岩井ジョンの旅行記

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仏様のお話   

2024年04月08日 09時03分43秒 | 西法寺
       ほとけさま の おはなし
 太郎と次郎が森のなかで遊んでいると、突然
熊が襲ってました。危険を感じた二人のうち、
太郎は素早く傍の木によじ昇りましたが、次郎は
取り残されてしまいました。熊は死んだ物には
興味示さないと聞いていた次郎は、とっさにその場に
倒れ息をひそめました。熊は次郎の体をくんくんと
嗅いでいましたが、そのまま立ち去りました。
こうして二人とも助かりました。
 これは、私が学生のゼミの先生のひとこまです
 「もし君が太郎だったら、その時君はのような
      行動をとったかな?」 
  ★私は、「何とかして二人一緒に避難します」と
  答えました。
その時、先生はかるくうなづいたように記憶
しています。正解だったのでしょうか。
自分の事よりも、皆で力を合わて頑張るべき
だと思います。
 以前、「ホームから転落した女の人を助けるために
自分も線路に飛びおり、女の人をレールの間に寝かせ
自分もホームの隙間に寄って、二人とも助かった。
電車が来るまでの時間はわずか一分だった」という
ニュースがありました。暗いニュースが多い昨今、
本当に心を打つ、感動的なニュースでした。
     

さて、皆さん 先のお話で、
もしあなたが「太郎」の立場だつたら、あなたの行動は
     どうでしょう?
 悲しく情けないけれども、今の私なら「太郎」と同じ
   「行動」しかとれません
仏様の前で手を合わせて、頭を下げて、仏様の心に
導かれて生きるという、親鸞さまの教えを大切にし
ています。
     尚、このお話には、
  「そして熊は次郎の耳もとで、我先に逃げる
  者は、本当の友達ではないよ」とささやいた。
  
  という一文が付け加えられています。



お釈迦様のお話

2024年03月01日 08時27分37秒 | 西法寺
  「往生は一定」・・・おうじょうはいちじょう
                  「歎異抄」より           お釈迦様がブツダガヤで菩提樹のもとで禅定(深い瞑想)に入られた
時、さまざまな悪魔がやってきて、お覚(さと)りを開くのを妨害
しようとした。怖い巨人の姿で脅したり、妖艶な美女となって
もっと楽な道があると誘惑したり。
 お釈迦様は、それを退けられて、正覚を得たという。
 又、有名な二河白道の譬喩にがびゅくどうひゆにも
同様なことが書いてある。
  阿弥陀如来の呼ぶに従って、彼岸へと延びる白い道を渡って
行こうとする人に、悪人や猛獣たちが 
    「そんな怖い道を渡ったら死んでしまうからやめとけ」
        と誘惑する
 考えてみれば誰名も悪魔がいる。よく勉強会や会議などに出ることが
多いが、私は終わったらまっすぐに家に帰りたいが、仲間が寄ってきて
言うのだ「ちょつと飲みにいこうや。」
私はお釈迦様と違って気が弱いので、ほいほいとついて行ってしまう。
こいつらいなければ、私はもっと真面目になれるのに・・・・
と思うのだが、さて、どうだろう。どこに悪魔がいるのだろうと?
  考えるまでもない。私の胸の中にこそ。悪魔がいるのだ。
  私こそが、悪魔なのだ。
    
 
    「 「歎異抄」より・作成しました。」



お釈迦様のお話 NO 2  

2024年01月17日 08時09分07秒 | 西法寺
  『思いわずらうな
        なるようにしかならんから
            今を大切に生きよ』 
                  お釈迦様  NO2
    過去や未来でなく、今の事に集中する事の大切さを説く
 禅の言葉に「前後際断」(ぜんごさいだん)という言葉があります。
  これは、臨済宗の沢庵禅師「不動智神妙録」(ふどうちしんみりょく)
 という書物の中で、言及しており、「前(過去)と今」、今と後(未来)の
 際を切り離して今を生きよ」という意味を含んでいます。
  元阪神タイガースで活躍された「下柳 剛」選手は、不調に陥った時、
 この言葉を前後際断」(ぜんごさいだん)という言葉に感銘をうけました。
  ビッチャーはたとえ失投して打たれたとしても、試合中に一球の後悔
 を決して引きづるわけにはいきません試合は続いています。そこで過去を
 ひきづるわけにはいきません。試合は続いていきます。そこで過去を切り離 
 す強靭なメンタルが常に求められます。
  阪神に移籍してすぐの頃、「下柳 剛」選手は自分のグローブに
  前後際断刺繍して、どうな状況に陥ってもマウンドでその言葉を常に
  見ながら、目の前の一球に全力を尽くすことを心かけたそうです。
   その結果、「下柳 剛」選手は不調を乗り越え、三十七歳の時に
  最多勝のタイトルを獲得します。
    『中部経典』の中に以下のような一説がありす。
  ✿ 過去を振り返るな、未来を求めるな。
  ✿ 過去となったものはすでに捨てられたもの
       一方未来にあるものはいまだに到達しないもの。
   そこで、今ある物をそれぞれに観察し
    左右されずに、動揺せずに、それを認知して
    増大させよ。
      過去や未来にとらわれず、目の前にある
      貴重な一瞬を大切にしながら生活を  
      おくりたいものです。


