自燈明・法燈明の考察

宗教の根深さを感じる今日このごろ

 今朝のニュース番組で、今年は梅雨入りが遅れ、なおかつ梅雨明けも早まるという予報だと聞きました。「梅雨の時期が圧縮されたような感じ」と言っていましたが、要は気候が変わってきているんですよね。

 私の周囲でも最近の日本は、春と秋の季節が無くなってきている、という話を耳にします。これは気候の二極化が進んでいるとも云うべき事なんでしょうか。

 そしてこの気候変動は、単に炭酸ガスなど人類由来の原因だけではなく、地球の地軸の傾きや、太陽活動といったいわゆる宇宙気候に原因があるのではないでしょうか。
 考えてみれば炭酸ガスによる温室効果、またそれによる気候変動を信じるというのは、人類の驕りではないかとも思うのですが。

 さて今回は「宗教の根深さ」について、少し思うところを書いてみます。

 過去にカール-マルクスは「宗教は阿片である」という事を言いました。若い時代、創価学会で活動していた私などは、この言葉はキリスト教圏の話であり、マルクスは仏法を知らないから、こんな妄言を吐いたんだろうと考えていました。

 日蓮大聖人の仏法、それを信奉する創価学会は阿片ではない。

 真面目にそうだと信じていたのです。

 阿片とは、ご存じ麻薬の一つで、芥子の花から抽出されるダウナー系の麻薬です。十九世紀に当時の清国とイギリスの間であった「アヘン戦争」は、イギリスが清国の国力を崩そうと、大量のアヘンを清国に輸入し、それに気づいた清国政府との間で勃発した戦争でした。

 このアヘンですが麻薬なので依存性があり、ダウナー系で思考を鈍らせ痛みを感じる事を鈍らせる働きがあると言います。だから常用することで人はみな、廃人の様になっていってしまいます。

 若い頃、創価学会を真面目に信じていた私は、キリスト教などのヤソ教では心の内面を見ることもなく、存在するはずない「絶対神」を盲目的に信じる外道の教えだから、アヘンの様になってしまうんだと考えていました。
 一方の仏法は人の生命を解き明かした教えであり、この信心をすれば、人は賢明なっていくので、けしてアヘンなんかでは無いのだと。

 そんな私は当時、広宣部で顕正会や法華講との対論明け暮れていて、そこでは宗門の歴史や創価学会歴史も学んでいました。そして信濃町の醜聞も幾つか耳にしてもいましたので、当時仲間とは何気に創価学会の行く末を危惧してもいたのです。

 全ての宗教団体は、中枢から腐敗していく。これは創価学会とて例外ではなく、この団体近い将来、信濃町の中から腐敗が進むのだろう。その時は、今の青年部である自分達世代がキーとなるので、しっかり見定めていく目を養っていこう。

 そんな事を、夜な夜な語り合っていました。

 そして今に至るわけですが、私が当時想定したとおり、創価学会は見事に壊れた姿を晒しています。そして十年以上まえに、私は馬鹿正直にも、創価学会や公明党の壊れっプリを支部幹部という立場で組織の中で上の幹部に指摘し、結果としては「お前イラネ」と言われてしまい、組織内であらぬ噂を流されました。

 せめて当時の語り合った仲間は、少しでも理解してくれるだろうと思っていましたが、それ儚い願望でしかなく、多くは地区部長や支部長などという立場でしか、物事を見れなくなっており、私のいう言葉は単なる異端者の様に扱われてしまったのです。

 冷静かつ客観的に見れば、創価学会行っていること、公明党の政治的な動きや議員の問題点など、明確にわかることなのですが、そういう事には一切目を向けなくなっているのです。若いときに意識を共有していた仲間たちは、所詮、それを認めたところで、今いる立場では何も出来ない。そもそも信心を壊す事は組織破壊にも通じる事。それは大謗法にもなるし、会員を不幸にするし、自分の周囲にある人間関係をも破壊する愚行だと考えているのでしょう。

 みな年を取って、保守的で現状追認主義になったんですね。確かに数十年も組織依存して生きていれば、そんな組織の柵を壊す事は出来ないのでしょう。

 しかし今の日本社会を見れば、少なからずとも痛みを感じると思うのです。特にこの新型コロナ禍の中で、収入も減少し、一部では職を失うという事も起きています。また原油高騰やウクライナ紛争を切っ掛けに生活資金が物価の値上げと共に、少しずつ苦しくなりはじめています。

 多くは政治的な問題でもあるので、やはり国民がもっと意識を持ち、声を上げていかなければならない時期に来ていますが、数百万票という実行力を内在している創価学会の活動家達の多くは、投票活動にはご執心ですが、肝心の政策や社会の現状認識には、まったく無頓着なのです。

 恐らく多くの創価学会の活動家は、信心の功徳によって自分達は無条件に守られていくんだという、根拠無い宗教的な確信を心の奥底では持っているのかもしれません。
 でもそれは、まさにカール-マルクスの言う「宗教は阿片である」という言葉通りの思考だと私は思うのです。甘美な宗教的な指導者の言葉に陶酔し、周囲で起きている物事への痛みも感じることなく、ひたすら宗教的な権威者達思うように利用され続けていく。そして気がついたら、精神的な廃人同様、利用され尽くした出し殻の様な姿しか残らない。

 確かに宗教で教えるものが、全ては阿片なるわけではありません。過去の先哲偉人多くも、宗教的な視点で多くの閃きをえて、それを人類社会に還元してきました。思うに宗教を阿片するも、良薬にするも、その宗教受け止める側の人に委ねられているという事なのでしょう。そこには外道の教えだからとか、唯一正しい仏法だからと言った事による差はありません。

 重要なのは、宗教説き教えられた内容を、一人ひとりがどの様に理解するのか、そこにしか無いと思うのです。

 ただ今世にある宗教大半は、その指導者たちにより「阿片」の様に扱われ、信者取っても阿片である事が望まれているようですけどね。



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