ヨハネに告げるのはこの程度で終わりです。しかし、またここにいる群衆に向けてイエスは語らなければなりません。ヨハネのように、メシアだという一点だけで関心をもつ者ではなく、ただ何かを求めて集まっている群衆に向けて、問いかけることをしなければなりません。「ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた」(ルカ7:24)とあるとおりです。ヨハネは、イエスにとり助け手となるような存在ではありませんでした。しかし、道を整えるための一定の役割をしたことは認めているようです。いないならいないでも構わなかったかもしれない存在なのでしょうか。それにしては存在価値を大きく置いているように聞こえます。こうしたことから、イエスとヨハネの関係について穿った見方をする人がいます。元来ヨハネ教団の一員として育成されたのではないか、などと。福音書や書簡からして、そのような気配は少しもありません。他に明確な言及資料があるわけでもありません。場合によっては、クムラン宗団との関係の濃さを指摘されるヨハネですが、それすら全く明らかではないのです。ただ、たしかにクムランの教団のように、質素な生活や隠遁的な生き方はヨハネの姿と重なるところはあります。想像を豊かにすればいろいろ言うことはできるでしょうが、何ら証拠や根拠はないというのが実情です。何かしら一定の曰くや組織の中でしか宗教発生を考えられない思考枠の中で飛び出した推測に過ぎない、というのが実情ではないでしょうか。