新古今和歌集の部屋

謡曲 錦木

錦木                             三番目物 世阿弥作

諸国一見の僧が、陸奥の狭布の里(秋田県鹿角市錦木)で鳥の羽を持つ女と美しく彩った木を持つ男から、細布と錦木を買ってくれと言われ、その謂われを聞くと、胸あひ難き恋と例えられる細布と求婚の為に女の門に立てかける錦木でここの名物で、三年間錦木を立て続けた男の塚があると語り、案内すると夫婦らしき二人は塚の中に消えた。そこで僧達は読経をしてやると二人が現れ、仏縁を得た悦びの舞を
奏している内に明け方となり、僧は夢から覚める。


ワキ げにや聞きても信夫山、げにや聞きても信夫山、その通路を尋ねん
ワキ 是ハ諸國一見乃僧にて候、我いまだ東國を見ず候程に、この度思ひ立ち陸奧の果てまでも修行せばやと思ひ候
ワキ・ワキツレ 何處にも、心とめじと行く雲乃、心とめじと行く雲乃、旗手も見えて夕暮の空も重なる旅衣、奧ハ其方か陸奧乃、狭布の里にも着きにけり狭布の里にも着きにけり。

シテ・ツレ 狭布の細布をり/\乃、狭布の細布をり/\の、錦木や名立てなるらん
シテ 陸奧の、忍捩摺り誰ゆゑに、亂れ初めにし我からと
シテ・ツレ 藻に棲む蟲の音に泣て、壁生草の何時かさて、思ひを干さん衣手乃、森の下露起きもせず、寝もせで夜半を明してハ、春の眺めも如何ならん、
シテ 淺ましやそも幾程の身にしあれば、なほ待つ事乃あり顏にて、思はぬ人を思ひ寝の夢か現か寝てか覺めてか、これや戀慕の習ひなる
二人 徒らに過ぐる心ハ多けれど、身になす事ハ涙川、流れて早き月日かな流れて早き月日かな。
二人 げにや流れてハ、妹背の中乃川と聞く、妹背の中乃川と聞く、吉野の山ハ何處ぞや、此こハまた、心乃奧か陸奧の狭布の郡の名にし負ふ、細布乃、色こそ變れ錦木の、千度百夜徒らに、悔しき頼みなりけるぞ、悔しき頼みなりける
ワキ 不思議やなこれなる市人を見れば、夫婦と思しくて、女性の持ち給ひたるハ、鳥乃羽にて織りたる布と見えたり、また男の持ちたるハ美しく彩り飾りたる木なり、これハ何れも/\不思議なる賣物かな、是ハ何と申したる物にて候ぞ
ツレ これハ細布とて機ばり狭き布なり
シテ これハ錦木とて彩り飾れる木なり、何れも何れも當所の名物なりこれ/\召され候へ
ワキ げに/\錦木細布の事は承及たる及びたる名物なり、さて何故の名物にて候やらん。
ツレ うたての仰せ候や、名に負ふ錦木細布の、そのかひもなく外までハ、聞きも及ばせ給はぬよなう
シテ いや/\それも御理、その道々に縁なき事をば、何とて知ろし召さるべき
シテ・ツレ 見奉れば世を捨人乃、戀慕の道乃色に染む、この錦木や細布乃、知ろし召さぬハ理なり
ワキ あら面白の返答やな、さて/\錦木細布とハ、戀路に因りたる謂はれよなう
シテ なか/\乃事三年まで、立て置く數の錦木を、日毎に立てゝ千束とも詠み
ツレ また細布ハ機ばり狭くて、さながら身をも隱さねば、胸あひ難き戀とも詠みて
シテ 怨みにも寄せ
ツレ 名をも立てゝ
シテ 逢はぬを種と
ツレ 詠む歌の
地 錦木ハ、立てながらこそ朽ちにけれ、立てながらこそ朽ちにけれ、狭布の細布、胸あはじとやとさしも詠みし細布の、機ばりもなき身にて、歌物語恥かしや、げにや名のみハ岩代乃、松の言乃葉とり置き夕日の影も錦木の、宿りにいざや歸らん宿りにいざや歸らん

ワキ なお/\錦木細布の謂はれ御物語候へ
シテ 昔よりこの所の習ひにて、男女の媒にハこの錦木を作り、女の家乃門に立つる標の木なれば、美しく彩り飾りてこれを錦木と云ふ、さる程に逢ふべき男の錦木をば取り入れ、逢ふまじきをば取り入れねば、或ハ百夜三年までも立てしによつて、千束とも詠めり、又この山陰に錦塚とて候、これこそ三年まで錦木立てたりし人の古墳なれば、取り置く錦木の數ともに塚に築き籠めて、これを錦塚と申候
ワキ さらばその錦塚を見て、故郷乃物語にし候べし教へて賜はり候へシテ おふいでいで/\さらば教へ申さんツレ 此方へ入らせ給へとて
二人 夫婦の者ハ先に立ち、かの旅人を伴ひつゝ
地 狭布の細道分けくらして錦塚ハ何處ぞ、かの岡に、草刈る男心して、人の通路明らかに、教へよや道芝乃、露をば誰に問はまし眞如の玉ハ何處ぞや、求めたくぞ覺ゆる
シテ 秋寒げなる夕まぐれ
同 嵐木枯村時雨、露分けかねて足引の山の常陰も物寂び松桂に鳴く梟蘭菊の花に藏るなる、狐棲むなる塚の草、もみぢ葉染めて錦塚ハ、これぞと言ひ捨てゝ、塚乃内にぞ入りにける、夫婦ハ塚に入りにけり。

