パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

意生身の所有の危険

2009-07-04 23:07:21 | 仏教
これも2年前に書いたものです。

ユング派分析家老松克博先生は『サトル・ボディのユング心理学』で
サトル・ボディとの関わりの重要性を指摘する一方で、その危険性を指摘します。

それは、サトル・ボディ(意生身)の所有の危険についてです。自我肥大の危険、サトル・ボディ(意生身)の持つ破壊性、自我がサトル・ボディ(意生身)に憑依されてしまうことなどが指摘されています。往相のプロセスにおいての危険であり、還相のプロセスが重要なのだといいます。それはサトル・ボディ(意生身)との別離であるといいます。

仏道の場合、往相のサトル・ボディ(意生身)を扱うことになります。それを所有しつづける必要性があるからです。

『十地経』の第八地の無生法忍を得たものはその悟りから離れてはならないといいます。なおかつ、それを最上のものとみなしてはならないこと、発心することを最低限求めます。さらに、それができた者に対して世界を観察することを要請します。衆生、世界のさまざまな違いを知るのです。それはおそらく、浄土の世界に安住して、その浄土の世界のみ見ている状態でいることなく、現実の世界を見ることができなければならないことを要請しているものと考えられます。
区別して見ることは、自我の役割です。自我のそうした役割を失わず、現実をよく学ぶことの必要性を説いているものと考えられます。

追記

必ずしも、仏道が意生身を所有しつづけなければならないというわけではないと思います。個人個人の違いによって、それぞれの仕方があるようです。
意生身でいることにこだわりすぎることはやはり、よくないともいえます。ただ、それは個人の工夫によって、うまい仕方でつきあっていくのがよいともいえそうですし、つきあうのをやめて、さよならするのもよいでしょう。あまり、こだわりすぎるとか、決め付けすぎるのはよくないでしょうね。楽に考えてよいのではないでしょうか。危険なのはとらわれて、それに気がつかないことではないでしょうか。

ダンマ・如来と自我、ユング心理学

2009-07-04 22:41:04 | 仏教
以下の記事は、いまから2年前に書いたものです。いまとはちょっと考え方は違っているかもしれませんが、手直しせずにそのまま掲載します。


ユング派分析家の河合隼雄先生の『ユング心理学と仏教』において、次のようにあります。
「心理療法の場で、私は大日如来を中心におき、その意を推しはかる気持ちで発言してはどうかとかんがえるのです。
いわば、中心に沈黙があり、その沈黙の顕れとして言葉があるのです。」

このことは禅定の基本をあらわしているものと思われます。

河合先生は先の著書で、自身では、意識の空化の経験はないとおっしゃています。また、真如をわかろうとすれば、禅定に入って修行しなければならないいだろうといい、それは、身体の在り方に関係する知であろうと。
さらには、次のように述べられます。
仏教に関心がなかったけれども、心理療法の体験が仏道修行の類似のものになっていたのではないかと思う。心理療法の体験を重ねていくうちに、仏教をある程度理解できるようになってきた。ただし、まったく自己流の勝手な考えによっていることはいうまでもない、とおっしゃています。

河合先生のいう大日如来の中心におくことは、私が先に述べた禅定状態の如来が中心となると同じものと考えられます。

また、河合隼雄著『心理療法入門』では、
「自分を「道」の状態にすることなど到底言えないが、因果的思考や操作しようとする姿勢を放棄して、できる限り自分の意識のレベルを下げてクライアントと向き合っていると、自然治癒の状況が生じやすい、と言うことができる。
ただ、そうは言っても、クライアントの問題意識や全体状況のなかで、治療者も通常レベルの意識における応答が必要なときもあるので、状況に即して、自分の意識レベルを変えることが必要である。ここのところが、ひたすら修行を目指している宗教家と異なるところだと思われる。」とあります。

因果的思考や操作しようとする姿勢を放棄して、できる限り自分の意識のレベルを下げることは、禅定の入る際の必須なことです。そのようにするからこそ、如来が中心となるのです。河合先生は禅定修行の経験がないにもかかわらず、心理療法の体験から得た、禅定の基本を身をもってご存知であることに私は驚いてしまいます。

先の、「状況に即して、自分の意識レベルを変えることが必要である」とありますが、禅定に習熟しますと、如来が中心のままに、物事を考えたり、話したりすることは十分可能です。ただし、自我が活発になってしまうとそれは不可能となってしまいます。

クリシュナムルティのいう観察者なしの観察は自我の働きが静まり、沈黙が中心となった状態での観察を意味するものと考えます。その観察はやはり、自我にほかならないのですが、沈黙が中心になっているかいなかが通常のそれとは決定的な違いがあるといえると思います。

