こんにちはAKOです
先日は
元お坊さんの松岡牧師をお招きして特別集会(計3回)をGVICにて行いました。
20年前までの松岡先生は現役バリバリの
お坊さんで、大学院では博士課程で勉強中に、韓国へ留学され、お坊さんですからもちろん坊主頭で、お寺めぐり、お坊さんめぐりをされ、交友関係といえばお坊さんばかり
やっぱり。 ところが、お友達がクリスチャンの友人から教会のクリスマス会に誘われたから一緒に来てほしいと頼まれ「クリスマスだから!普段は行かないけれどね
・・・」と思って一緒に行ったのでした。
クリスマス会が終わっての帰り際、若い女性が「今度の日曜日も礼拝がありますから、来てください
」
といわれたので、さりげなく断ったのに、その女性は青年松岡僧侶の後をついてきて、「日曜日に教会へおいでください
」と帰り道を追ってきて熱心に誘うのだそうです。若い女性にそれほど熱心に誘われては、断りきれずに「行きます」と約束してしまい、次の日曜日に
教会へ行くのです。教会では青年会の会長さんからバイブルスタディに誘われますが、「
お坊さんとして、キリスト教の教えを知るのも良い事」と松岡先生は考え、
聖書の学びを始めました。
真理を求めてお坊さんになった松岡先生は、仏教教理を勉強すればするほどわからなくなり(困った
)真理を追究するために大学院、博士課程まで進んでいました。
その先生がバイブルの学びを始めると、聖書の言葉がすんなり心に入り込んだそうです
聖書に
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、
それは極めて良かった。 創世記1:31 と書いてあります。この極めて良かった!というところ、韓国語では「シミ チョッタ」と「シミ」とは「ひどく」という意味で強い意味があるそうです。
“神様がお造りになったすべてのものはひどく良かった、そんなに良かったんだ~”と感動
したそうです。なぜなら、仏教で真逆、「すべてのものは空しく実体の無いものだ。」という否定的な教えだからです。
この新鮮な聖書の学びも3ヶ月が過ぎ、キリスト教の中心的教え
“イエスキリストによる救い” 大きな壁にぶち当たりました。
『神によって素晴らしい存在として造られた人間は、最初の人間アダムの罪によって人間に罪が入り、人間は罪あるものとして生まれるようになる。その後人間は罪に罪を重ね、人間と神様の関係は回復不可能となる。そこで、神様は一人子イエス様を罪人である人間を救うために、この世に使わした。イエス様はすべての人間の罪の身代わりになって十字架にかかって死んでくださった。そして、3日後に死から蘇り、しばらく弟子たちに姿を現し、天に昇っていった。イエスキリストを信じる者は罪赦され、救われる。』
この教理について頭では理解しても、それを信じることはできないとはっきり思った松岡先生。
クリスチャンになるということは、
自分は罪人だと認めることなので、そこにはおのずと悔い改め(生き方の方向転換:今までの行き方を改める)が生じるのだけれど、どう考えてみても自分が罪人だと思えないし、悔い改めはできない “あ~そろそろ教会へ来るのをやめよう・・・」と思ったそうです。
ところが青年部の聖書の学びには宿題があってその発表がちょうど松岡先生の番になってしまい、とにかく発表しなくてはなりません。。。。。。
お題「悔い改め」どうしよう・・・悔い改めについてのキリスト教教理はまとめられても、肝心の自分の思いは見当もつかずにかけず当日の朝。
とにかく書いて読めばいいんだ!と思っていると、
ポッと頭に浮かんだ言葉「私は罪人でした。赦してください」 全然そう思っていないのに、松岡先生はノートに書きます。次いで、「あなたに造られておきながら、あなたを無視していたことを赦してください」と自分意思とは関係なく浮かんだ言葉をノートに書き、いつの間にか悔い改めびっしりの原稿が出来上がりました。
教会で読み上げるときになりました。
まぁ読み上げてしまえばいいんだ、という気持ちしかなかった松岡先生はは、「神様お許しください・・・」の自分の悔い改めの言葉を読んだとたん、涙がこみ上げ、
大きな声で鳴いてしまったのです。
ワンワンなきながら最後まで読み終えた松岡先生、その泣きは苦しいものではなく、快感に近かったと言います。
そして、頭だけの悔い改めの文章が、本物の悔い改めとなり、すっかり変えられてしまった松岡先生、大きな光が彼を差し込み、「神様はいらっしゃる
僕は天国へいけるんだ
」と思ったそうです。
それからというもの、嬉しくて嬉しくて周りの人にイエス様のことを言わずにはいられず、学校でもどこでも、「神様はいらっしゃいます!素晴らしい」と言い回り、学校もお坊さんも辞めるのです。当然お寺、学校の教授みんなが大反対と大迫害でした。迫害がくれば来るほど
喜びが沸き、迫害に負けることができなかった!という素晴らしい体験をしたそうです
松岡先生はお坊さんでした。そのお坊さんのままで神様は主のところへ招いてくださり、救われたのです。
韓国で、教会の方がお坊さんだと知っていながら、熱心に礼拝に来るように誘わなかったら、松岡先生は今も心理を求めてお坊さんをしていたかもしれません。
お坊さんだろうが、ヤクザだろうが、ソープ嬢だろうが、神様から愛され、
神様のその人への栄光の目的があるのです。
松岡先生は巡回伝道師として、お坊さんという特別な知識を持って「真理なる神様 イエスキリストの福音」と述べ伝えておられます。
松岡先生 ありがとうございました。