石野真琴のなんでもあり?

多趣味な石野真琴が、普段感じている事、将棋、祭り、甲冑等々、趣味の内容を描きます

福島第一の原発所員、命令違反し撤退

2014-06-04 23:59:59 | 趣味
 東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。それによると、東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。
■所員9割、震災4日後に福島第二へ
 吉田調書や東電の内部資料によると、15日午前6時15分ごろ、吉田氏が指揮をとる第一原発免震重要棟2階の緊急時対策室に重大な報告が届いた。2号機方向から衝撃音がし、原子炉圧力抑制室の圧力がゼロになったというものだ。2号機の格納容器が破壊され、所員約720人が大量被曝(ひばく)するかもしれないという危機感に現場は包まれた。
 とはいえ、緊急時対策室内の放射線量はほとんど上昇していなかった。この時点で格納容器は破損していないと吉田氏は判断した。
 午前6時42分、吉田氏は前夜に想定した「第二原発への撤退」ではなく、「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」
 待機場所は「南側でも北側でも線量が落ち着いているところ」と調書には記録されている。安全を確認次第、現場に戻って事故対応を続けると決断したのだ。
 東電が12年に開示したテレビ会議の録画には、緊急時対策室で吉田氏の命令を聞く大勢の所員が映り、幹部社員の姿もあった。しかし、東電はこの場面を「録音していなかった」としており、吉田氏の命令内容はこれまで知ることができなかった。
 吉田氏の証言によると、所員の誰かが免震重要棟の前に用意されていたバスの運転手に「第二原発に行け」と指示し、午前7時ごろに出発したという。自家用車で移動した所員もいた。道路は震災で傷んでいた上、第二原発に出入りする際は防護服やマスクを着脱しなければならず、第一原発へ戻るにも時間がかかった。9割の所員がすぐに戻れない場所にいたのだ。
 その中には事故対応を指揮するはずのGM(グループマネジャー)と呼ばれる部課長級の社員もいた。過酷事故発生時に原子炉の運転や制御を支援するGMらの役割を定めた東電の内規に違反する可能性がある。
 吉田氏は政府事故調の聴取でこう語っている。朝日新聞社

 東京電力の職員と言っても命は惜しいわけで、初めての原発事故に遭遇し、命の危険を感じて逃げたわけです。
 だけども「しかたがない」では済みません。
 なぜなら、東京電力も原子力を推奨してきた、日本国政府と一緒に推奨してきた会社であり、それで飯を食ってきた存在だからです。
 自分は東電の味方をするわけではありませんが・・・、この時期に当時は「原子力安全・保安院」現在は「原子力規制委員会」となっていますが、その職員らが福島第一から福島県庁へ逃げています。
 当時、今でもそうでしょうが、原子力発電所には規制担当官庁から数名の担当官が派遣されています。
 事故が起きれば、この担当官らは政府に様々な情報を報告する義務があるのですが、福島第一発電所の大事故が発生してすぐに、福島県庁に逃げたために情報が混乱してしまいました。
 福島第二に逃げた東京電力職員と福島県庁に逃げた原子力安全・保安院の職員、どちらも同罪であると言えます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