岩井ジョンの旅行記

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仏様のお話   

2022年11月09日 07時40分28秒 | 西法寺
     「えらばず    きらわず みすてずに 」

  最近はめっきり聞かなくなってしまったが、母親のことを 
「おふくろさん」とよんだのは一昔前の事だろうか。東井義男先生は、
この「おふくろさん」の「ふくろ」とは、巾着袋や信玄袋といった類の
「袋」からきていると言われる。袋は、中に入れる物に合わせてその
形をかえる。丸い物入れれば丸くなるし。四角物入れれば袋は四角になる。
つまり、おふくろさんは、その子供がどんな子供であっても、その子供
の形に合わせて全てを包んでくれろのがおふくろさんだ。
 だから、昔のお母さんは「ふくろ的おふくろさん」だったと言われる。
 それに相反して、現代のお母さんたちは、「トランク的ママ」だと指摘
される。トランクはこの箱を入れて、あの箱を入れる、もう次の箱は入ら
ない。形の歪なものだと蓋が閉まらない。
 つまり、自分の大きさに相手を合わさせる。そして合わない物は締め
出される。締め出された子供たちは、虐待を受けている子供たちなのこ
とだろうか。

  阿弥陀様の光は、この子を照らすが この子は照らされない事はない。
えらばすきらわずみすてずに「おふくろさん」の心でどんな形でも
寄り添い包み込んでくれるのである。


仏様のお話   

2022年09月24日 07時12分24秒 | 西法寺
    ほとけさま の おはなし 
     「地獄の食堂  極楽の食堂 」
      こんなお話があります。
  地獄と極楽(お浄土)には、それぞれの食堂があり
 どちらの食堂にも同じように、まんなかには、大きな
 テーブルがあって、ご飯の時間にはごちそうが並びます。
  ただ、どちらの食堂でも同じように、自分の背丈よりも
 長い長いお箸で、それらの御馳走を食べることになっている
 のです。さて、ご飯の時間になれました。
  地獄の食堂では、
  みんながみんな、自分が一番最初めにごちそうを食べようとします。
 ところが、長いはしで御馳走を食べよとします。ところが長い箸で
 御馳走を取ろうとすると、ほかの人にぶつかってしまい、あちこちで
 ケンカがはじまります。何とかつかんでも自分の口のに御馳走を入れらず  
 にこぼれてしまいます。お箸が自分の口に届くように先の方を持ってみる
 と、重くて重くて思うように使えません。ご飯の時間が終わると、御馳走 
 はテーブルの上から消えなくなりました。そして皆のお腹がペコペコこの  
 まま、食堂を出ました。
 
   極楽の食堂では、
   みんながみんな、お互いに順番にご馳走をつかみます。そして、お箸  
  が丁度届くところにいる人の前に「おいしいそうです。どうぞ」と運び
  ます。みんなで御馳走を分け合って食べました。ご飯の時間が終わると
  御馳走はみんなのおなかをいっぱいにします。そして、みんなニコニコ
  して「ごちそうさま」と言って、おいしかった御馳走の話をしながら
  食堂を出ていきました。
     さて、あなたが座るは、
        地獄の食堂でしょうか

     それとも
        極楽の食堂でしょうか
         

   

仏様のお話   

2022年09月02日 08時36分33秒 | 西法寺
        「ボーッと 生きても いいんだよ」
  NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」のきめせりふ
 「ボーツと生きているんじゃねーよ!!」の正反対の意味です。
        以前、報恩講の法話にきてくださっていた松井憲一先生が
 「この場では聞いて忘れて、眠っていてもいいのてすよ」と
  おっしゃっていました。「仏様のいる本堂で眠るなんて!!」と
  思われる方もいるかもしれませんが、どうしてこのようなことを
  おしゃたのでしょうか?

              「阿弥陀様を信じるいうことは
     阿弥陀様のまえで 1人の赤ん坊になる事」
  だとおっしゃいます。母親に一切の責任をまかせている
 赤ん坊は寝たいときに寝ます。赤ん坊の様子を見ると
 あれこれと考えるのではなく、「ボーツと生きていても
 いいんだよ」という言葉の意味する体現しているように
 思えます。
  赤ん坊は、親「阿弥陀仏」の前でかしこまることはありません。
  取り繕うこともありません。
  ボーツしていてもそのまま救ってくださる温かくて有難い仏様が
  いることを忘れないで頂けたらと思います。
                     南無阿弥陀仏
         


ほとりさま の おはなし  

2022年08月22日 07時57分24秒 | 西法寺
 ほとけさま の おはなし

          ウサギと雲             
                         昔むかし、一匹の🐇がいました。
      
   彼は目先がきいたので、秋の間ずっと木の美を集め
  冬に備えました。あつめた沢山の木の実を山の中にかくそうと
 思い、隠し場所を忘れないように何か目じるしがないかと
 探しました。ふと見上げると空に雲が見えました。
 ウサギは、この雲を目じるしにしようと考えました。
  そして、冬、雲が動くことを知らなかったウサギは
  目印を見失い、備えをすべて失っていました。
 
