自燈明・法燈明の考察

信仰の姿

 新型コロナウイルスの第三波と言われる感染拡大が進んでいます。一部では「新型コロナウイルスは大したことない」とか「死者数はインフルエンザや自殺者より少ない」という話もあります。そしてその為か、今朝の報道では以前に格安航空会社の機内でマスク拒否で揉めた人が、今度は札幌で朝食バイキングでマスクせず、警察沙汰の騒ぎを起こした事が報じられていました。

 思うに新型コロナウイルスとは、罹患をすると味覚障害や嗅覚障害、その他、後遺症が残ることが報告され、感染するとインフルエンザよりも重症化する様に思えます。ただその判定法とされているPCR検査はというと、アデノウイルスやインフルエンザウィルスにも反応すると言われ、そこから考えると「新型コロナウイルス陽性反応」と診断された人の中に、単なる風の初期症状やインフルエンザという人も居たのでは無いでしょうか。

 そんな事から「新型コロナウイルス」は大したことない、という風評も起きたりしてませんか?

 こう考えてみると、この新型コロナウイルスとは、「社会的感染症(と呼んで良いかはありますが)」の様なもので、やはり国としての対応が重要でるとおもうのですが、どうも日本政府は真剣に取り組む気が無いように見え、それを経済界や一部の国民が後押ししている様にも思えたりします。

 どうなんでしょうね。

 さて今日のお題です。
 創価学会という宗教団体は、「信心」という事で「組織活動」を活動家にひたすら刷り込みます。この根本には、永遠の指導者と呼ばれている池田氏(もうSGIも日本の創価学会の一部局なので会長という呼称も無くなりましたので、こう呼びます)の数々の箴言が用いられています。

 「私の生命より大事な組織」
 「学会活動をすることが尊い」
 「組織を断じて守りぬけ」

 だから創価学会の活動家になると、何は無くとも組織の活動に没入し、その為に祈り、そして「功徳(御利益)」を得ようとします。



 こんな事なので、もし創価学会に疑問を持ち、距離を置こうとした時には、「学会活動出来なくなるけど、自行化他の信心はどうすれば良いのか」という思いに駆られたり、またそこから不安感にさい悩まされ、心を病んだりする人もいたり、そして心がそうなので結果としては不幸を呼び寄せてしまい、それを「仏罰だ!」なんて感じて、再度、創価学会の活動に戻る人も居るようです。

 でも宗教の一番根っこにあるのは「信仰」ですよね、「信じて仰ぐ」。この信仰という事について考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 仏教では「四門出遊」という説話で語られていますが、人生とは自分自身にとっても、またその周りにとっても色々とあるものです。四門出遊の説話では、王子であった釈迦が、あるとき王城の門から出ようとすると、病に倒れ苦しむ人や老いて苦しむ人、また死体を見て、最期に見たのは修行者であったという話です。そこから人生の苦悩から脱する為に、修行者の道を選んたというのです。

 信仰とは、自分自身の人生で「信じ仰ぐ」という行為を指します。ある人は神さまを信じて祈り、ある人は仏様を信じて祈り、その信じるとい事で人生に起きる様々な出来事を自分自身の中で位置づけをしたり、またそれを乗り越えようとしたりするものだと思うのです。つまりこれば極めて「内面的な行為」であると思うのです。

 しかし創価学会では、そういった「内面的な行為」を行う前に、ひたすら組織活動に励む事を奨励し、それこそが「信心」だと刷り込んでいます。

 私は信仰というのは、この人の中にある「内面的な行為」がとても大事だと考えています。その結果として、日常の行動の中で、同じ信仰する人達と声をかけ励まし合ったり、場合によっては悩みを共有する事もあるかもしれません。しかしこの内面的な行為なくして、信仰というのは本来、あり得ないのでは無いかと思っています。

 だから長年、創価学会の「信心」をやっていたとしても、いざ組織から離れようと思うと、どの様に「創価学会から教えられた信心=活動形式」を取ったら良いのか悩む人が多く出てくるのではないでしょうか。

 私の場合、やはり齢五十代になると、それこそ日々様々な出来事に遭遇しますし、そこで心のざわめきが起きる事もあります。しかしそういった事に振り回されず、常に自分自身が紛動されない様にするために、自分自身を信じようと心がけています。こういった事は、言葉にするのが難しいのですが、私は常にそうありたいと思うのです。何故なら、心がざわめきブレてしまうと、やはり人生もったいないと思うからです。いわゆる「心が紛動する」と、本来気付く事が出来る事すら気づけなくなり、必要な行動を取る事が出来なくなってしまいます。引いてはそれで周囲に迷惑をかける事もあれば、何かにつけ機を逸するという事にもなってしまいます。

 そう考えると、私にとっては「自分を信じる事」、また「信じれる自分を心がける事」なのかもしれません。

 信仰とは何も特別な存在に御すがりしたり、「功徳(御利益)」を求めたりする事でもないし、特定の団体に所属しているという事では無いのです。

 皆さんはいかが考えますか?



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