こうして記録は「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(使徒28:30-31)という結末を迎えました。実は、この直前に「パウロがこのようなことを語ったところ、ユダヤ人たちは大いに論じ合いながら帰って行った」(使徒28:29)が加えられている写本があります。後世ある系統でここにこの句が加えられたといいます。節番号を付けたときの原典がそれでしたので、番号が振られているのです。説明のために加えられたとされています。果たしてユダヤ人たちは、どうなるんだろうと課題を抱きつつ戻ったのでしょうか。こうなると、パウロのいわば絶縁宣言で終了というわけではなく、いくらかの含みをもたせることができたことにもなるでしょう。ところでパウロの生活は、比較的自由であったように記されています。軟禁状態のようです。しかしその後に、遅いか早いかはさておき、パウロは殉教したという記録が信頼されています。ならばルカはどうしてそれを記さなかったのでしょうか。含みがあるような言い方ではありますが、とにかく書いておりません。この記録は、ローマの高官に宛てて書いたことになっていたことを思い起こしましょう。ローマ側に、パウロの死を突きつけることはこの場合相応しくなかった可能性があります。パウロを殺したのはローマ皇帝であったとされるからです。一説には、ルカはさらにこの続きを書きたかったとも言われています。あるいは、実際書いたけれども遺らなかったのでしょうか。しかし、末尾としてもこの終わり方は悪くはありません。完結は完結だろうと思います。パウロはローマでは大きな影響を与えることはできなかったのでしょう。パウロにしてみれば残念です。しかし、パウロから福音は多くの人に伝えられ、そこからまた拡がっていくことになりました。福音は、様々なルートで、神のしもべたちに受け継がれたのです。私たちもその一人です。私たちはパウロに歓迎され、宣べ伝えられたのです。そして私たちもまた、次の世代へ、次の世界へ、神の国を伝えていくように励まされているのです。(了)