  、

お釈迦様のお話 NO1

2023年12月22日 08時10分53秒 | 西法寺
 「思いわずらうな
     なるようにしかならんから
            今を大事に生きよ」
                    お釈迦さま

   私たちは時々未来の事考えて、憂欝にります。
  例えば、「老後の生活には、二千万円以上の資金が
  必要」ニュースが流れると、多くの人が焦りまだ見ぬ
  未来を悲観します。
   もちろん二千万円以上必要な方もいるでしょが、
  全ての人がそうとは限りません。しかし、ニュースを
  聞くことによって自分の将来が不安になり、まだ知り
  得ぬ未来に対して、取りこし苦労を強いられるのでのです
   そのような人達の姿を浄土真宗僧侶の大來尚純(おおぎしょうじゅん)
   師は、『幽霊』のようになっている。と指摘していました。
   長い髪を引きずり、両手を前に出して、足がないのが
  一般的な幽霊のイメージだ。
   髪は・・過去へ執着、 手は・・先のことにとらわれて
                 取り越し苦労をしている姿
   足は・・ないのは宙浮いて今がないを表現してしている
  
   幽霊とは、過去や未来にとらわれて、現在を生きていない
  象徴なんですね。
    皆さんは、幽霊に ならず しっかり 今の世界に
    集中して生きる事が出来ていますか。  
     
思いわずらうな    
     なるようにしかならんから
            今を大事に生きよ」 NO1

        次回に続く


仏様のお話「自慢は智恵のいきどまり」

2023年12月01日 08時19分01秒 | 西法寺
  仏様のお話 「自慢は智慧の行き止まり」
               西法寺からのお話
 世の中には自慢話を延々とする人がいます。
以前友人のお寺での掲示板の言葉を「過去を自慢するは
進歩のとまった証拠」としてら、門徒さんから「自慢ばかりして
仕事をしない上司の机の上にその言葉を貼ってやりたい」
との意見を頂いたと話していた。
 自慢話をしている本人は大変気持ちの良い事かもしれせんが、
同じ話を何度も聞かされる方は、たまったもんではありません。
 過去の自慢話「武勇伝や成功物語」を繰り返す人は、過去の特定
の出来事にとらわれ、思いあがってしまうのです。

 「自慢」の「慢」という言葉は、サンスクリット語の「マーナ」
に由来し、仏教で説く煩悩のひとつであり、自己中心的な思い上がり
の心を指したものです。
 
「増上慢」・・ぞうじょうまん という言葉もあります。
これは、悟りを得ていなのに、えたと思い込んで高ぶった慢心の
ことです。

 「智慧」とは、「観」を意味します。
つまり、様々なものと比較することなく、ありのまま物事を見る
事によって正しい智慧をおこし、対象を観ずるのです
 しかし、人間はさまざまな先入観や偏見を持ち合わせているため
ありのままに物事を観察することが困難です。
 そして、心の中に「慢」が存在すると、その見方はさらに大きく
狂ってしまいます。

  自慢とは、非常に強い執着心のことです。
  自分の心が自分自身の観察力に大変大きな悪影響を
  しっかり覚えておきましょう
                       


仏様のお話   

2023年10月16日 08時28分52秒 | 西法寺
      西法寺さんからのお話 

  「こんなに やってあげてるのに」
      それ 相手も 思ってる

  かけた情けは水に流せ。 受けた恩は石に刻め  
 という有名な言葉がありますが、「かけた情けをしっかり石
に刻んでしまう」のが私たちです。
 他人のために何かしてあげることを、仏教では一般的に「布施」と
お布施を言葉で説明するは簡単ですが、純粋なお布施を実践する事は
とてもなく困難です。
 
