見出し画像

我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

🏞 琵琶湖疎水、山穿つ ⛰

琵琶湖疏水、、、明治2年に東京へ都が移り、産業も急激に衰退し、人口も急減した京都を復興させるため、産業振興を目指して計画された屈指の巨大事業でした。
種々の困難や障害も非常に大きなものでしたが、事業の主唱者である北垣国道知事をはじめ、工事を担当した田邉朔郎、測量技師長の島田道生らの、いかなる困難をも克服して疏水事業を完成させるという強い決意のもとにこの事業が成し遂げられました。(^。^)
我が国の重大な工事は外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって、すべて日本人の手によって行った我が国最初の大土木事業であり、歴史的変遷に伴い利水の用途に変更があったものの、今日においても約147万市民の上水道の水源や水力発電のほか、多目的利用がなされています。(^-^)

当時、市の年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業の主任技師として北垣知事に選ばれたのが、工部大学校(現在の東京大学)を卒業したばかりの青年技師「田邉朔郎」(採用当時は満21才)でした。
 日本人の技術で行う土木工事としては、今までに例を見ない大工事であり、当時の未発達な土木技術や貧弱な機械・材料に悩まされながら工事を進めました。工事の遂行に当たっては、ダイナマイトとセメント以外の大半の資材を自給自足し、夜に技術者を養成、昼には実践するという現代ではおよそ想像もつかない努力の積み重ねでした。( ; _ ; )/~~~

疏水計画は着工前後に何度も変更されましたが、最も大きな変更は、工事の途中で田邉朔郎ほかが水の利用方法等について米国へ視察に行き、水力発電の実用化に踏み切ったことです。
明治24年、蹴上に日本最初の事業用水力発電所が稼働したことは、我が国文明史に大きな足跡を残しています。( ^_^)/~~~

(参照)琵琶湖疎水記念館、京都市上下水道局資料

    「山穿つ若き技師の背潔し
                疏水の脇に咲く花の色」

by 祖谷馬関




名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る