「幸福の科学」観察日記

「幸福の科学」を観察しつつ、心に浮かんだ感想などを綴っています。

「幸福の科学根本教義批判」を読んで 2 (受容)

2013-01-19 | 感想 2

「幸福の科学根本教義批判」を読んで (母性愛の欠如?)

 

 

「幸福の科学根本教義批判」を読んでから、受容について考え続けています。考えれば考えるほどに、幸福の科学には、受容という要素が欠けているという確信は強くなるようです。

たとえば、幸福の科学の設立目的は、世直し、ユートピア建設といったものでしょう。換言すれば、「今の世の中は間違っている。精神革命が必要だ」ということであり、現状をそのままに受け入れない、認めないということです。

また幸福の科学は、個人に対しても、自己変革を促しています。これはよく言えば〝偽物の自分〟を脱ぎ捨てて、〝本当の自分〟を見出そうということです。しかし見方を変えれば、現在の〝ありのままの自分〟を受け入れられず、どこかにあるはずの〝理想の自分〟を追い求めるということでしょう。

その具体例を挙げるとすれば、「なんだか変だな」という素朴な疑問が心に浮かんだ時に、疑いを持つ自分を否定し、疑うことのない理想的信者であろうとすることが挙げられます。また「自分になりたい」とは思わずに、「菩薩になりたい」「阿羅漢になりたい」などと願うこともそうです。教団内に、偉大な過去世を尊ぶ風潮があるのも、「自分でありたい」ということよりも、「過去の立派な偉人賢人でありたい」という願望のためでしょう。

このように幸福の科学には、現在のありのままの自分、ありのままの他者、ありのままの社会などを否定する傾向が強いようです。もしかしたら、幸福の科学の中にいると、終始、何かに追い立てられているようで、安らぎがないのはこれが原因かもしれません。自分を見失い、友人を失い、社会的信用も失ってしまうことが少なくないのも、これがためかもしれません。

大きな理想を掲げて、それを実現するために努力するというのは、進歩、発展のためにはよいでしょう。けれども、大きな理想に向かって前進しようとするばかりでなく、現在の自分、他人、社会全体を強く否定しすぎるとしたら、これは中道を逸しています。この点、信者たちの幸福のためにも、関係者には御一考をお願いしたいものです。

 



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