   それは、なぜか?
 お布施と呼ばれる行為は基本的「三輪清浄」でなければならない
  からです。 

 「三輪」とは、本来 身業(体の動作や所作)口業(言葉)・
           意業(意識や心の動き)の三業の事であり
 
 「三輪清浄とは、三業の全てが清らかに働いてい事を意味
          します。
  これが、お布施の場合は、すも者」施しを受ける者」  
              「施す物を指し、これらの三つが
      清浄であることを、「三輪清浄とよびます。
  「す者」は「してあげた」という執着心をもってはいけません。
  施しを受ける者」も「たったこれだけ?」という欲望にとら
     われてはいけません。
  施す物が盗品などの不純なものの場合も認められないことに
    になっています。
  これらの三つがきっちり成立することによって、始めて「お布施」を
   実践したことになるのです。とはいえ、施す者はついつい
  「こんこなにしてあけたのに」という思いが心に湧いてしまいます。
  この「のに」という見返りを求める気持ちが他者とのトラブルの原因
  になります。
   五~六世紀の頃に数おおくの寺院や仏塔を建て、中国仏教界の
  ために莫大な貢献した簫衍(しょうえん)という梁(りょう)の初代皇帝
  がいました。彼が「これによって自分にはどんな功徳がもたされる
  だろうか?」と達磨大使に質問したところ、達磨大使はたった一言
  「無功徳」と答えたそうです。この無功徳」とは文字どおりなんの
   功徳もないということであり、これは見返りを求めることを買い戒
   めたエピソードとして知られています。
             簫衍(しょうえん)の心の中に「仏教界に対して非常に貢献したのに」
  という気持ちがあったようです。達磨大使の言葉が冷たく響きますが
  仏教ではこれが正解なのです。  
                                         


仏様のお話   

2023年07月21日 08時04分14秒 | 西法寺
   「地獄や極楽は あるのか」
          とある江戸中期の 武士
   かって地獄の話を聞き、地獄絵を見て震えあがった。
  人が数多くいました。幼少期の白隠禅師もそのひとりです。
  のちの臨済宗中興の祖となる江戸中期の禅僧ですが、幼い
  白隠は地獄の事を非常に恐れ、それが仏道に入るきっかけ
  なったそうです。「地獄」にまつわる白隠のエピソードが
  あります。

         1人の武士が白隠のところに来て、「地獄や極楽はある
  のか」と質問しました。その時白隠は「武士ともあろうものが
  死が怖くなったのか?そんなことを気にするとは全く腰抜け
  だな」といったそうてす。その発言に腹を立てた武士が刀
  抜いて切りかかろうとした瞬間、
     それが地獄じゃ!!  
        と白隠は叫びました。その言葉で我に返った武士は正座を
  して頭を下げ詫びるのですが、 その時に
 「それ、そこが極楽じゃ」といったそうです。
   そのやり取からうかがえることは、この世の中にも
 自分の心次第で「地獄」や「極楽」が原出するということです。
  悲惨な事件や事故が起こった時によく、それらの現場はを
 「地獄絵」と表現しますが、私たち人間がこの世界の中で
 地獄を作りです事が数多くあります。
  ロシアのウクライナ侵攻で一年、ウクライナの総司令官は
 10,000人近い兵士が亡くなった。と伝えていました。
  「軍人や武器を手にした人ばかりでなく、なんの罪もない子供
  も犠牲になっている。その数も入れれば・・・」
  間違いなく人類がこの世の中で作り出した地獄といえるでしょう。
  また、広島、長崎、原爆投下もしかりです。
   遠い昔から、世界の至るところで死後の地獄について語られて
 きました。そこでの地獄や地獄絵を空想の産物と一笑に付すことは
 誰にもできます。

  しかし、地獄は現実にこの世界にも存在するこを忘れて
 いけません。
  自分自身がこの世の中で地獄を創出し、それを体験する主体に
 なりうることを自覚しておきましょう。 
  


