪く罰せられることにならなければ、罪にはならないでしょう?もしばれたとしても、うまく言い逃れることが出来れば、別に罪にはならないでしょう?訴えられても、裁判で負けなければ罪に問われないじゃないですか?政治家だって、企業家だってみんなそう思っていると思いますよ。罪になるか、ならないか、要は力関係、駆け引き上手の問題でしょう?
〔エゾ鹿〕 罪って、そんなに表面的なことだろうか?僕にはもっと内面的なもの、良心の問題ではないかと思うけど?
〔ウサギ〕 良心ですって?最近の世の中ではあまりはやらない言葉ですね。
〔エゾ鹿〕 流行の問題じゃないでしょう。人の前でばれても、ばれずに隠しおおせても、それは関係ないね。良心に反すること、・・・それは思いでも、行為でも・・・、それが罪というものです。万人に良心があるでしょう?
〔ウサギ〕 さー、どうですかね?良心の声なんか、ぜんぜん聞こえない人だっているんじゃないですか?人によって、教育によって、社会によって、時代によって、良心の声の中身はかなり違うんじゃないですか?それって、恐ろしく相対的じゃないですか?良心の声が全く聞こえない人は、何したっていいわけ?なーんか変だなー!凄くおかしくないですか?そんなの、絶対変だよ!
〔エゾ鹿〕 僕はそうは思わないな。罪のよりどころは良心、そこにしかないと思うよ。
〔ウサギ〕 わかんない!ぜんぜんわかんない。もう少し分かりやすく説明してもらえませんかねー。そしたら、絶対反論して見せるから。
〔エゾ鹿〕 おや?たいした自信だね。いいとも。説明し切って見せようじゃないか。だけど、それはまたこの次の機会にね!(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ イタリア人神父のブラックユーモア or 悪魔祓い

2008-05-07 12:07:57 | ★ ローマの日記

 

 

今日12月8日は聖母マリアが罪の穢れなく母の胎に宿ったという「無原罪の御宿り」の信仰の祝い日で、高松の神学校(今はローマに亡命中)の設立20周年記念日です。はたして、それにふさわしい話題かどうか?

~~~~~~~~~~

イタリア人神父たちのブラックユーモア or 「悪魔払い」

と題して送ります。

 


私はリーマンなどの国際金融業界を去って、放蕩息子のように教会に帰り、とうとう念願の神父になった。
その教会では、
高齢化は進み、数も急速に減って、最近神父のなり手不足が世界的に大問題化している。しかし、さすが教皇のお膝元、ローマでは、日曜日に千人も、二千人もの信者がミサにあずかり、5-6人の神父たちが忙しく立ち働いているような教会もまだ少なくない。私が一年間世話になった下町のトール・サピエンツァ(知恵の塔)教会も、そうした活発な教会の一つだった。
そんな教会の司祭館の日曜の夕食時には、一日の仕事を終えた開放感とともに、極めて和気あいあいとした神父たちだけの内輪の団欒がある。肉料理と赤ワインで腹いっぱいの上に、消化促進剤と称する食後のリキュールが入る頃には、舌の滑らかさは絶好調である。サッカーの話や政治家のこき下ろしが一巡すると、決まってお得意の冗談や駄洒落が飛び交う。オフサイドぎりぎりのXXネタまがいの話まで飛び出すのも、別に驚くには当たらない。神父といえども、れっきとした健全な男たちであることに変わりはないからである。
とは言え、生真面目な人をキリスト教に躓かせてはいけないから、ここでは飛び切り上品な例を一、二ご紹介するに留めよう。

「イタリアにはハンティングを趣味とする人が結構いる。ローマ郊外の原野と同じように、天国の郊外にも、自然保護のため禁猟期間というのもが設けられているそうだ。禁漁期間の終わりが近づくと、聖ヨゼフは口笛を吹きながら猟銃の手入れに余念がない。解禁日の朝、犬を連れたヨゼフは野原に行って、ポンと鳩を撃って、ご機嫌で帰ってきた、とさ。」それだけの話に、ほろ酔いの神父たちがどっと笑って、ではこんなのはどうだいと、次の小話に移るのだが、その前に、何の話だかよく分からなかった方のために、少々解説を加えておくことにしよう。
目に見えない神の聖霊は、ヨーロッパの宗教画では白い鳩として描かれる決まりになっている。その聖霊が、自分が寝床を共にする前の婚約者マリアに、子供を孕ませてしまった。処女懐胎のくだりである。それで、天国に行ったヨゼフは、猟が解禁になるのを待ちかねて、仕返しに不届きな鳩を撃ちに行ったと言う話である。

