若者は続けます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」(マルコ16:7)と、このことを証言するように促されます。弟子たちという言い方に加えて、ペトロという名前が見えます。マルコが、ペトロから託されてこの福音書を仕上げているとすれば、ここにペトロの名を記すのも分かるような気がしますが、それ以上に、このペトロの歩みは、クリスチャンにとって、重く受け止めるべきものがあるのも事実でしょう。とくに、三度主を否んだそのエピソードは、イエスの赦しを示すとともに、私たちの心に深く刻むべきものとして示されました。ヨハネの福音書は、これを最後にとことん追及して描いています。
弟子たちに、何を告げよと言っているのでしょうか。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(マルコ16:7)
この墓にはおられない。それでは、栄光の主は、どこにいるのか。ガリラヤだといいます。たしかに、14章で、イエスは、復活の後にガリラヤへ行く、と口にしていました。しかし、その内容は誰の目にも隠されていました。今それが実現するというのは分かるとしても、それがどうしてガリラヤなのでしょうか。これは、マルコによる福音書の重要なモチーフとなっているかもしれません。どうしても、それはガリラヤなのです。
それは、私たちがこのマルコの福音書の、最初の場所に戻ることになるからです。私たちは、イエスに出会わなければなりません。読者の立場からすると、もう地上で活動していたイエスその人に会うことはできません。ですが、その地上のイエスに、確かに出会わなければならないのです。イエスに出会うというのは、ガリラヤから歩き始めた、この物語の中のイエスと、読者一人一人が、直接出会う体験をしなければならないのです。
しかも、この復活させられたイエスは、私たちの先に行かれます。イエスは、私たちに先立って歩まれているのです。まるで、羊たちの先頭を牧者が歩むように、弱く知恵のない私たちの先頭を、イエスが歩んでおられるというのです。
このことは、かねてから言われていました。その約束のとおりのことが起こります。そこで、イエスに会えるのです。この福音書の最初に戻り、福音のはじめと称されたそのガリラヤからの歩みを、イエスに従って行くとすれば、私たちは誰でも、イエスに会い、しかも従っていくことができるのです。
このこと全体が、まさに福音となるのです。
弟子たちに、何を告げよと言っているのでしょうか。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(マルコ16:7)
この墓にはおられない。それでは、栄光の主は、どこにいるのか。ガリラヤだといいます。たしかに、14章で、イエスは、復活の後にガリラヤへ行く、と口にしていました。しかし、その内容は誰の目にも隠されていました。今それが実現するというのは分かるとしても、それがどうしてガリラヤなのでしょうか。これは、マルコによる福音書の重要なモチーフとなっているかもしれません。どうしても、それはガリラヤなのです。
それは、私たちがこのマルコの福音書の、最初の場所に戻ることになるからです。私たちは、イエスに出会わなければなりません。読者の立場からすると、もう地上で活動していたイエスその人に会うことはできません。ですが、その地上のイエスに、確かに出会わなければならないのです。イエスに出会うというのは、ガリラヤから歩き始めた、この物語の中のイエスと、読者一人一人が、直接出会う体験をしなければならないのです。
しかも、この復活させられたイエスは、私たちの先に行かれます。イエスは、私たちに先立って歩まれているのです。まるで、羊たちの先頭を牧者が歩むように、弱く知恵のない私たちの先頭を、イエスが歩んでおられるというのです。
このことは、かねてから言われていました。その約束のとおりのことが起こります。そこで、イエスに会えるのです。この福音書の最初に戻り、福音のはじめと称されたそのガリラヤからの歩みを、イエスに従って行くとすれば、私たちは誰でも、イエスに会い、しかも従っていくことができるのです。
このこと全体が、まさに福音となるのです。