使徒言行録が、ルカによる福音書の続編であることについては、ほぼ意見の相違を見ることがありません。内容からしても、語法からしても、それを否定する要素がないとされています。著者名をルカと呼ぶことは、ひとつの便宜上のことではありましょうが、概ねそのようにしておいて差し支えないと見られています。この百年内に、それをも疑ってみる試みがありましたが、少なくとも本文をそのまま受け容れる限り、あまり衒った解釈をする必要はないと見られています。その理由としてよく言われるのが、「私たち」という表現です。16章以後、また20章以後、そして27章以後に、それまでの客観的叙述から一転して、主語が「私たち」に変わります。もちろん作為的にそのようにしたのだというところまで考えるならば疑うことは可能ですが、見渡すかぎり純朴に、主語が自然に入れ替わっていく記述とその内容とから考えても、これは事態を正直に描写している故であると考えるほかはないようです。「私たち」という視点で展開していくとき、この文書の筆者がパウロと行動を共にしていることは明らかであるし、このパウロの様子を目撃しているという前提で叙述を理解して、なんの問題もないと思われます。それがルカという名前であるのかどうか、それは確かに研究の余地はあるかもしれません。が、どういう名前の人物が書いたのであれ、伝統的にその伝わり方から考えても、逆に、この著者を私たちがルカと名づけたものとするならば、結局この文書は「ルカによる福音書」としておいて何ら支障がないということになるでしょう。