では、こんな話はどうだい、といって続いた小話を、次に紹介しよう。
「姦通の現行犯で捕まった女が、広場のイエスの前に引き出され、『こういう女は石で打ち殺せと、モーセの律法にはあるが、あなたはどう思うか』と言う者たちがいた。イエスは無視してしゃがんで地に字を書いていた。しかし、彼らがあまりしつこく問い続けるもので、身を起こして『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女に石を投げなさい』と言った。すると、小さな石がころころと女に向かって転がっていった。イエスは叱って、『ちょいと。母さん、やめて下さいよ!話が壊れるではありませんか』と言った。」神父たちには説明が要らないのだが、念のためにこれにも解説を加えておこう。
カトリック教会は、1864年に、聖母マリアの「無原罪の御宿り」を教義(ドグマ)として宣言した(今日12月8日がその祝日に当たる)。 2000年の歴史を持つ教会が近世に入ってドグマ(教義)を変更又は追加するのは異例中の異例だが、マリアはその母の胎に宿った瞬間から、アダムとエヴァの最初の罪(原罪)と、その後の人類の全ての罪の穢れから免れ、自らも罪を犯すことなく生涯を終えた、と正式に信じることになったのである。だから、イエスの、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女に石を投げなさい」と言う言葉に応えて、まずマリアが小石を投げた、と言う話である。(別の言葉でいえば、マリアにだけその資格があった、と言うことにもなる。)
 
これくらいなら、イタリア語の表現に少々分からないところがあっても、ただ笑って付き合っていればいいのだが、中にはただ笑っては過ごせない話もあった。
「いなかの教会に赴任してきたハンサムな若い神父さんが、超美人のオールドミスに関心を持ったそうだ。彼女は筋金入りの模範信徒で、皆の尊敬を集めていた。けれど、その本質は、プライドが高く、嫉妬深く、猜疑心が強く、吝嗇だった。その若い神父は、彼女の魂の醜い内面を見抜き、このままでは彼女は放蕩息子のお兄さんみたいになってしまう
と心配した(この件は私の本 「バンカー、そして神父」 (亜紀書房) http://t.co/pALhrPL に詳しく書いた)。 そして、放蕩息子のように、遠い国で魂の飢えと心の闇を体験しないと、改心して父の家に帰ることが出来ないだろうと彼は思った。そこで彼は彼女に対する愛から、彼女を誘惑して、密かに彼女と罪を犯す決心をした。数日後の日曜日、入り口に優しいお爺さん神父の名札があるのを確かめて、彼女は懺悔のため告白場に入った。彼女は、神父に犯されたこと、祈りながら必死で抵抗して、心では罪を犯さなかったことを淡々と報告した。しかし、抵抗するふりをしながら、体では、生まれて初めての快楽を陶酔の極みまで味わい尽くしたことには一言も触れなかった。格子窓の向こうの暗がりの中に、その若い神父がいた。神父は泣いていた。朝、具合が悪くなった老神父の代わりに彼がそこにいることに、女は気が付いていなかった。」
私は、この話を聞いたとき、二十歳のころ見た「尼僧ヨアンナ」というポーランド映画のことを思い出した。フランスの史料に記録されていた物語を、17世紀ポーランド・バロックの豊かな歴史的色彩を背景に取り入れて構成した幻想的な作品で、確かカンヌ映画祭で特別賞に輝いた秀作と記憶する。寒村にある尼僧院の院長ヨアンナが、悪魔に取り憑かれる。その調査と悪魔祓いに遣わされた神父が、美しい彼女に同情して何とか救おうとするが、悪魔は神父にその心の隙を見つけて、彼女を出て彼に取り憑く、という筋書きである。
この二つの例の教訓は、人の改心とか、悪魔祓いというようなことは、生易しい事柄ではないと言うことだろう。同情や、出来心や、力不足では、関わった神父の方が反対にやられてしまうのが落ちである。思い詰めた神父の悲しい結末と言う点で、何か共通するものを感じた。

私が、「空の墓の問題」 (これも私の本の中の一章) に拘ったのは、暗号解読に伴って、必要とあらば自分に死ぬことをも受け入れるためには、最終的には、この空の墓に対する信仰が要求されると言いたかったからである。それは、死の彼方には虚無しかない、という人生観では、とても支えきれない要求だからである。大江健三郎氏が息子の光さんとの関係で述べている復活、それも肉体の復活に伴ってこの物理的時空の宇宙も高められ霊化されて再生することをも含む彼岸の宴、「放蕩息子の帰還を喜ぶ父の催す祝宴」が永遠に続くと信じられれば、命を与える愛は可能になる。