     これは古い仏教説法です。
   「人生の生きがいとは何でしょうか?」
  と尋ねた人に対して、お釈迦様はこの説法でこたえられた
 そうです。ウサギは、鏡に映った我々の人間の姿です。
  不確かなもの、不安定なもの、変わってしまうものを
  人生の目印にしてしか生きられないものです。

  ある書物に、とある新聞社が行ったアンケートの結果がでて
 いました。アンケートの内容は、「私たちの人生にとって一番
 大切なものは何でしょうか」という質問でした。
 アンケートは三位まで書かれていましたが、一位は健康
 二位は家族、 三位はお金だったそうです。まさにわれわれ
 の日常心が表れています。健康や家族やお金が大事ではない。
 必要ないというの言うのではありません。こういったものは
 生活していく上において非常に大事なものばかりです。
  しかし、こういった一番大事だと思い、人生の目印にしていると
 こういったものの有無が幸福を量る、もっと言えば人生の価値
 を量る物差しになってしまわないでしょうか。
       そして、その物差しを持たないものはかわいそうで哀れな
 人と侮辱します。また、自分自身が生きる目的を見失たっと時自分
 不幸であり生きる価値がないと、自分で自分を見捨ててしまいます

 お釈迦様は、人間として生きるという現実を誰よりも苦悩された人
 なのです。
 そしてわれわれの人間の苦悩を誰よりも悲しんでくたさったのです
 だからこそ、我々人間に教えを説いてくださったのです。
 仏教が立派で高尚な教えだから聞かねばならないのではありません
 仏の教えに出合わねばならないものを我々が抱えているから自分の
 問題にきづくことができない。
    だから、教えをきくのです。 


『愚かになって下さい』

2022年06月10日 08時08分23秒 | 西法寺
      『愚かになって下さい』
 ある仏教系の大学の入学式でこのような挨拶がありました。
   「君たちは愚かになって卒業してください」 
 勉強して、愚かになるという事はどういうことなのか?
  学校だったら、「普通は賢くなれ」と諭すものだろうに。
 この話はさらにこう続きました。
  「仏教の教えに関する知識をいくら増やしてもだめです
 それが自分の問題として受け止められなければ、いくら
 仏教を学んでも愚かになれず、ただ賢くなるだけ」
  ますます混乱しそうですが、それはつまり「自分の
 愚かさを自覚できる人、見つめられる人になって下さい」
 という意味です。
  仏教の教に詳しくなったことを鼻にかける人をたまに
 見かけますが、それは決して仏教的な態度ではありません。
  学んだ教えをひけらかすのではなく、教えを咀嚼し、自分の
 考えとして吸収していくことによって、愚かになる「自分の
    愚かさを自覚する」これが大切なのです。



仏様のお話                    

2022年05月09日 07時45分50秒 | 西法寺

 『信じるとは、ありのままを受け止められる
      揺るがない自分がいること』
                ★芦田愛菜
  女優の芦田愛菜が以前テレビの番組での出られた
 時の言葉です。
  『信じる』について、何か答えが見つかりましたか?
   との質問に対してのコメントです。

  『その人の事を信じようと思います』っていう言葉
 よく使う思うんですけど、『それってどういう意味
 なんだろう』と考えた時に、なんかこう その人自身
 を信じているのではなくて、『自分が理想とする、
 その人の人物像みたいなものに期待してしまっている
 ことなのかなぁ』と感じて。
  だからこそ人は、「裏切られた」とか「期待していたのに」
 と言うけれど、別にそれは、「その人が裏切った」とかいう
 わけでもなくて、「その人の見えなかった部分が見えただけで」
 あって、その側面が見えた時に「あっ、それもその人なんだ」と
 受け入れられるというか、受け止められる「揺るがない自分が
 いる」と言うことが「信じる」ということなのかなと思った。
    
    すばらしい洞察力です

  確かに私たちはたいて他人の見たいところだけ見て
 その部分に期待をかけることを『信じる』と叫んでいます。
  『仏様は、神様を信じる』という言葉も自分にとって
 都合の良い期待『欲望』を託す時に用いていませんか。
  私たちの『信じる』とはどこまでも自己中心的な部分
 から離れられないものです。

    『信じる』とは、どういうことか?
   改めて考えるご縁にしていただけたら・・・
                南無阿弥陀仏

        

仏様のお話 西法寺                   

2022年04月17日 07時25分12秒 | 西法寺
   ほとけさま の  おはなし 
 
  人間として育つには、人との出会いがとても大切です。
 かつては大家族であった家庭も、今は核家族が支流となって
 います。その核家族も、親が共有する時間が充分あるかと言
 えば、子供の思春期には、親は社会的に大変忙しく、関わる
 事が希薄になっていることが多いようです。
 だから、本当に大切なことを知らない、伝えてもらっていな
 いない事が沢山あります。