(問答)

ワキ 牡鹿の角乃束の間も、牡鹿の角乃束の間も、寝られんものか秋風の、松乃下臥夜もすがら、聲佛事をやなしぬらむ、聲佛事をやなしぬらん

  
※牡鹿の角
乃束の間も  巻第十五 恋歌五 1373 柿本人麻呂 題しらず

夏野行くをじかの角のつかのまもわすれず思へ妹がこころを

ツレ いかにお僧、一樹一河乃流れを汲むも、他生乃縁ぞと聞くものを、ましてや値遇のあればこそ、かく宿りする草乃枕の、夢ばし覺まし給ふなよ、あら尊乃御法やな
シテ あらありがたの御弔ひやな、二世とかねたる契りだにも、さしも三年乃日數積る、この錦木の逢ひ難き、法の値遇のありがたさよ、いで/\姿を見え申さん。
シテ 今こそハ、色に出でなん錦木の
地 三年ハ過ぎぬ古の
シテ 夢また夢に、今宵三年の値遇に、今ぞ歸るなれと
同 尾花が下乃、思ひ草の、陰より見えたる塚の幻に、現れ出づるを御覽ぜよ
シテ いふならく、奈落の底に、入りぬれば、刹利も首陀も、變らざりけり變らざりけりあら、恥づかしや

ワキ 不思議やなさも古塚と見えつるが、内ハ輝く燈火の、影明らかなる人家の内に、機物を立て錦木を積みて、昔を現すよそほひたり、これハ夢かや現かや
女 かき昏らす心の闇に惑ひにき、夢現とは世人定めよ
シテ げにや昔に業平も、世人定めよと言ひしものを、夢現とハ旅人こそ、よく/\知ろし召さるべけれ
ワキ よし夢なりとも現なりとも、はや/\昔を現して、夜すがら我に見せ給へ
シテ いで/\昔を現さんと、夕陰草の月乃夜に
女 女ハ塚の内に入りて、秋の心も細布乃機物を立てゝ機を織れば
シテ 夫ハ錦木取り持ちて、閉したる門を敲けども
女 内より答ふる事もなく、密かに音するものとてハ
シテ 機物の音
女 秋の蟲乃音
シテ 聞けば夜聲も
女 きり
シテ はたり
女 ちやう
シテ ちやう
同 きりはたりちやう/\、きりはたりちやう/\、機織松蟲きりぎりす、つゝりさせよと鳴く蟲の、衣乃爲か勿侘びそ己が住む野乃千種の絲乃細布織りて取らせむ

同 げにや陸奧の狭布乃郡の習ひとて、所からなる事業の、世に類ひなき有樣かな
シテ 申しつるだに憚りなるに、なほも昔を現せとの
地 お僧乃仰せに從ひて、織る細布や錦木の、千度百夜を經るとてもこの執心ハよも盡きじ
シテ 然共今遇ひ難き縁によりて
同 妙なる一乗妙典乃、功力を得んと懺悔乃姿、夢中になほも現すなり。
同 夫ハ錦木を運べば女ハ内に細布の、機織る蟲乃音に立てゝ、問ふまでこそなけれども、たがひに内外に在るぞとハ、知られ知らるゝ中垣乃、草の戸ざしハそのまゝにて、夜ハ既に明ければ、すご/\と立ち歸りぬ、さる程に、思ひの數も積り來て、錦木ハ色朽ちてさながら苔に埋木乃、人知れぬ身ならばかくて思ひも止るべきに、錦木ハ朽つれども、名ハ立ち添ひて逢ふ事ハ、涙も色に出でけるかや、戀乃染木とも、この錦木を詠みしなり
シテ 思ひきや、榻の端はしがきかきつめて
同 百夜も同じ丸寝せんと、詠みしだにある物を、せめてハ一年待つのみか、二年餘りありてはや陸奧の今日までも、年くれなゐの錦木ハ、千度になれば徒らに、我も門邊に立ち居り錦木と共に朽ちぬべき、袖の涙乃邂逅にもなどや見みえ給はぬぞ、さて何時か三年は滿ちぬ、あらつれな/\や。

地 錦木ハ
シテ 千束に成ぬ、今こそハ
地 人に知られぬ、閨の内見め
シテ 嬉しやな、今宵鸚鵡のさかづき乃
地 雪を廻らす、舞の袖かな舞乃袖かな。


シテ 舞を舞ひ、
地 舞を舞ひ、歌を謡ふも、妹背の媒立立つるハ錦木
シテ 織るハ細ぬの乃
同 とり/\樣々の夜遊の盃に映りて有明の、影恥かしや、恥かしや、あさ
まにやなりなん、覺めぬ前こそ夢人なるもの、覺めなば錦木も細布も、
夢も破れて、松風颯々たる朝の原乃野中乃塚とぞ、なりにける

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