この一文は、一度は私の本の一部として書かれ、結局その中には含められなかったものである。その本の中には、悪魔とどこかで関係するかもしれない記事(エピソード)が少なくとも3つある。この短い一文は、私の本の前後関係の中で読まないと、十分に意味が通じないかもしれないが。


シャルトルの広場で
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ シンポジウム「2050年未来の提言と行動」-その1

2008-05-05 19:06:33 | ★ 日記 ・ 小話

          

   長考一番、「悪の起源」という私の重い神学的テーマに関するブログの更新が遅れている間に、日々のアクセス数が急激に減っていくのが手に取るように見えてきます。いつまでものんびり考えているわけにはいきません。とは言え、拙速に走って誤りを犯すわけにもいきません。そこで、その間に起こった出来事を報告しながら今しばらく繋いでいくことにしました。


10月31日、丸の内の日本工業倶楽部で「ima」主催のシンポジウムがありました(9月14日のブログ「シンポジウムへの招待」参照)。「ima」とは、「国際経営者協会」という団体のことで、国際的に成功している日本の企業の取締役、会長や社長を主体にした、超エリート集団です。
ところが、なぜか、その中にたった一人、無位無官、経営者でもお金持ちでもない田舎司祭が、パネリストとして招かれました。ここに、参加したときの感想を幾つか記しておきたいと思います。

今日は先ず、未来について語ることの意味について考えます。
「未来について語る」ことを日本語では「ヨゲン」と言いますが、「ヨゲン」には二つの言葉を充てることが出来ます。天気予報の「予」の字を充てた「予言」と、預金通帳の「預」の字を充てた「預言」です。私以外の3人のパネリストは、一人目は「ima」の会長自身、二人目は日本人顔負けの流暢な日本語を操るアメリカ人経営者、会長兼CEOで日本ベンチャーキャピタル協会理事(他)です。三人目は一見きれいなお嬢さん風のセレブな起業家(ちなみに彼女のブログの毎日のアクセスは平均15万件とか)、は何れも現代日本の典型的な「予言者」たちです。その中に混じって、孤軍奮闘の「預言者」が私、信州信濃の山出し神父、という図式になりました。
「予言者」とは、科学的、社会的、経済的に緻密な現状分析と、一定の近過去から現在までのトレンドの解析に立って、近未来のあり得べき状態を予測し、それに対して有効に対処しようというもので、いわば、水平的思考であると言えましょう。それに対して、
「預言者」は、上からの、つまり神からの言葉を「預かり」、それを世に伝える使命を託されたと自称する者で、垂直的な思考の人間です。
しかし、「預言者」には、さらに「偽預言者」と「真の預言者」の2種類があります。
「偽預言者」は、実は、人間の思い、時には悪魔の言葉に基づいて、無責任にも心地よいことばを耳元にささやきかけながら人の心に取り入り、そのあげくに人間を欺く者たちのことです。
それに対し、「真の預言者」は、世の現状を憂い、このままではいけない、回心をしなければまずいことになる、と警告し、回心を促して方向を正させ、何とか良い未来へ人を導こうとするものです。耳痛い彼の言葉に耐えられない者は、彼の抹殺を図り、散々な目に遭わせます。

今回のプログラムは、第一部、「激変する世界と日本の針路」という題で島田晴雄氏(千葉商科大学学長、富士通総研経済研究所理事長、と言うよりも、小泉元首相の知恵袋として知られる)の基調講演を受けて、第二部として、問題の予言者たちと預言者のパネルディスカッションとなりました。

予言者が提起した最初のテーマは、2050年には到来する「超長寿社会」でした。それによると、過去60年間で日本人の寿命は30年延びて、現在男は78歳、女は85歳になったが、2050年には平均100歳(最長寿140歳)になると予想しています。人生を二毛作にも、三毛作にも豊かに生き継ぎ、生き甲斐をもって余生を楽しみ、願うらくは「ピンピンコロリン」とあっけなく逝ければ一番幸せ、というものです。