  ゆうたくんは、お風呂に入ってお湯につかると、亡くなった
 お爺さんのマネをして『ごくらく、ごくらく』と言います。
 すると、優しいお爺さんの顔が浮かんできて、ちょと悲しい
 けど、とても幸せな気持ちになれます。園に出かけるときも
 帰るときも、お風呂に入る時も、寝る時も、いつもいっしょ
 だったお爺さん。
  ある日元気になって戻ってくると言ってたのに、病院から
 仏様のくにへ行ってしまいました。
        お爺さんは、お風呂につかる時、口癖みたいに
     『ごくらく、ごくらく』といいます。
     ごくらくって、なに? たずねたら
      『幸せな気持ちになることだよ』
       と教えてくれました。
  そのお爺さんが、残してくれたのは
 『ごくらく、ごくらく』という言葉から広がる、
 優しさと悲しさの中にある幸せな世界との
 出会いでした。
 
  これは、ゆうた君とお爺さんの生活の中で人と人が
 敬いあい、そこに包みこまれるような安心感が
   『ごくらく』として表現されているのでしょう。
   『仏仏相念』お互いに念じあっている世界を
   教えてくれるお話です。
  



仏様のお話   

2022年03月18日 10時14分29秒 | 西法寺
       ほとけさま の おはなし

     らくご【寿限無】
 【寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末、
   食う寝る処に住む処・・・・・
  生まれた子供に名前を付けてもらうと和尚さんに相談に行った父親は
 縁起のいい言葉を色々教えてもらったのはいいけれどと、それを全部
 つけて長い長い名前にしてしまう。
    落語の寿限無である。
  これは笑い話なので、常識はずれの名前を付けてしまつて大変なこと
 になるのだが、考えてみればあの長い名前も、根っこのところには我が
 子に幸せになってほしいという親の願いがある。
 
   名前とは、単にそれぞれ区別する記号ではない。
   名前には、願いが込められている。 
 
  たとえどんな名前あっても、小学校の先生がクラス名簿などを
 見ていると、どう読むか見当もつかなにい名前が最近多いことに気づく
 らしい。「キラキラネーム」というそうだ。
 「空気」とかいて「クッキー」、「光宙」で「ピカチュウ、」
 「希星」で 「キララ」などびっくりするような名前が実際にあるようだ
  これも親の願いを込められた名前だろうと思いたい。
  もかしたら、なーんに考えていないのかもしれない。

  阿弥陀仏は
   全ての人を救いたいという願いを起こし仏となられた。
   だから私たちはその名を呼ぶのだ。
     そこに込められた願いそのものを受け止めて、
     親の呼び声に応える子のように
     「南無阿弥陀仏」と応答するのである
                       


仏様のお話   

2022年02月20日 07時42分11秒 | 西法寺
 西法寺さんから頂いた仏さんのお話
 
    家族と過ごすと   親から愛されること
     今生きていること   当たり前なんてない

  日々忙しく過ごしていると、周りのものがしっかり見えなくなり
 がちですが、私たちは毎日、実に多くの人や物に支えられながら生
 きています。みなさんはそれらが当たり前になってしまい、大切な
 物が見えなくなっているのではありませんか?
                かくしゃ
  さとりを開かれたお釈迦様は『覚者』とも表現されます。
 英語でいえば『awakened one』(目覚めたもの)つまり、すべてが
 見えている存在です。
 いる




仏様のお話   

2022年01月28日 13時59分15秒 | 西法寺
  
 
     ほとけさま の おはなし
                      西法寺さんから
      「じゃけん・邪見」
 
 学校の運動場は、場合によって広さが変わることはありませんか。
休み時間に、皆でボール遊びをする時はとても狭く感じた運動場が
草むしりをする時はすごく広く感じる事はありませんか。
広さだけではありません。時間もそうです。先生にお説教されるとき
は、たとえ10分でも長くかんじます。でも、友達と楽しく遊んでいる
と10分はあっというまです。同じ10分なのに全然ちがいます。
いったいこれはどうしてでしょう。
 私たちの心は本当に都合のいいようにできています。
 私の「心の物差し」も、私の都合次第で目盛りを変えていきます。
 なんていい加減で勝手がいいのでしょう。
 仏様は、私たちに「物事を正しく見るように」と
 教えて下さいます。
 それを 「正見」といいます。 
 だけど、私の眼は私の都合にあわせて見てしまいます。
 先ほどの運動場の広さや時間の長さのようにてす。
 正しく見ていると思っても、しらずしらずのうちに勝手に
 眼鏡をかけて見ています。
  親鸞さまは、仏様の「正見」の教えを通して自らの物事の
 見方を「邪見」と自覚されました。  
  「正見」なんてありえない、
  いつも自分の都合で物事を邪に見ていると
  きずかれました。