ラマナもアートマンとしてある状態に住しているわけですが、質問者に受け答えするラマナは、アートマンに住するラマナの自我にほかならないでしょう。アートマンに住するかいなかが問題なのです。

盤珪についても同じです。仏心の働くままに、説法するとしても、その説法する主体は盤珪の自我にほかなりません。

ユングは、ラマナのことばはインド精神の最高のもので、インドの人ばかりではなく、西洋人にとっても意義深いものと評します。ただ、「われ」の意識が果たす役割の重要性を認める必要がある、といいいます。

なるほどと思わずにはいられません。ラマナはアートマンに住することの徹底さは他の追従を許さないものと思われます。その偉大さは間違いないでしょう。問題は自我の果たす役割の意義を認めるか否かということになるでしょう。

ユング派分析家のウォルター・オダージンク著『瞑想とユング心理学』では、禅が特徴として、純粋意識、というべきセルフのウロボロス元型だけを活性化する。個人的無意識を無視するために、悟りの体験を持ちながら、幼児的、暴力的な個人的心を持つことさえある。ユング心理学はこの個人的な心を発展させ、全体的となる技法があり、その問題に対して、対処することができるとあります。

プロセス指向心理学の創始者アーノルド・ミンデルは『自分さがしの瞑想』において悟りの落とし穴について述べています。
悟りを最終目標として、それに到達すればすべての問題が解決する考えは、東洋の瞑想の誤解であり、そこから、うぬぼれが出てくることがあります。他人をレベルが低いとか、幼稚とかみなす傾向があるといっています。
また、東洋の瞑想は対人関係の問題についてなおざりにしがちであるといいます。

オダージンクさんとミンデルさんがいっていることは、まさしくそのとおりではないかと思うのです。
大乗経典においても、悟りの体験者に対して慢心の罪は五逆の罪よりも重いとまでいうほど厳しく戒めています。
その矛先は自身にも、もちろん向けられているでしょうが、主に小乗の阿羅漢たちに向けられているようにも感じられます。
他人のそれには敏感であっても、自身のそれには気づかないことは大いにありうることです。
個人的な心の問題については手付かずのままということになるのではないでしょうか。幼児的、暴力的な個人的心を持っていないなどとはいえない。また、対人関係の問題についても、葛藤を抱えたままであるでしょう。

平将門、首塚

2009-07-04 01:23:23 | 宗教
前回は、祟り神、怨霊について、ネットで調べたものを集めてみた。
今回も、その続き。平将門について。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

首の伝説

「また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚である。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。」

「昭和の終り、東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられるなどして広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。」

平将門の首塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平將門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ。伝承地は各地にあるが、ここでは主に東京都指定旧跡のものを取り上げる。

平将門の首塚

概要

伝承では、首は平安京まで送られ東の市・都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数ヶ所あり、いずれも平将門の首塚とされている。その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町1-2-1外にある首塚である。かつてはマウンドと、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であると考えられる。

この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村であった。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。

首塚そのものは関東大震災によって倒壊し、周辺跡地に大蔵省が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。その後大蔵省が建てられるが、工事関係者や大蔵省職員の相次ぐ不審死が起こり、将門の祟りが大蔵省内で噂されることとなる。大蔵省内の動揺を抑えるため昭和2年に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。

この地は、東京駅に近く皇居の間近に位置するため、周辺にはオフィスビルが林立しているが、この一角だけはそれほど広い敷地ではないにもかかわらず鬱蒼とした木が茂り、現在でも、一種異様な雰囲気を醸し出している。敷地内には、巨大な作り物のガマが数多く石碑の周囲に置かれている。そして、線香の匂いが絶えることがなく物静かで、そこに表通りの車の音がする場所である。

数十年にわたり地元のボランティア団体が浄財を元に周辺の清掃・整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱東京UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。

祟り伝説

築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来たのも頷けるものがある。そのことを最も象徴的に表すのが、第二次世界大戦後に、GHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとしたとき、不審な事故が相次いだため、結局、造成計画を取り止めたという事件である。

結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、そのひと気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、聖域として守られている。その一方、一部のオカルトファンに心霊スポットとみられる風潮もある。


都に曝された将門の首(『平将門退治図会』)http://www.ippusai.com/hp_home/edo_tokyo/edo120.htmより。

「一部のオカルトファンに心霊スポットとみられる風潮」。これは一歩間違えれば、大変怖いことですね。本当の恐ろしさを知らないことが怖いのです。絶対に遊び半分の気持ちで訪れてはいけないでしょう。
私は一度、訪れたことがあります。もちろん、まじめな気持ちで。
あることのお願いをするためにまいりました。どうか願いが叶うといいのですが。
もうこれ以上、恐ろしいことが起きませんように。