自燈明・法燈明の考察

五老僧について➂

 「五一相対」の元になっている文書は「五人所破抄」と「富士一跡門徒存知事」ですが、この内容について、ここから見ていきたいと思います。

◆五人所破抄
 富士宗学要集第二巻によれば、五人所破抄には「嘉暦三戊辰年七月草案す 日順」とあります。嘉暦三年(1328年)と言えば、日興師も最晩年の時です。ここにある「日順」とは重須談所(北山本門寺)の二代学頭職にあったもので、日興師から薫陶を受けた弟子でした。
 この状況を考えてみると、日興師が自身の晩年となり、六老僧の中で、師匠の日蓮に対する考え方、またその教説に対する捉え方について、他の五老僧と自分ではこの様な認識の違いがあった事を明確に語っておきたい事から、重須談所の当時の学頭であり弟子である日順に起草させたものでは無いかと思うのです。

 この五人所破抄を起草した年代には、日興師以外、六老僧で生存している者はいませんでした。長寿を全うした日昭師は5年前に亡くなり、日朗師は8年前、日向師も14年前、日頂師も11年前に亡くなっています。日持師に至っては既に国内から居なくなりかなりの年月が経過していました。

 その様な状況の中で、「五人一同に云く」と指摘しても、それはまるで欠席裁判の様な感じにしか私は感じられないのです。日頂師に至っては、晩年には日興師の在所の北山本門寺の学頭職をしていた身で、起草者の日順の先代の学頭職です。それを含めて「五人」とまとめて論じている事自体が、とても粗い事だと思うのです。

 ここで五老僧の立ち位置について再度振り返ってみたいと思います。

 まず日昭師ですが、「本化高祖年譜」によれば、日蓮より十四歳年長であったと言われています。この日昭は先の記事にも書きましたが、「法華本門円鈍戒血脈相承譜」には「権律師日昭」と記載されている事から、比叡山に修学した時代に受戒してこの僧位僧官を得たと考えられます。もし日蓮滅後に日昭が「天台沙門」を名乗るために受戒したというのであれば、当然、五人所破抄にもそこについては指摘されるはずですが、一切指摘はされていません。また師匠である日蓮もこの日昭師が「天台宗権律師」を持っている事について指摘や批難もしている箇所はありません。

 また日朗師は日昭師の甥という立場でした。その事から同門の先輩であり叔父である日昭師の影響も受けたという事は充分に考えられます。また晩年に日興師の居住した北山本門寺を訪れ、そこにある御影を見て涙したという事を考えた時、単純に「師匠の事を理解していない輩」という事で断ずる事が出来ないのではないでしょうか。

 日向師については、日蓮在世の時には報恩抄を奉じて小湊に赴き、道善房の墓前で日蓮の代わりに代読したり、「御講聞書」を著したりした事から、日蓮からの信頼も厚かったと思われます。しかし日蓮滅後に地頭の波木井氏の福士の塔建立等を黙認したという事から日興師と義絶したとありますが、ほかの四人の老僧とも不仲であった事が伝えられているのです。日蓮没時には池上におらず、墓輪番を定めた時には日向師は不在でした。また身延の初代別当となったといいますが、さりとて日興師以外の五老僧の中心となった訳ではなく、晩年はさみしい状況であった様です。

 日持師については、もともとが駿河蒲原の天台宗寺院の四十九院で日興師に師事して修学していましたが、日興師と共に四十九院を追放され日蓮の元で同門門下となりました。日蓮没後には日興師とは不仲となり、日興師が身延を離山してからまもなく行脚の旅へと出立しています。

 日頂師は元々が富木常忍の養子であり、日蓮没後には墓輪番にも参加していた様ですが、父である富木常忍から永仁元年(1295年)に勘当された後、興師の元で重須本門寺の学頭に就任しています。

 日蓮没後の門下の動きですが、日興上人・対・五老僧という縮図で捉えられていますが、それでは日蓮の時代、共に活躍した門徒などはどうだったのでしょうか。

 例えば重要な御書を頂いていた富木常忍は、自身が出家し日常と名乗り日蓮宗中山門流の祖師となりました。また四条金吾は甲斐国内船(現在の山梨県南巨摩郡南部町)の地を与えられ、そこで内船寺を建立しています。(現・日蓮宗寺院)また鎌倉の屋敷跡は、現在、収玄寺(現・日蓮宗)となっています。
日蓮が没時の場所となった池上邸の主、池上宗仲は、正応元年(1288年)、日蓮の七回忌の時に六老僧の一人、日朗師と共に日蓮の御影像を作ったと言われ、それが池上本門寺に今でも安置されています。また自身の邸宅であった場所を寄進し、それが今の池上本門寺となっています。

 ここから考えると、日蓮没後に日興師に付いた門徒は南条時光以外は少なかったのではないでしょうか。そしてそれぞれが自身の信仰心に基づいて、日蓮没後に自身の信仰を続けたと見るのが妥当だと思います。

・天台沙門の名乗りについて
 五人所破抄では、日蓮の立ち位置にういて、日興師以外の五老僧は「天台沙門(天台僧)」であると述べ、日興師は「(日蓮は)上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり」と述べ決して天台沙門ではないという立ち位置があり、違いがある事を述べている。

 ここで考えなければならない事があります。日蓮は出家をさせ門徒としています。当時、出家をさせるには阿闍梨号を得ている必要があります。日蓮が阿闍梨号を得ているのは、文永八年に行敏へ日蓮が難状を出した返事に、僧行敏から「日蓮阿闍梨御房」と認められている事から判ります。では日蓮は阿闍梨号をどこから得たのか、それは天台宗延暦寺からである事は間違い無いのです。だから公式の場で「天台沙門日蓮」と呼ぶ事自体は、けしておかしな事ではありません。

 現に日興師も自らの写本の「立正安国論」(玉沢妙法寺蔵)には「天台沙門日蓮勘之」と書いています。また千葉県市川市中山・法華経寺蔵の「日高写本」、千葉県香取郡多古町島・正覚寺蔵の「日祐写本」、千葉県香取郡多古町南中・(峯)妙興寺蔵の「日弁写本」の計三本に「天台沙門日蓮」との名乗りが確認されていますので、これは公式呼称として日蓮も用いていたのでしょう。

 日蓮自身も「妙密上人御消息」に於いては、以下の様に述べています。

「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず又末葉にもあらず持戒破戒にも闕て無戒の僧有智無智にもはづれたる牛羊の如くなる者なり」

 ここから見えるのは、日蓮自身、どの宗派であろうが、そこを重視しているのではなく、もっと本義的な処に重きを置いていたのでしょう。

 恐らく五老僧の門流の中で、日蓮を「天台沙門」と呼んでいた事を責めたと思うのですが、六老僧の門弟の中で日蓮を公称として「天台沙門」と呼んだ事を捉え、あえてそこを指摘するのは少し厳しいのではないか。私はその様に思うのです。

(続く)


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