自燈明・法燈明の考察

出世の本懐の考えかた

 「出世の本懐(出世の本懐)」という言葉を、私は創価学会で若い時に良く言われていました。それは「この世界に生まれてきた目的を果たす」という意味合いの言葉でしたが、これは今でも使っているのでしょうか。

 教学的に言えば、以前の創価学会では日蓮正宗と同じだったので、日蓮が弘安二年に大御本尊を書き顕した事が、日蓮の出世の本懐と言っていましたが、何やら2014年11月の会則改正による教義改正では、熱原の法難を見て、幕府に対して農民信徒が反抗し、そこで弾圧を受けて幾人か亡くなった姿を通して「民衆仏法が確立した事を知った」という事に変化しています。

 そもそも鎌倉時代には「民衆」という概念はなく、あっても「民草」であり、その人々が社会の実権者として躍り出るなんて事はありません。この辺りは先日までやっていた大河ドラマの「鎌倉殿の13人」を見ていても判る事なんですが、鎌倉時代には、それまで朝廷の家臣に過ぎなかった武者が、漸く朝廷に対抗できる位置になっていた時代であり、その武者の下にいる農民などが自主的に何かをもって、世の中を屹立して動き出すなんて事はありません。

 そういう事からも、創価学会のここ最近の教学というのが、如何に付け焼刃であるのかわかりそうなものなんですが、そもそも弘安二年の大御本尊を図顕する事が目的であったのかと言えば、それも違うと私は思うのですよね。だってそれが目的なら、あんな相藐がおかしな文字曼荼羅であるはずがありません。

 さて、そもそもこの世界に生まれ出た目的、いわゆる「出世の本懐」という考え方はどうなんでしょうか。恐らく日蓮は個人的にそういった事は考えていたかもしれませんが、それってとても個人の内面的な話であって、おいそれと門下や門弟には語ってないのかもしれませんね。

 だからこの「出世の本懐」という話題は、過去から様々な憶測を呼んできたのではないでしょうか。

 では全く私達はその事を無視して良いかと言えば、やはり個人的な心情の中では、それぞれがこの世界に生まれてきた目的という事を考えながら、自分自身の人生の中で、「今がその時」とか「これからがその時」という風に考えるタイミングがあっても良いのかなと思います。

 ただそれは先にも述べましたが、まったく個人的な内面の話なので、特段、外に対して宣言するものではないだろうし、人によっては考えずに人生を終える事もある話だと思います。

 私の場合、そろそろかもしれないな。なんて個人的には考えたりするんですけど、未だ私がこの世界に生まれ出た事について、確たる確信を持ち合わせていないので、まだまだ思案していく事なのかもしれませんね。

 さて、皆さんはこの事をどの様に考えますか?


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コメント一覧

jitou_houtou
失礼しました。書きたかったのは出世の本懐の事でしたので、ここに訂正しました。
令和の法華衆
仏がこの娑婆世界に出現した目的は「発迹顕本」ではなく「出世の本懐」だ。

貴殿、「燈明流」が創価学会や日蓮正宗の教学が「焼付け」等と言うなら仏法用語を正しく弁えてから云々せよ!!

勝手に仏法用語を「貼り付け」て学者ぶって上から物を申すべからずだ。
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