仏様のお話   

2023年06月02日 13時22分03秒 | 西法寺
      ほとけさま の おはなし

  ごはんは「いただきます」と「ごちそうさま」
  野菜は農家の方が丹精して作ってくれています。
 人間が食べるために作っていますが、それは一つの
 命です。キャベッだって、本当は花を咲かせて種を
 落としたいけれど、人間の都合のいいときに収穫さ  
 れてサラダになったり、焼きそばに入れられたり
  するのです。
  
   お肉だって同じです。人間が食べるために畜産
 農家の方が育ててくださいますが、それはひとつの
 大切な命だからです
  牛・豚だってだって、海を泳ぐだって人間に
 一匹も食べられがってはいません。命をおとして人間に
 食べられるのです。
     それから、命は幾重にも繋がりが有ります。
  例えば私が夜に「マグロ」いただくとします。
 そのマグロは一日にサバイワシ何千匹を食べます。
  サバやイワシは何億ものアミエビを食べます。私の
 食べたマグロは、サバやイワシやアミエビの命を含んだ
 マグロです。私は数えきれない命を頂いているのです。
 人間は食べなければ生きていけません。
  私は目のマグロ命を頂くと同時に サバ・イワシ
  アミエビ命も頂いているのです。
          
   私の体は数えきれない命に満ちています。
  他の命を頂く事しか人間は生きていけなのです。
    だから、食事の時には頂く命を尊び、
      食前には・・【いただきます】
      食後には・・【ごちそうさま】
    と言って食事の意味を考えて
    残さず頂きたいものです。
    
 


仏様のお話   

2023年03月28日 08時17分18秒 | 西法寺
      ほとけさま  の  おはなし
  子どもは「できる」もの ?  「つくる」もの ?
   『雑阿含経』・・読み方 ぞうあごんきょう
雑阿含経』という経典の中に「盲亀浮木」・読み方もうきふぼく
と言うお話があります。
 大海に一匹の目の見えない亀がおり、百年に一度だけ海面に
浮上する。海上に一本の浮き木が波にただよっていて、隅に小さな
穴があり、その穴に亀が偶然頭を入れるという、減多に出来ない事の
例えですが、それほど難しいのが、人の身に生まれさせて頂く事です。

 そもそも私たちは、父親から遺伝(DNA)をのせた二+三本の染色対
と、母親の遺伝子二+三本の染色対が体内で一つになってできた存在
です。
 それは、四十億年前、地球上に生命が誕生した時から、ズーツと進化
してきたものです。その長い長い歴史の中で、生存競争に勝ったものや
その時代時の環境にうまく適応出来たものが、繰り返し繰り返し、この
私に至るまで、創造を絶するほど気の遠くなるほどの歴史をたどってきた
のです。まさに四十億年前からの命の繋がりであり、天災地変や、生命の
危険の下をくぐり抜けて「よくぞ今、ここまで遺伝子が伝わってくれた
ものよ」と、まさに感動てすね!!。
命と言うのは、遺伝子の中で生き続けて、それが次の命として受け継がれて
ゆくのです。命が終わればおしまいということでありません。遺伝子の中で
生き続けているのです。
 最初は、一個の細胞であり、それが体のあらゆるものになってゆく働き
が、全部用意されているのです「それが満能細胞です
 それこそ「有難い」のほかはありません。それを簡単に「子供作る」なんて、
 我々は、人間の力と思っていたら、とんでもないことです。
 だから「お陰様で、この子を授かりました」するべきでしょう。
 もっと言えば「仏様。この子を賜り、ありがとうございます」との
 思いが大事ですね。
              


仏様のお話                    

2022年12月02日 08時37分30秒 | 西法寺
「生きにくい ウイズ コロナ
     心はいつも ウィズ アミダ」
 ウイズ・コロナの状態がな長く続き、さみしさや
孤独感を感じる人が多いのではないでしょうか。
   仏説無量寿経』の中に
  「人、世間愛欲の中にありて
   独り生まれ独り死し、独り去り独りくる」
   とあります。
  新型コロナウイルスによって、人間のそのような
 孤独や本質を改めて感じます。
  普通の生活の中で、人との触れ合い、仕事、趣味
 などによって、孤独を打ち消そうとしますが、決して
 簡単ではありません。孤独な存在である私たちは常に
 寄り添ってくれるのが阿弥陀様です。
  人と密になれなくても、決して独りではありません。 
 いつもそばにいてくださる仏様を心の中で感じながら
 ウィズ・アミダの生活を送りたいものです。