墓へ行ったのは、マルコによると三人です。ルカでは女性たちの人数は不明。もとより名前を記していないのですから、分かりません。ヨハネはマグダラのマリア一人にその役割を任せています。これはヨハネの主旨からして当然のことでしょう。そしてマタイでは、三人のうちサロメが退いて二人となっています。実のところ、一定していないのも問題です。
マタイは「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」(マタイ28:2)と描きます。ユダヤの黙示的伝統に従うのか、マタイの表現は私たちから見るとかなりオーバーなふうに見えます。石がすでに動いていたというのがマルコの説明でしたが、マタイはこれを地震という現象で説明しています。それは主からのものであり、黙示的な表現だと言えるでしょう。「天使」という表現を使うのもマタイ独特です。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」(マタイ28:3)というのも、やはりマタイ独自で、終末の姿を描こうとしているための工夫です。そして、先にユダヤ側の番兵を置いていた背景がマタイにはありますから、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(マタイ28:4)という点にも触れられています。マルコでは、女性たちが震え上がったのですが、マタイはそれを番兵の役割に換え、女性たちはマルコのように黙ることなく、弟子たちに知らせる働きを果たしています。しかも、そこには喜びがあったとさえ記されています。
マタイは「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」(マタイ28:2)と描きます。ユダヤの黙示的伝統に従うのか、マタイの表現は私たちから見るとかなりオーバーなふうに見えます。石がすでに動いていたというのがマルコの説明でしたが、マタイはこれを地震という現象で説明しています。それは主からのものであり、黙示的な表現だと言えるでしょう。「天使」という表現を使うのもマタイ独特です。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」(マタイ28:3)というのも、やはりマタイ独自で、終末の姿を描こうとしているための工夫です。そして、先にユダヤ側の番兵を置いていた背景がマタイにはありますから、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(マタイ28:4)という点にも触れられています。マルコでは、女性たちが震え上がったのですが、マタイはそれを番兵の役割に換え、女性たちはマルコのように黙ることなく、弟子たちに知らせる働きを果たしています。しかも、そこには喜びがあったとさえ記されています。