自燈明・法燈明の考察

人生は永遠ではない

 今日は東京方面に出勤です。テレワークで全てが賄えればハッピーなのかもしれませんが、やはり機械相手にしなければならない時には、その機械のある場所に出向かなければなりません。東京の感染者数が一日で八百人を超えたと言いますが、仕事となれば関係なしです。

 さて、最近ふと思うのですが、私を含め人というのは今日と同じ日が明日も続き、来年や再来年、そして十年後やその後もずーっと続くと言うふうに考えてしまいます。だから途中、病気等でそれが続くという幻想が途絶えた時。困惑し深い絶望感に襲われるのかもしれません。

 何故こんな事を考えるのかと言えば、毎朝洗顔の時に、鏡の中の自分を見ると、やはり頭髪に交じる白髪の量とか、首筋や顔の皮のたるみを見たりすると、自分もそれなりに歳を重ねてきた事を考えてしまい、この先の人生の残り時間について考えてしまう事があるからです。

 個人的には「ついこの間」に今の嫁と結婚し、子供が産まれてから悲喜こもごもな生活をドタバタして来て、気が付けば子供も中学生や高校生になり、その姿にふと自分の昔の姿を重ねたりする事もあって、思い返すと様々な人生の出来事を経てきた事に気付かされたりもします。

 今の社会では、人の誕生と死は、病院という施設の中で起きていて、日常生活からは切り離されていたりもします。そして社会の仕組みの中には、自分の人生が有限であり、何れは消え去るという事を気付かせてくれる場はありません。唯一あるとしたら、男性の場合など(女性もそうでしょうが)、定年退職の時とか、親しい人の葬式等だけではないでしょうか。

 先日の事、ある動画サイトで見たのは「荒らしのゲーマー」が何を思ったのか、自分が首を吊る処を、ネットで動画配信したというものです。あまり趣味は良くないですね。

 そこでは首を吊ッた直後に「嘘だろ、、、」と呻きの中で言い、そのままブラーんとぶら下がって動きが止まったという動画でした。「嘘だろ」と彼は何故言ったのか、コメント欄には様々な意見が溢れていました。

 人は日常生活で生きる中、自分の「死」についてマトモに考える事は有りません。今の社会では「死後の世界」というのは公式に認知されているわけではなく、あくまでも一部のオカルトやスピリチュアルな人達の話題でしかないのです。

 だから発作的に「死」を選択したとして、昨日までの自分の生活や世界が、そこで全てが終わってしまうという事について、理解が及ぶはずもありません。 

 「死」の先には、今まで当たり前のようにあった日常生活は無くなります。死んでしまえば翌日の朝日を見ることも、家族や知人との他愛のない対話も、全てが無くなってしまいます。

 私達の人生というのは、たかだか数十年。これを読んで頂いている人達も、恐らく五十年後には等しく骨壷に入っているでしょう。つまり認めようが認めまいが、「死」は必ず誰の上にも訪れてきます。そこに例外という事はありません。

 であれば人は死生観について、もっと日常から意識すべきなのではありませんかね?

 「死」を迎えたら全てが終わり無になるのか、それともそこには新たな世界があるのか。もしかしたら、そこには例えば夢から目覚めた様に「別の現実」が存在するのか。悲しいかな今の人類の科学では、この事には一切答えを出せないレベルなのです。かと言って宗教の中にも、この事には正確な解答を出せるものはありません。

 だからこそ、一人ひとりがこの事を少しでも真摯に考えるべき必要がある事だと思いますよ。


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