しかし、預言者に言わせれば、それはあくまで能力にもチャンスにも恵まれ、地位と富を手に入れた一握りのエリート、セレブにとっての話です。資本主義的唯物論に基づくアメリカ帝国主義の一極世界支配が続くとすれば、一握りの成功者がますます肥え太っていく陰で、この格差社会の延長線上には、より多くの貧しい人たち、疎外された人たちの、困窮と悲嘆と出口のない絶望がいや増していくことをも意味しています。このままでいいのか、と預言者は問いかけます。
彼は学生のころ、尊敬していたヘルマン・ホイヴェルス師(上智大二代目学長)に、どのような社会体制が一番幸せな社会かと問うたことがあります。今思うと、実に青臭い未熟な質問でした。すると、「聖なる王様に治められる民は幸せだ」、という答えが返ってきました。専制独裁政治でもなく、金が全ての唯物主義的資本主義でもなく、唯物論的共産主義でもなく、神を畏れる聖なる王様が愛と慈しみをもって民を治める国がいい、というわけです。しかし、そんな理想郷が現実にあり得るとはとても思えません。一党独裁の共産主義社会の実験が、ソ連とその衛星国で失敗したのは当然であり、幸いでした。しかし、歯止めのない支配欲、所有欲がむき出しの今の世界情勢の延長線上には、戦争と破壊とテロと報復の悪循環しか見えて来ず、そこに展望も希望がないことも、これまた確かなことです。
2050年にはマルクスの説いた理論は、ITや様々な技術の進歩に支えられて、より公正な社会の実現に資するものとして、再び脚光を浴びているに違いないと思われます。

パネルディスカッションのテーマは、ナノテクノロジーやボーダレスハイパーモビリティー社会、ますます進む社会のグローバル化、地球温暖化とCO2削減問題、人口爆発と食料・エネルギー危機、生命科学、ロボット工学、宇宙開発など多岐に亘りました。次回以降、それらの幾つかのトピックスについても、預言者のコメントを試みたいと思います。お楽しみに。(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 《メリークリスマス》 - 映画 「マリア」 -

2008-05-03 12:06:47 | ★ 映画評

 

 

 

 

クリスマスまであと2週間あまり。 この日世界中で「この世の救い主」(とクリスチャンは信じる)イエス・キリストの誕生が祝われる。それで、今日はこのテーマを取り上げました。


昨年のある日、予告編でこの映画を知りました。よし!公開されたら見に行こう、と心に決めていました。
南テキサス生まれのキャサリン・ハードウイックと言う女性監督。建築学の博士号を持つ身で映画の世界へ。「女性ならではの繊細さ」と「男性顔負けの骨太で重厚な作風」と評されているが、的を得ていると思った。
マリア役のケイシャ・キャッスル = ヒューズは、マオリ族とヨーロッパ人の混血で、そのエキゾチックな美しさが役にピッタリだった。



私は、自分の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)
http://t.co/pALhrPLの中の「私の接した聖人たち」と言う章で、前教皇ヨハネ・パウロ2世が、1987年を「マリアの年」と定めたことを書いた。それは、イエスの母マリアの生誕2000年を記念して、のことだった。もしそうだとすれば、マリアは13歳でイエスをベトレヘムの馬小屋で産んだことになる。

私が20代前半、上智大学の哲学科でラテン語を習っていたころ、スペイン人の教授は、ラテン語の難しい慣用句を覚えさせるのに、短い諺をいっぱい暗記させたものだった。その中に、訳すると「人は誰も理由無しに嘘をつかない」と言うのがあった。言い換えれば、特に理由がなければ、普通、人は自然に本当のことを話す、というものだ。そこには深い知恵と真実が隠れていると思った。
自分が身ごもっていることを許婚のヨゼフや両親に気付かれたマリアは、「天使のお告げがあって、聖霊によって身ごもった」と言い張った。ローマの兵士に手篭めにされた」とか何とか言えば、同情や憐れみをかって、命だけは助かったかも知れなかったのに、あえて「天使のお告げが・・・」などと言い張れば、誰にも信じてもらえず、かえって不義、密通を言い逃れる嘘と疑われ、遥かに不利なことになるのは火を見るよりも明らかではなかったろうか。当時の女性たちを縛っていた厳しい律法によれば、そのような女は、石打かなにか、どの道、死刑は免れ得なかったはずだった。事実、この映画でも、マリアの石殺しの場面があって、危うく刑が執行されるところまでいった。マリアは、自分の死を逃れるために、あのような嘘をつく理由が全くなかったばかりか、あのような嘘は、直接に死を意味した。だからこそ、彼女が語った「処女懐胎」は命がけの真実だったと納得できるのである。



