次に「二人が田舎の方へ歩いて行く途中」(マルコ16:12)のエピソードが記されていますが、これはルカによる福音書24章のエマオへの道を意味しているものと考えられています。あるいはこれを基にして、ルカはエマオへの途上での主の顕現を綴ったのでしょうか。
やはり彼らの言うことも、他の弟子たちには信用してもらえません。
それから「十一人が食事をしているとき」(マルコ16:14)のことが書かれています。「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」(マルコ16:14)とありますから、ユダを除く十一人の弟子たちが、咎められているように見えますが、ここには、「信じなかった」の言葉がありません。もとより、他人からの伝聞ではなく、その目の前に直に現れたのですから、信じないはずがない、ということも言えますが、逆に、あくまでもここでは十一人ということですから、このキリストの弟子たちに強い権威を与える働きがあった、とは考えられないでしょうか。
キリストを最初に「信じた」のは、この弟子たちとなるのです。これまでの目撃者たちは、ただ見たことを報告したに過ぎません。見たことを知らせたに過ぎないのです。しかし、ここでは次に示すように、イエスは宣教命令を下します。見たには違いませんが、ここでイエスを伝える使命を与え、その権威を保証することを告げるのです。「信じる者には次のようなしるしが伴う」(マルコ16:17)とあるのは、この弟子たちをおいてまずはほかにありません。事実、使徒言行録においては、ここにある叙述が悉く実現しているのを私たちは見ることになるのです。すでにその伝承も十分定着していたという時代だったのでしょう。
やはり彼らの言うことも、他の弟子たちには信用してもらえません。
それから「十一人が食事をしているとき」(マルコ16:14)のことが書かれています。「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」(マルコ16:14)とありますから、ユダを除く十一人の弟子たちが、咎められているように見えますが、ここには、「信じなかった」の言葉がありません。もとより、他人からの伝聞ではなく、その目の前に直に現れたのですから、信じないはずがない、ということも言えますが、逆に、あくまでもここでは十一人ということですから、このキリストの弟子たちに強い権威を与える働きがあった、とは考えられないでしょうか。
キリストを最初に「信じた」のは、この弟子たちとなるのです。これまでの目撃者たちは、ただ見たことを報告したに過ぎません。見たことを知らせたに過ぎないのです。しかし、ここでは次に示すように、イエスは宣教命令を下します。見たには違いませんが、ここでイエスを伝える使命を与え、その権威を保証することを告げるのです。「信じる者には次のようなしるしが伴う」(マルコ16:17)とあるのは、この弟子たちをおいてまずはほかにありません。事実、使徒言行録においては、ここにある叙述が悉く実現しているのを私たちは見ることになるのです。すでにその伝承も十分定着していたという時代だったのでしょう。