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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

🌿 平安貴族の邸宅と庭園 🌷

平安貴族と言えば「藤原氏」の名が上がるかと思います。(^。^)

源流は、中大兄皇子(のちの天智天皇)と共に大化改新を成し遂げた「中臣鎌足」が授かった「藤原」の氏姓だそうです。(^-^)

平安遷都から12年後の806年、桓武天皇が崩御され、皇子の平城天皇が即位されたものの、病のため在位三年で実弟の嵯峨天皇に譲位して奈良の平城京に移ったのです。(^_^)

しかし、その後、まもなく、藤原式家の藤原仲成と薬子の兄妹が、平城上皇と共に平城京への還都を企て、失敗します。(≧∇≦)

著名な「薬子の変」ですが、この後、令外官として「蔵人所」が設置、蔵人頭に藤原北家の「藤原冬嗣」が任命されました。(^-^)

冬嗣の子「藤原良房」は初の太政大臣・摂政となり、養子の「藤原基経」は初の関白になるなど、他氏排斥を進めながら、摂関政治を欲しいままにしていきました。( ; _ ; )/~~~

彼らは、大内裏に近接して寝殿造の大邸宅を設け、極楽浄土を願った庭園を作ったのですが、先の冬嗣は「閑院」、良房は「東三条殿」、基経は「堀河院」(堀河天皇の里内裏)、道長は「土御門殿」と「法成寺」、頼通の「高陽院」(かやのいん)など、それはそれは多種多様で、平安貴族の豪奢な暮らしぶりが窺い知れます。(^。^)

時の天皇も、嵯峨天皇が、のちの大覚寺につながる「嵯峨院」をはじめ、大内裏の南、朱雀大路に面して広大な「朱雀院」を設けました。(^-^)

現在の大覚寺の大沢池は、嵯峨院の園池を引き継ぐもので、中国の洞庭湖に倣った人工池。藤原公任ゆかりの「名古曽滝」は、「後宇多上皇」の御所造営に伴い改修されたものだそうです。( ^_^)/~~~

    「閑院の東三条堀河の
            高陽朱雀にて仰ぐや浄土」

by 祖谷馬関

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