10代半ばの少年と少女の結婚は親が決めた。誰の子かわからぬ胎児を宿すマリアと結婚した若いヨゼフが、逆境に鍛えられて、彼女を次第に愛するようになる描写が美しい。



映画では、紀元1世紀のパレスチナの政治・社会情勢が史実に忠実に再現されている。当時のユダヤの王、殺人鬼ヘロデ大王は、死の病に倒れる5日前に自分の息子を処刑した。また、自分の死が国中で祝われるのを恐れて、イスラエルの全貴族を収監し、自分の死後直ちに処刑するよう命じたりもした。生まれたばかりのイエスを亡き者にするために、ベトレヘムの町の2歳以下の幼児を全部殺すことぐらい、なんとも思わなかったに違いない。
この映画は、ヨゼフがマリアとイエスをつれて、ヘロデが死ぬまでエジプトに逃れるところで終わっている。



原作者アンジェラ・ハントはプロテスタントの牧師夫人。クリスティー賞受賞作家で、既に300万冊以上の本が読まれている。
ダヴィンチ・コードの類の史実や真実を悪意を込めて捻じ曲げた興味本位のいかさま本、ハリーポッターなどのようにキリスト教的正気さに挑みかかるような魔法の世界が横行する中で、久々に、聖書と歴史にあくまで忠実な、ずっしりとした手ごたえのある映画だった。
あらためて、西暦と世界史の原点、「2010年前に生まれた『ナザレのイエス』という人物は一体何者だったのか」と言う重い問いが、この映画を見たあとに残る。

(このブログの写真は映画館で求めた600円のプログラムから。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その8

2008-05-01 19:00:06 | ★ 日記 ・ 小話

エゾ鹿とウサギの悪の根源談義は、重すぎて動きが取れなくなってきた。むしろ、正直に行き詰ってきたと言うべきか。一本の糸として語り継ぐには問題が複雑すぎる。たくさんの概念を同時並行的に撚り合わせないと、とても答えまでたどり着きそうに無い。だから、伏線のヒントとして、間に一回他の話、「イタリア人神父のブラックユーモア」を挟んだのは理由の無いことではない。将棋や囲碁の対局にたとえれば、ここで一回目の考慮時間をとったようなものだ。そして、気を鎮め、先の手を読むために、浅い夜の野尻湖畔に降り立った。折りしも、満月が明るく湖面を照らしていた。

           鏡のような湖面に月の群雲までが映っていました。
           

〔エゾ鹿〕 水に映る満月を見ていると、心まで澄んでくるような気がする。神の創ったままの世界に悪は存在しなかったというのが確かなら、創られた世界に後天的に悪が発生したと仮定しなければならない。ひょっとしたら、「神父たちのブラックユーモア」でちらちら覗いたテーマ、すなわち「人間の罪」と「悪」が密接に関係しているのではないだろうか。罪は、神が創ったものではない。神は罪を創りえない。神は罪を犯さない。そうではないかね?ウサギ君。
〔ウサギ〕 へーっ、本当にそうですかね?シカさん。私にはどうもそんなこと簡単に言い切れないように思えますがね。でも、もし無前提に「神も罪を犯すことがある」などとうかつなことを言ったら、中世なら異端審問にかけられて火あぶり、現代だって言論・出版活動の禁止(従って当然ブログの閉鎖)、さらには聖職停止、悪くすると破門だって全く無いわけではない。クワバラ、クワバラ、・・・。
〔エゾ鹿〕 君はまことに厄介なことを言うね。口は慎みたまへ、さもないと・・・本当に面倒なことになるよ!
〔ウサギ〕 (独り言として)でも、神は本当に罪と完全に無関係だろうか。神が罪と無関係だとすれば、人間は神と無関係、ということにもなりはしないだろうか?(ぶつぶつ・・・・)
〔エゾ鹿〕 お願いだからバカなことを考えるのをやめておくれ。さあ、月を眺めてご覧!心が澄んで、邪念が消えていくから。


     月ふたつ
     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする