広宣流布のあるべき姿として、「王仏冥合論」というのがありました。ここで「ありました」というのは、過去には創価学会も言っていたのですが、今の創価学会でこの言葉を知っている人は少なくなった事でしょう。いまこの言葉を真正面から語るのは富士大石寺顕正会くらいなものでは無いでしょうか。
過去に創価学会の戸田会長はこの様に指導していました。
「第一に本抄を拝して大網を了解したてまつり、後に他の御書を拝するのでなければ、大聖人の御正意を誤るとまでいわれている。
ところが、邪宗日蓮宗のなかには、本抄を大聖人の御真選ではないという説があったが、ごく一部の者を除いて、ほとんど疑書説は影をひそめている。第二祖日興上人いらい、正しく本抄を拝し実践につとめてきたのは、まったく日蓮正宗のみである。
さらに「一見の後・秘して他見有る可からず」と申され末弟子に下された「王仏冥合、戒壇建立」の御遺命を体して、その実現にバグ進しているのは創価学会のみであり、会長戸田城聖先生は大論文「王仏冥合論」にその具体的実践をおしたためである。」
ところが、邪宗日蓮宗のなかには、本抄を大聖人の御真選ではないという説があったが、ごく一部の者を除いて、ほとんど疑書説は影をひそめている。第二祖日興上人いらい、正しく本抄を拝し実践につとめてきたのは、まったく日蓮正宗のみである。
さらに「一見の後・秘して他見有る可からず」と申され末弟子に下された「王仏冥合、戒壇建立」の御遺命を体して、その実現にバグ進しているのは創価学会のみであり、会長戸田城聖先生は大論文「王仏冥合論」にその具体的実践をおしたためである。」
(大白蓮華61号)
この冒頭にある本抄というのは「三大秘法稟承事(三大秘法抄)」の事で、本文でもある様に、過去からこの御書は偽書説が言われていて、未だに真書とは確定していません。この本文では「ほとんど疑書説は影をひそめている。」と述べては居ますが、現段階でも日蓮正宗や創価学会版の御書全般にも多くの偽書が紛れ込んでいる事が、日蓮を研究している人達の間では半ば当然となっており、創価学会においても教学を蔑ろにしているのは、このブログでも幾つか指摘をしている通りです。これでは真偽の議論を深めているのではなく、単に放棄しているという事でもあり、何ら決着したという事ではないのです。
この王仏冥合については、その三大秘法抄にありますが、それは以下の様な内容です。
「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」
ここでは広宣流布が達成された時に建立される戒壇(本尊を安置する場所)について述べられています。戒壇が建てられる時には、王法(国の統治法、法律)が仏法(信仰する法)に冥じとあり、これは見えない形で取り込まれている事を言います。そして仏法が王法と合致してとありますが、これを「王仏冥合」と呼んでいます。創価学会の解釈では「王仏冥合」とは、国の統治法の中に、見えない形で仏法の精神が漲り、その法律で国が治められる事がここに書かれていると言うのですが、少し文書を読む力がある人であれば、その解釈に矛盾がある事に気付く筈です。
この三大秘法抄では国の統治法が信仰する法に冥じるとある様に、信仰がする事の中に国の統治法が目立たない様に混じる事であり、その信仰が統治法と合致する事を述べているのです。これのどこが国の法律の中に冥じる(見えない様に、根底の精神に漲る)と言うのでしょう。これでは逆に「王仏顕合」ともいうべき内容になっています。
また続いて「王臣一同に本門の三秘密を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とありますが、「王臣一同に」という解釈が昔から割れています。富士大石寺顕正会あたりでは「日本国民全体」という主張をしており、これは過去に日蓮正宗が解釈したままを踏襲していますが、創価学会では「国民の大多数」という事で、あくまでも多数を構成する事だと述べていました。これには形式的に日蓮正宗の解釈変更に伴い創価学会として変更したと言いますが、その背景には昭和四十年代に共産党から「政教一致」を指摘されての解釈変更であると思います。また「有徳王と覚徳比丘」とありますが、これは仏法説話の一つで、その内容とは国中に謗法の民が充満する中で、覚徳比丘という一人の僧侶が正法を持ち、その比丘が悪侶かた殺害されそうになった時、同じく正法を持つ王(有徳比丘)がその覚徳比丘を守るために戦い、亡くなってしまうという物語です。これは先に「王臣一同」と言いながら、もう片方では「国中に謗法の民が充満する」という、相反する事を書いていますが、ある見方をすれば、方や「王臣一同」と、国の為政者のほとんどが正法を持ち、人々の中には正法は未だ流布していない状況を書いているという解釈もなりたち、そこには平安時代まで続いていた「貴族仏教(国の権力層の仏教)」の名残の観点があるのかもしれません。
さらに「勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」とありますが、これは戒壇とは本尊を安置する建物なので、それには勅宣(天皇・朝廷の命令)と御教書(幕府の認可)をもって、その戒壇が建立されるとあります。これは鎌倉時代までの大寺院建立の手続きの事であり、現在においては国の政治は「政教分離の原則」があるので、一般的な建築許可という事にあたると思います。つまりしっかりと建築許可を取得して、景勝地に戒壇堂を建立しなさいという事なのです。
つまり「王仏冥合」とは、創価学会や時の宗門の解釈はともかく、三大秘法抄の解釈もままで言えば、信仰の中に国の統治法が潜り込み、その信仰が国の法律と共にあるという事であり、皮肉なもので今の創価学会の姿や姿勢そのものが「王仏冥合」となっているのです。
今の創価学会では「選挙こそ広宣流布の大事な戦いである」と述べていますが、これこそ「王法仏法に冥じ」であり、その活動に関与せず、否定的な人間を査問など様々な処分をかけて排除する事は「仏法王法に合して」と、そのままの形になっています。
皮肉なものですね。
しかし近代国家においては「政教分離の原則」というのは、とても重要視される事であり、そういった国家観からすれば、すでに「王仏冥合」なる言葉は相いれない事になるのであって、そういった思想性は宗教として見直しをかける必要があると思うのです。でも創価学会はこの「王仏冥合」の思想性に関しては一切総括もせず、本来はその目的達成のために政治の世界に進出したのですが、その行動を未だ改める事もしていません。
そして創価学会のそういった「信仰と政治の融合」ともいうべき活動が、結果として民主主義の今回を揺るがし、多くの国民を「政治的無関心」という方向に追いやってしまっているのです。
これについては、創価学会だけではなく、多くの国民に問題として認識をして頂きたい事でもあるのです。